鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

日記:2020/04/23

 週末、実家へ帰ることになった。帰ったところで隔離されるらしいけれど。大学もいよいよ閉まるかと云う時勢なので、とは云えありがたい。帰ることができることが。帰ることができる場所があることが。

 

 夕食中、昨年通りであればいまごろは新入生歓迎の季節であることを思いだし、わっと叫びたくなる衝動に駆られる。

 

 飛浩隆のエッセイを読んで泣く。自分でもびっくりするくらいに泣く。ぼくが求めていた言葉があったのだろうと思う。これがぼくの求めていた言葉だったのだと云うことに驚く。もちろん、明るい種々のニュースや希望の言葉も聞きたいけれど、あるいは鼓舞する言葉、慰める言葉も欲しいけれど、しかし何よりも、何か感情を喚起するのでなく、より素朴な、生きてきたこと、生きていること、生きてゆくことを肯定するための言葉を。ぼくは決して、悲しいから泣いたわけでも嬉しいから泣いたわけでもない。

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 似たような涙を知っている。大学受験のとき、合格したことを知っても教師や友人から祝福の言葉をかけられても涙を流さなかったぼくは、まだ合格するのかもわかっていないどころか試験が終わった直後の、帰りの電車で涙した。父からの短いメールを読んだからだ。いつもと変わらない素っ気なさで、短くこうあった。「たいへんよくがんばりました」。それだけで良かった。

 

 『SPY×FAMILY』の単行本を既刊分読んだ。

  付け加えておくと、一筋の物語を書こうとしているのは信頼できる。設定とキャラクターをとりあえず転がして新キャラでマンネリを打破しつつ……、と云う展開は読んでいてつらい。特定のサンデー漫画を念頭に置いているわけではありません。

 そのほか、グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』とジェイムズ・グリック『インフォメーション――情報技術の人類史』を読み進めた。前者は丸谷才一の訳が語彙選択の古さを補って余りあるほど言葉がばちばちと収まって繋がってゆく卓越した文章で、ただでさえ面白い小説がたぶん五割増しで良くなっている。後者はチャールズ・バベッジとエイダ・バイロンと階差機関と解析機関の章を読んだ。これだけで短篇ノンフィクションとしてじゅうぶん面白い。

 

SPY×FAMILY 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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日記:2020/04/22

 眠くて瞼が開かないと云う感覚を昼寝で味わうとは思わなかった。むりやりこじ開けたが案の定そのあとの諸々の調子が良くない。午前中までは本を読んだり図書館に資料を受け取りに行ったりを順調にこなせたのだけれど。とは云えあのまま眠っていたら夕方を過ぎていただろうから、それはあまりにもむなしい。

 なんだか今年に入ってから、時間を無駄にすることへの罪悪感が強くなった。残り時間が意識されるからだろうか。何の残り時間だ?

 

 昼寝から起きてなおしつこい眠気を覚まそうと水を飲み、ついでにまだ洗っていなかったコップを洗ったら水道の様子がおかしい。蛇口のレバーを締め切っているのに水がぽたぽたと垂れ、そのうち止まるだろうと放っておいたが水滴は不規則にシンクをぼんと打ち続け、いったん気になると堪らない。チラシの類いは見境なく捨てるのに水道屋のマグネットだけは取っておいたおそらく入居したての頃の自分に感謝しつつ業者を呼んだ。対応は早く、夕飯後には来てくれた。必要火急のことだからだろうか。

 水道屋のひとと濃厚接触した結果、蛇口丸ごと取り替える羽目になり思いがけない出費が決定された。給付金はぜったいに貰わなければならないだろう。

 住んでいるアパートの種々の設備の古さを感じはじめたきょうこの頃、引っ越しを本格的に視野に入れた。

 追記。濃厚接触と云っても半ば冗談で、お互いにマスクをして距離を取って窓も開けて換気していた。台所の換気扇を回していなかったのは画竜点睛を欠くか。いまさら怖くなってきたぞ。

 

 twitterから一定の距離を置いてきょうで一日。ふとスマホに手を伸ばし、ああアプリは消したんだっけとなること頻繁で、自分の依存ぶりに呆れた。一方でいささかの不便も感じる。1~2週間程度でひとは大体の環境に良くも悪くも慣れると云うし、もうしばらく様子を見る。

 

 ロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』を読み終えた。もう一度書くのは面倒なので読了直後の感想をそのまま引用する。

  これはこれで面倒くさいな。でも次からもこんな感じでやっていくと思います。

 

 

