鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

収集・記憶・物語:あるいは、数字に何ができるか?

 院試に受かった。文転や転学部を目論んだり、休学したり、留年したり、研究室を移ったり、ああでもないこうでもないと迷った挙句、隘路に嵌まって時間の止まったようだったこの数年間の道のりが、ようやく開けたような気がする。道が開けたところでどこにたどり着くのかは見えないし、安堵や解放感はほんの一瞬だけで過ぎ去って、これからもなお続く人生と云う道のりに圧倒されているけれども、まあ、少なくとも歩きはじめることはできたわけだ。
 数ヶ月続いた院試勉強はそれなりに負荷のかかる作業だったが、面白いこともあった。二、三回生の頃の専門科目を復習するうち、当時はその場しのぎの単位のために断片的にしか勉強していなかった知識が急速に体系立てられていったのだ。知識と知識が相互に繋がることで、細部が全体をつくり出し、全体が細部を規定する。ミクロからマクロへ、あちらからこちらへ、そして、こちらからはどこまでだって。
 この数ヶ月で、ぼくはようやく、自分の専攻が好きになったような気がする。
 勉強にあたっては、主に過去の授業資料を用いた。部屋に散逸していたノートをかき集め、実家にしまってあった段ボールを開き、ダウンロードしたまま未整理だったフォルダを片っ端からチェックして。それでも幾らか歯抜けはあるが、すべてをくまなく押さえることはできない以上、手許にあるものから徹底することを心がけた。
 よく保管していたものだ、と自分に驚く。ある意味では当然のことではあるけれど、あらためて机に積み重なったファイルやノート、印刷したプリントの山を見れば、棄てることなく保存することの重要性を実感させられる。その紙束の重さは、時間が止まっているとしか思えなかった、ずっと廻り道をしていると感じていた数年間が、しかし空白ではなかったことを教えている。



 文化人類学者の山口昌男は、それ自体もまた越境的である著書『本の神話学』のなかで、豊かな知的達成をもたらす条件としての図書館――専門分野を越境して拡がる知のネットワークを論じている。アビ・ヴァールブルクからホルヘ・ルイス・ボルヘスヴァルター・ベンヤミン、そしてイサク・ディーネセンのアフリカへ。世界が破裂しそうなほど情報が溢れたとき、境界とされる場所から立ち現れる厖大なアーカイヴ、あるいは一冊の書物。そのあり方を語ろうとして縦横無尽に文献を引用してゆくこの本もまた、知的達成のための実践にほかならない。
 しかし院試が終わってからすぐ、ちょうど発売された同書の増補版を読んでいてもっとも胸を衝かれたのは、附録されたエッセイ「歴史と記憶」だった。山口は『本の神話学』を含めた自身の実践を振り返りながら、さまざまな物語のうちに折り畳まれた記憶について語ってゆく。

情報とは何かということを語り出せばきりがないのですが、自分の育ってきたことでも、自分に対して持っているその人の現在という文脈で役に立つ目録がだいたいあって、その中で我々は生きている。いろいろな経験を過去にするけれども、その記憶というのは断片のままとどまって形を成すことがない。我々の大半はだいたいそういうものに形を与えないまま生涯を終わってしまうことが多いと思うのですが、その情報自体が、我々が体を動かしていろいろなことをやっているうちに勝手に結びついている。各々勝手に結びついて形を成してくることがある。

――前掲書*1

 忘れられた、けれど途切れることのなかった歴史と思いがけない出会いを果たすこのエッセイの結末は、歴史と記憶と云うものについて、畏敬と驚きを覚えずにいられない。われわれはたくさんのことを忘れる。けれども忘れられたことは、決して失われることなく、記憶の奥底で伏流しながら、不意に目の前に現れる。
 個人史や家族史と云ったものは、いまでこそ珍しい実践ではなくなったけれど、それをいまなお問うことができるのは、ひとびとの巧まざるアーカイヴがあったからだろう。すなわち――集めること、記憶すること、物語ること。



 大学院では災害について研究するつもりだと話したら、高校時代の友人に驚かれた。そもそもぼくが理系に進路を取ったこともらしくないことだと驚かれたし、彼はぼくがその選択を後悔して、文転を試みていたことを知っていた。――鷲羽の興味と、災害研究は、結びつかない気がする。
 まあ、自分でも驚いていることではある。
 災害を研究するのは、もちろん気候変動に対する使命感や衝動、行動しないことへの後ろめたさもあるにはある。それにせっつかれて研究室を訪ねたことは間違いなくきっかけだった。けれどもこの分野をともかくもやろうと決めたのは、そこに自分なりの問いが結びついたからだ。
 ひとつには、記憶について。
 災害の対策をすると云うことは、まだ起こっていない、しかし起こってしまえばもう戻れない、一回きりの出来事について考えることだ。もちろん災害はしばしば繰り返される。けれども気候システムが全地球的に崩壊し、きょうがきのうの繰り返しではあり得なくなった――そもそもずっと、そんなことはあり得なかったわけだが――こんにちにおいて、取り返しのつかない一度きりは、至るところで発生し、われわれを先の見えない場所へと押し流すだろう。
 それは一見すると、過去と切り離された場所である。けれども過去とはそもそもが、同じ〝一度きり〟の積み重ねではないか?

