鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

壁と言葉、あるいは日々を生きることについて

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 パリと聞いて、何を思い浮かべるだろう。凱旋門エッフェル塔セーヌ川。ぼくは曲がりなりにもミステリファンなので、パリと云えば矢吹駆を思い出す。アパートではなくアパルトマン。アリバイではなくアリビ。ニューヨークやロンドンは小説で読み慣れているおかげか、なんとなく身近に感じるけれど、反対にパリは異国の都市だ。それはまったくもってぼくの知識不足と想像力の欠如のためであり、ニューヨークやロンドンにしたところで同じだろう。つまり、いずれもぼくの頭のなかのイメージに過ぎない。けれど誰しも、都市に抱くイメージと云うものがあるはずだ。京都の十字路。東京の平地。都市はあまりに複雑な現象で、イメージがなければ捉えることができない。



 いずれにせよ佐伯祐三にとってパリのイメージは、壁と文字の街だった。
 この早世の画家の活動は五年ほどの短期間に凝縮され、そのなかで著しい変化を遂げている。わけてもパリに渡ってからは画風をがらりと変え、暗い絵の具によって写実性よりも幾何学的な構図や揺れうごく線を描くようになる。この間、彼が集中的に取り組んだ題材こそパリの街、その壁と文字だった。画家は絵の具を塗り重ね、あるいは削り取りながら、街の壁に堆積し、刻みこまれた時間と生活の質感を描画する。その上には文字が書かれる。ポスターの文字。看板の文字。壁に直接書きこまれた文字。それは遠目から見てもはっきりと文字とわかり、図像として風景に溶け込むことなく、キャンバスの平面に浮き出ている。壁は壁だけで雄弁に語り、壁とそこに書かれた文字は関係がない。広告や名前とはそう云うものだ。言葉はつねに、事物の表面にある。佐伯がこの時期惹かれていたのは、こうした壁と文字のテクスチャーだったのだろう。
 中之島美術館で実物の絵を見たとき、ぼくが何より圧倒されたのは、パリ時代の絵の質感だった。ほどけるように崩れかかった文字も、壁の表面を塗っている絵の具も、樹々や人びとの影も、この平面のうえでは等しく線として、微妙に揺れながら引かれている。ぼくの眼はその線のうえをなぞる、と云うか、飛びこむ。画家は見たものをキャンバスに写し取っているのではなく、線を描いている。描くことによって見ている。いや、違うな、描くことのなかで見ている――、と云うか、それらはつまるところ同じことになっている。そう、佐伯は、生きながらにして描いている。
 佐伯はフランスに滞在中、死の直前まで描きつづけ、厖大な作品をものした。けれどもその筆致からは、生きているあいだに描ききろうと云うような、安直な物語は読み取れない。むしろ佐伯は郵便配達夫や扉など、新しい題材を見出すことで、さらに作品を描こうとしていた。彼にとって結核による死は、ぷつんと糸を切るように、出し抜けで不本意な終わりだったのではないか。少なくとも彼の絵画はどこかの到達点を目指すようなものではなく、生きられながらに描かれつづけるものだった。ぼくはそう見た。いや、そう見ていた。そしていまも、こうして見ることを書くなかで、見つづけている。



 佐伯が没してから40年後の1971年、もうひとりの〝見る者〟が、パリで厖大な作品をものした――写真家の中平卓馬だ。いや、作品と云うのは違うかも知れない。パリ郊外の植物園で開かれたビエンナーレに参加した際、彼は「作品」を出品しなかった。代わりに彼はビエンナーレの開催中、当地のパリで写真を撮りその日のうちに現像して展示した。《毎日ホテルからパリの町へ出てゆく。テレビを見、新聞や雑誌を見、流れる人々を見、そしてビエンナーレ会場で他の作家の作品を見、そしてそれを見る人々を見る》。展示枚数は1500枚に及ぶ。そこで目指されたのは、中平が突きつけられた現実を、写真を介して観者に突きつけることだった。

 おそらくぼくの表現とは、展示され、堆積された写真の山ではなく、写真を撮り、現像し、郊外にある会場にかけつけ(ちょうどパリの地下鉄ストライキに出会い、タクシーで、ある時にはヒッチハイクまでして会場にたどりつくこともあった)、展示するというほとんど徒労に近い行為の全域を含んでいた。それは見方によってはわれわれひとりひとりが、日々を生きるその無償性、無目的性にきわめて近似したものである。
――中平卓馬「写真、一日限りのアクチュアリティ」(以下、出典同じ)

 個人を呑みこんでゆく現代社会のなか、個性を発揮する芸術表現は行き詰まると感じた中平は、現実に対しておこなう内面の表現ではなく、現実そのものの表現を求めた。壁に展示された写真は、中平の内面を語らない。表現されているのは中平がその日見たものであり、その日限りの偶然、この無目的な現実である。ここには一見すると、芸術によって表現されるべき個性はない。しかし、だ。《だが日々を生きるということは、》と中平はつづける。

 だが日々を生きるということは、つまり日々自らを新たなる自己として表現し、実現し続けてゆくということなのではあるまいか。すくなくとも、表現とは、予め捕えられたなにがしかの観念なり、イメージなりを図解して見せることではない。表現するということ、それは日々みずからを創造するということである。

 生きること。見ること。撮ること。つくること。それらはここで一致している。もちろん、こうしてそれを語ることも。中平はビエンナーレを振り返ったエッセイを、こう締めくくっている。

(…)文章を書くということ、それはこれまでのぼくにとっては、ちょうど幾何の補助線を引くようなものであった。あえて図式的な断言をすることによって、写真を撮るというまったく理屈を越えた行為をいくらかでも明らかにしようという試みであった。
 だが今ぼくは、この仕事を通じて、少しだけ自分の言うこととやることが一致し始めたことをかすかに感じはじめている。

 その感触は表現する者にとって、堪えられない確信に違いない。
 ――もっとも中平は、言葉と事物とのあいだにある陥穽に躓くかのように一時、言葉を、写真を、記憶を失う。こうしてそれらしい比喩を使って書いてしまうこともまた度しがたいほどに、かくも言葉は事物の表面を滑り落ち、こぼれてゆく。
 生きてゆくことは難しい。全力で生きる、と云うのは。


 

 パリ郊外で起きた警察による少年の射殺は、フランス各地の暴動として広がった。本記事はこのニュースをきっかけとして書かれたけれど、このニュースについてぼくは適切に知ることも、想像することも、語ることもまだできない。不誠実ゆえに言及するべきではないとも考えたし、時期を変えようかとも思った。けれどもひとつの刻印として、ぼくはこれを書かなければならない、と思った。そうすることによってしか、われわれは自らをつくることなどできないからだ。

 生きることは難しい。



 冒頭の画像はwikipedia commonsから引用した。作品はパブリックドメインにある。

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