鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2022/01/18~2022/01/21

 ミステリーズ新人賞に送るための短篇小説の構想が、いつまで経ってもまとまらない。早いうちに目処を立てて、鮎川哲也賞に送る長篇に取りかかりたいのだけれど。
 有栖川有栖の中短篇集を読んで、〝名探偵〟が登場して腰を据えた捜査をする作品は短くとも中篇の分量が必要だとあらためて実感した。短すぎると性急な感が否めないし、何よりそれはぼくが読みたい=書きたいミステリ小説ではない。
 また、ひとつの着想からロジックを組み立てるような作品も、短篇に向かないし、そんなふうに作られた短篇を読みたい=書きたいとは思わない。この半月ほど、ずっとロジックにこだわっていて、だから構想がまとまらなかったのだろうと思う。
 自分が何を面白いと思い、何を読みたいと思うのか。それを見定めた上で短篇を書きたい。そう考えているうちに、ミルハウザー作品のようなミステリ、と云うイメージがまた自分のなかに膨らんできた。ミステリにならないと思って(少なくとも、ミステリの新人賞に送るよりも創元SF短編賞に送るべきだろう、と云うものしかできない)、いままで一再ではなく棄却してきたそのイメージを、なんとかものにできたなら、自信を持ってミステリーズに送ることができるだろう。
 ……しかし、どうやって?

 本の感想はミステリ研のdiscordサーバーに投稿したものを転載した。

有栖川有栖『絶叫城殺人事件』(新潮文庫)・『暗い宿』(角川文庫)

 続けて読んだのは単に手近にあったからだけれど、後者の解説によればほぼ同時期に発売された2冊らしい。運命的なものを感じる。思えばどちらも〝建物〟と〝夜〟で緩やかに接続された短篇集だ。せっかくなので2冊合わせて感想をば。
 火村シリーズは講談社以外で読め!と云う先輩の助言に従って良かったと思う、棄てるところのひとつもない粒揃い(いままで読んだ国名短篇集は、ファンサービスみたいな作品があったからね……)。個人的な好みはあるとは云え、これだけモチーフを縛りながら、手を替え品を替え楽しませてくるあたり、作者の高い技量と手数の多さをうかがわせる。それはしばしばあざとい程だけれど、一種の〝お勉強〟として読んでいる身からすると感服すること頻りだった。とくに巧いのは『絶叫城』収録の「黒鳥亭殺人事件」。スムーズな導入から徐々に闇を深めてゆく展開、その闇のなかにつかの間浮かび上がる白さがかえって不穏に映る幕切れまで完成された一篇。下手をするとノイズ、あるいは過積載になりかねない〝二十の扉〟クイズの趣向が、かえってサスペンスを高めることになっている。全てを明かしきらずに肝心な箇所を暗がりのなかに留めておくことで、内容も分量も膨らみすぎないよう調節しているあたりも実に巧い。そして〝あざとい〟。逆に技巧の存在を一見感じさせない「ホテル・ラフレシア(『暗い宿』所収)も――曖昧模糊としているからこそ、逆説的に――印象的だ。犯人当てゲームに興じる南国の夜を舞台として、事件らしい事件が最後まで起こらず、どんでん返しがあるわけでもなく、ただ漠然とした高揚感と、そこはかとない昏さを湛えて、物語は幕を閉じる。ラフレシアの華々しいまでの毒々しさを思わせる一篇。
 全10篇を通して思うのは、去年『カナダ金貨』を読んだときにも思ったことだけれど、総じて着想の後処理が抜かりないこと。アイディアを一篇の小説として仕立てるにあたって欠点になりそうな箇所を、逆手に取って作品の主題にまで落とし込んでしまう。たとえば密室殺人に真正面から取り組んだ「壺中庵殺人事件」(絶叫城)は、手間暇かけて実行するには合理性に欠けていると云うトリックの欠点を、わざわざ策を弄して策に溺れる犯人像にまで落とし込み、むしろ探偵側の〝とどめの一撃〟として持ってくるのだから巧妙。トリックのためのトリックと云う点では「201号室の災厄」(宿)もそうだけれど、もうひとつの趣向がそれを無理あるものにさせていない。「雪華楼殺人事件」(絶叫城)の雪密室トリックもまた無理があるが、その無理が通ってしまったことを、物語の哀切な真相に組み込んでいる。掴み所のない事件に素朴なアイディアを仕込んだ「紅雨荘殺人事件」(絶叫城)では、そのアイディアを料理するに当たって、いたずらに複雑化させたり、単純に〝アリバイ〟の問題で終始させたりすることなく、アイディアの骨組みを覆う肉付けを通して、登場人物それぞれの〝場所〟と云うテーマへの思いの違いを浮かび上がらせ、かえって物語の美点にしてみせている。逆に、トリックの難点を処理しきれなかった「異形の客」(宿)などは、いくらアイディアが面白くとも収録作中では評価が一段落ちるか(あそこで、犯人が巧いことやった、と云う以上の説明が欲しかった)。 

 

連城三紀彦『運命の八分休符』(創元推理文庫

 冴えないどころか不潔なのに、妙に美女と縁があって惚れられ続ける男――と紹介すると酷い人物造形だけれど、これを愛嬌ある人物として仕立てられるのも文体のマジックか。そんな軍平青年を主人公とした、良い意味で連城らしさのない軽やかな文体が光る連作短篇。ただし、その結構は申し分なく連城ミステリである。「紙の鳥は青ざめて」のみ創元推理文庫の傑作選で既読。
 連城短篇は個人的に、どうしても〝あ、いまひっくり返ったな〟と云うパフォーマンスが強すぎてかえって短篇として印象に残らないことが多く、幾つか読んでいるわりにろくにタイトルを挙げられないのだけれど、本書収録作はいずれも〝名探偵〟が据えられていることで反転の基準点のようなものがあり、彼の解決を介することで、強いひねりを加えながらも物語自体は動くことなく、要するにちゃぶ台返し的な印象を与えない。各話、事件の真相だけでなく軍平青年の恋の行方と云うもうひとつの軸が据えられていることも大きいだろう。
 表題作は素朴なアリバイトリックを見事な演出と装飾によって魅せる。一見謎めいたタイトルに込められた複数の意味が面白い。「邪悪な羊」は巻末の「濡れた衣装」もそうなのだけれど、発想が非常に面白いだけに分量に対して複雑すぎるのが難点。逆に云えば、軍平青年の恋愛と捜査を同時並行に進めながらこれだけ複雑な真相を展開できるのは技巧の顕れとも云える。そんな複雑さと演出の妙が最も鮮やかに出た「観客はただ一人」がベスト。俳優が自身の人生を舞台にした、その演目の幕切れで命を落とすと云うシチュエーションからして素晴らしい。劇場と云う密室を〝舞台〟としたハウダニットとフーダニットをかき分けて、ホワイダニットから鮮烈な一枚画を浮かび上がらせる。〝マドンナ〟役である宵子も、ほかの作品の〝マドンナ〟のための〝マドンナ〟のような女性とは異なって、男勝りで軍平青年とも比較的対等な付き合いをしており、しかしだからこそ女性であると云うことを(物語のテーマや事件の真相と共鳴させながら)読み手に意識させる忘れ難いキャラクター。いままで読んできた連城短篇でも上位に来る作品です。