一つ一つの出来事が一回きりの、以前にあった「こと」でありながら、同様の「こと」が以後にも繰り返され、繰り返されるだろうと確信される。それが日常だ。

――郡司ペギオ幸夫*2

 そして、日常はもはやない。
 災禍が日常と化し、あるいは日常の失われた災禍において、記録を集めること。厖大な過去のアーカイヴから、なにがしかの記憶を物語ること。そうすることによって逆説的に、過去にあり得なかった未来を考えることはできないか?
 あえて抽象化して云うなら、ぼくは災害の研究に、そんなテーマを見出している。
 


 

未来など恐るるに足りませぬ。この世の真髄は過去という豊穣な海の中にあるからでございます。
――小川哲「時の扉」*3

 大学図書館の地階にある書庫へ降りてゆくと、ひとけのない広大な空間を満たす厖大な書物に圧されて、冷たい空気と、通信が届かなくなる孤立も合わせ、深海に潜るような緊張を覚える。それは不安であると同時に、未知なる書物に飛びこんでゆくちょっとした興奮も伴っている。
 このような〝豊穣な海〟から何が浮かび上がるか。たとえば留年中に読んだ吉川徹朗『揺れうごく鳥と樹々のつながり』は、その副題を「裏庭と書庫からはじめる生態学」として、アーカイヴされていた鳥の観察記録から生態学をやってみせる。その記録は、のちにどんな生態学的価値を発揮するかわかったうえで集められたわけではない。けれどもそうして集められ、記憶された過去は、思いがけないことを物語る。

データや標本からどんなことがわかるのか、あるいはそれがどんな「価値」をもつのかは、それを集めた人にも判断しきれないのはもちろん、現在のわたしたちにも判断しきれない。新しい分析技術や新しい統計手法が出てくることによって、その標本なり観察記録なりのもつ「価値」は大きく変わってくる。また、一つのデータセットだけでは見えてこなかったことが、別のデータセットと組み合わせることで見えてくることも少なくない。つまり、そういったデータたちの「生態系」の中で、個々のデータの意味するものは大きく変化する。
――前掲書*4

 役に立つかどうかさえわからないささやかな事物が集まったとき訪れるもの。ここで著者が「生態系」と呼んだような比喩が許されるなら、同じようなアナロジーとして、次の文章を引いておきたい。

「[…]この町のたくさんのデータを集める。単純な数字がつながって関係のある情報になり、集まって、とつぜん知識とか知恵に変わる瞬間がある。生きものの進化みたいに」
――高山羽根子「オブジェクタム」*5

 豊穣な海から何が現れるか。主体をわれわれに変えても話は同じだろう。そこから何を見出すか――豊穣な海のエコロジーからなにがしかを物語ろうとするわれわれもまた、その海の生態系に組みこまれている。



 書庫の空間がぼくを圧倒するのは、その広さが必然的にもたらす、読み尽くすことができないと云う実感によってだ。では一方で、統計と分析は、むしろそのすべてを読み尽くそうとする挑戦だろうか? コンピュータはその海を数字に変えることで、呑みこむことができるだろうか?
 読むことから遠く離れてコンピュータによって処理する分析を、その実践通りに遠読と云う。いま読んでいるホイト・ロング『数の値打ち』は、近代日本文学を題材に、さまざまな意味で〝遠くから読む〟ことを実践する文学研究だ。しかし本書は決してコンピュータによる処理を過信せず、その冒頭から統計と医療をめぐる論争を引きながら、慎重に検討を重ねる。統計による分析は実証のための実験ではない。数字はひとつの答えを与えない。むしろアーカイヴから取り出される数字もまた、さまざまな解釈の余地が残され、適切な議論を必要とする。ロングは数字の両面性を最初から強調する。数字はあらゆる固有な事物を均してしまう一方で、そうして均されたところから事物の固有性を見出すことができるだろう。
 数字に期待できることがあるとすれば、だからたったひとつの真実を見抜くことではなく、むしろ何が真実とされてきたのか、何がそうさせてきたのか、見落としに光を当て、再考を促し、揺さぶりをかけることだ。