日記:2020/04/21

 昨夜は2時頃まで通話していて、それ自体は非常に楽しかったのだけれど、やはり夜更かしは健康に良くない、寝付きが安定せず、9時に無理矢理起きたが日中ずっと眠気に襲われ、昼寝と呼べる行為を2回もした。寝ていたのは合計8時間程度でいつもとそう変わらないものの、一日の半分を寝て過ごしたような気がする。起きていた時間も半分くらい寝ていたようなものではある。

 

 そんなわけで書くことが特にない。先ほど、スマホtwitterアプリを消去したくらいか。スマートフォンは人間の感情に容易く接続できすぎる、と云うのはひとから指摘されるまでもなくなんとなく感じてはいて、日々信じられない速度で変化する世界で「いま・ここ」を測るための、これはひとつの実験だ。

 それから、まあこれがより大きな理由なのだが、文体がtwitterに引きずられるのが急に怖くなった。以前の文章のカン、言葉が次の言葉を連れてくる感覚、そんなものがあるのかも知らないが、文章の力学とでも云えそうなそれがまったくわからなくなった。わからなくなったのだと気付いたのが、本当に、怖かった。

 

 本はちまちま読んではいるが読み終えられない。いま読んでいるのは、ロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』、ジェイムズ・グリック『インフォメーション――情報技術の人類史』、そしてアンソロジーの『Sudden Fiction 2』、どれも50頁~100頁あたりまで。ボラーニョは明日あたりに読み終えられそう。

日記:2020/04/20

 大学の附属図書館が完全に閉まると云うので、慌てて何冊も貸出申請をした。本当はもっと学科の勉強に必要な本を借りるべきだったのだろうが、気が付けばできあがっていたリストは興味の幅だけは広い飽き性の自分を表したようなそれだった。ちゃんと借りられてちゃんと読めれば感想をここに書くこともあろう。

 

 きょうの散歩は繁華街の方にも足を伸ばしてみた。平日であること、天気が不安定なこともあるだろうが、ひと通りが明らかに以前より少なく、店も幾つも閉まった賑わいのない三条に少しばかり感心するとともに、営業している幾つかの食事処にかえってひとが集まってしまっているのを見ると、やはり自主的な休業を要請するだけではそうなるよな、と改めて確信した。自粛していない店を責めることはできない。

 せっかく三条まで来たので丸善にも寄った。地上階の店は全て閉まっているのに地下の書店だけは営業しているのは異様な光景だ。店内には心なしか緊張した空気に満ちていた。

 

 友人とDMで政治的な話題で会話した。自分からふっかけたようなものなのに、きちんと対応してくれた友人に感謝したい。もはや誰もがそう云う話題から逃れられない以上、友人との間でも意見を交換できるようにしておきたい。

 

 犯人当てについて考えている。一発限定とか、1手詰めとか、呼び方は何でも良いが、どうであれひとつの限定条件で犯人を絞るタイプの犯人当ては、作るのも解くのも比較的易しいがゆえに難しい(ものにもよるが)。

 例えば『探偵学園Q』の、エピソードのタイトルは忘れたが、ディナーが饗された死体が出てくる回。インパクト抜群の事件現場と、そこに隠された取っ掛かり、そこからの論理展開は、独自性があってかつ程々の難易度だったと記憶している。あのようなインパクトおよび独自性を、1手詰めで演出するのはなかなか難しい。

 

 目取真俊『面影と連れて 目取真俊短篇小説選集3』を読み終えた。「面影と連れて」には「うむかじとぅちりてぃ」とルビが振られている。やはり『短篇コレクションI』にも採られたこの表題作は凄まじい傑作だ。読んでいるだけで涙が止めどなく溢れ、イヤイヤするように頭を振って耳を塞ごうとすれども目は頁から離れず歯を食いしばって聞くしかない、そんな、圧倒的な語り。

 

面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ) (目取真俊短篇小説選集3)

面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ) (目取真俊短篇小説選集3)

  • 作者:目取真 俊
  • 発売日: 2013/11/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

日記:2020/04/19

 何もしなかった。いや一応、何かはしていて、天城一の掌篇を音読していい文章だなあと嘆息する一方で音読の下手さに我ながら呆れたり、何を読もうと云う気にもならなくて短篇集数冊をつまみ食いのように読んだりしていた。しかし大半は寝ていたかぼうっとしていた。

 日記を続けてみてわかったが、たぶんぼくにはエッセイストとしての才能がない。以上のひと段落だけでも絶望的なつまらなさだ。

 

 最近はYouTubeジャルジャルのネタを観ている。書くこともないので、自分が観た範囲で面白かったものを挙げてみよう。

 