 かくなる飽和が不安を呼ぶのは理解できる。まさに漱石がそうであったし、実を言えば、チャド・ウェルモンが述べるように、近代の研究大学の起源がまさにそうであった。ウェルモンによれば、「近代の研究大学は、一八世紀のドイツ啓蒙の時代におけるメディア環境の構造的変化に対して起こった、制度・機関の反応である」。この時代、多くの人びとは、「本が多すぎる、データが多すぎる」と、印刷物が飽和点に達したと感じていた。しかし、本が多すぎると主張することは、本当は「特定の方法で読むには[…]本が多すぎる」という主張なのだ。ここからわかる教訓は、「情報をふるいにかけて知識を得ることは、常に規範に基づいている。つまりこれは、知る価値があるものは何かという歴史的・文化的前提を常に伴っているのである」。情報過多のいまの時代、何をどう読むべきかをめぐる同じ不安が浮上しているのを、私たちはふたたび目にしている。この不安は、遠読vs精読とか、量的手法vs質的手法といった論争に限定されない。文学を読むとはいったいどういうことかという論争に関わるのだ。どんな作品が評価されるべきか? それをどう評価すべきか? こうしたことを決めにかかるのは誰か? 本書が実例を挙げて論じるように、現在の数的転回が文学の真実に賭けているのは、これらの問いに最終的な解を与えることではない。そうではなく、今日の情報時代を受けてつくれるかもしれない価値共同体の数々を探査することなのだ。つまり、こうした共同体では死角に入ってしまう価値とは何かを理解することであり、ある種の公認の事実だけに解釈共同体をつないでしまったときに見えなくなるものを思い出させることなのである。

――前掲書*6

 ここでロングが触れている情報飽和とそれを背景とする知のシステムの反応・変化は、山口が『本の神話学』で論じ、その解説で山本貴光が述べていることに通じる。厖大な情報が溢れる世界は、モデルを失った世界だ。そのモデルはときに〝大きな物語〟と呼ばれ、さらに遡れば〝神〟などと呼ばれた。われわれはあまりに多くのことを知りすぎたために、天球は壊れ、地図は破れ、世界は粉々に砕け散った。
 数字はこの世界における唯一不変にして絶対のモデルだろうか? そうだ、と云い切るひともいるだろう。数字にはそれができるかもしれない。しかしぼくはそこに真実を賭けようとは思えない。数字にできることはほかにあるはずだ。豊穣な海を貫いてそれだけを海なのだと云い張るのではなく、豊穣な海から何かしらを掬い上げることが。

犠牲者はその死を悼む人々を残していった。殺人者は数値を残した。死亡後、大きな数に加えられることは、匿名性という川に溶け入ることを意味する。死後、たがいに競い合う国家や民族の記憶に組み込まれ、自分がふくまれる数値の一部となることは、個性を犠牲にすることにほかならない。それは、ひとりひとりの人間がかけがえのない存在であるところからはじまる歴史に切り捨てられることだ。歴史は複雑きわまる。それはわれわれみんなが持っているものであり、みんなが共有できるものだ。正確な数値が得られたとしても、われわれは気をつけなければならない。正確な数値だけでは不十分なのだ。

――ティモシー・スナイダー*7

 災害の事例分析を読んでいるとき、死者何名、と云う記述を、どう読めば良いのかいつも迷う。ここでは倫理や道徳、愛が問われている。けれどもその数字の先に、何を見ることができるのかもまた、ここでは問われているだろう。



 災害対策にあたっては、さまざまな解析モデルが提案されている。それは人間を、世界を、この豊穣な海を数字にすることではなく、むしろ、数字によって、複雑で混沌とした災害と切り結び、何かしらを掬い出すことだ。
 注意しなければならないのは、そこでつくりあげられるモデルは世界そのものを規定するわけではないと云うことだ。もっと正確なモデルをつくることはできるかもしれないし、そもそもデータはまだまだ足りない。けれどもいたずらに複雑で、高度なあまり、半ばブラックボックスと化したモデルは、いま、ここで命の危機にさらされるかもしれない人びとに何を物語ることができるだろう? 理屈を理解できないまま、あるいは行動へ落としこめないまま、対策や避難ができないで命を落とす人は「リテラシーがない」から、切り捨てて良い存在なのだろうか? 彼らは知性がないから? では知性とは何なのだろう? 何によって測るのか? 彼らが取りこぼされた網目を編んだのは誰だ? その網目を「科学」と云うのなら、その普遍性を信じることは、無責任の誹りを免れないだろう。
 物語は真実ではない。物語は嘘である。物語に人間は騙される。結構。では、物語以外に何があるのか? 数字は物語からわれわれを解放するだろうか? それとも別の物語へと、われわれを絡めとるだろうか?*8
 数字に何ができるか? それと表裏一体の問いとして――物語に何ができるか?
 エラリイ・クイーンもおそらく囚われたのだろうこの問いに*9、同じような切実さは流石に持ち合わせないものの、考えるだけの価値があるとぼくは信じ始めている。災害を研究しようと思った、これがもうひとつの理由である。――なんとまあ、たいそうなことだ!

*1:『本の神話学〔増補新版〕』(中公文庫)

*2:『創造性はどこからやってくるか:天然表現の世界』(ちくま新書

*3:『嘘と正典』(ハヤカワ文庫JA

*4:『揺れうごく鳥と樹々のつながり:裏庭と書庫からはじめる生態学』(フィールドの生物学)

*5:『オブジェクタム/如何様』(朝日文庫

*6:『数の値打ち』(フィルムアート社)

*7:『ブラッドランド:ヒトラースターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房

*8:まあこんなことを書きつつ、『ストーリーが世界を滅ぼす』は読めていない

*9:詳しくは→https://washibane.hatenablog.com/entry/2022/05/18/21323