「めっちゃ練習する奴」

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 やっぱり実際のライブでおこなわれたネタ、いわゆる本気ネタの方が面白い。「ネタのタネ」と題して大量に公開されているネタは本当にタネに過ぎないので、もしかするとそれだけでじゅうぶん面白いタネもあるかも知れないが、よっぽどのファン出ない限りオススメしないし、ぼくじしんは幸か不幸かよっぽどのファンではない。

 「めっちゃ練習する奴」は初見でお腹が痛くなるくらい笑った。面白いのか面白くないのかよくわからない、ただその妙な疾走感とリズムが耳に残る作中作(ネタ中ネタ?)が、しつこくしつこく繰り返されることによってどう変化してゆくのか。溜まってゆく互いのフラストレーションが爆発する瞬間を見よ。

 

「凄いショーする奴」

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 よくわからないショーをするよくわからない職人たちのよくわからないコラボレーション。だのにその演技から徐々に彼らのひととなりと物語が浮かび上がってくるように見えるのは気のせいか。架空の競技をもっともらしく描くと云う点では奇想であるし、そこはかとない海外文学感もある。

 

「端にもう一人おった奴」

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 書きながら思いだした、《それだけでじゅうぶん面白いタネ》。むしろ単独ライブのような舞台では決して披露できないネタだろう。はからずもsocial distanceな時世に合っている。

日記:2020/04/18

 体調が戻ると気分も戻る。天候は安定しなかったが、いくぶん晴れやかに過ごせた一日だった。起きていた時間の1/3か1/2は、コロナウィルスのことを考えずに過ごすことができた。もちろん消毒などには常に気をつけたつもりだけれど、幸か不幸か、もはやそれらの配慮は新型コロナウィルスと云う特殊な文脈を離れ、日常になりつつある。いずれは新型コロナウィルスじたいが、日常の文脈へと回収される日が来るのだろうか。

 最近こう云うことばかり考えている。いずれは、いつかは、いつの日か、……。

 

 モーム『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』を読み終えた。「ミステリ」をテーマに編まれた作品集で、うち2篇は『ジゴロとジゴレット』にも収録されているが、訳文の巧さはさておき、それらもこの作品集に並べられることで新たな読みが可能になっていて、選集として完成度の高い一冊だ。解説も充実している。ミステリ読みに薦めるならこちらだろう。

 そもそもウィリアム・サマセット・モームを読んだのは小森収=編『短編ミステリの二百年』の影響で、ぼくもああやって幅の広さと好みの強さを押し出したアンソロジーを編みたい、そもそも短篇ミステリをいろいろ読みたい、と思い立ったからであり、『エドガー賞全集』を読んだのも同じ動機による。

 ではぼくは小森収に私淑しているのかと云えば、そうではないことは過去の記事を遡って貰えればわかるだろう。むしろ不信にさえ思っている。きょうも、傑作「雨」の小森評を確認して、わかっちゃいねえなあ、などと不遜なことを考えていた。『二百年』に採った「創作衝動」について論じたくだりは面白いのに、この精度の差はなんだろうか。アンソロジーとしては一級品で、自分の短篇ミステリ観を確実にアップデートしてくれているこのシリーズを、しかし手放しで褒められなくて悩ましい。

 とまあ、小森収についてのあれこれを考え出すと切りがない。それがいちばん難儀だ。

 

 

日記:2020/04/17

 一律十万円給付について思うところを二百文字くらい書いて消した。慣れない政治語りを長々と書いても胡乱さが拭えない。簡単にまとめよう――むしろここからはじまるべきなのではないか?

 

 感染症の専門家による、向こう十年はこの状態が続くだろうと云う未来予想図のポストを読んで、ここ数日は鬱々とした気分でいたけれど、体調が治ったのに伴って、《病は気から》の逆と云うわけでもないが、感染症の専門家はあくまで感染症の専門家であって、未来予想の専門家ではない(そんな専門家いるのだろうか)、と思い直した。もちろんぼくも未来予想の専門家ではないので具体的に意見するのは差し控える。

 ただきょうも散歩した結果得られた実感として、たぶん人間社会はこの状態に十年どころか一年も耐えられないんじゃないか、とは思う。それが良いのか悪いのかはわからない。このウイルスによって社会構造が丸ごと破壊されて変わってしまうと考えるのは、それはそれで人間を信頼しすぎだ。

 さて一年後、あるいは数ヶ月後でも良いが、以上の文章をぼくはどんな気持ちで読むのだろう。

 

 大学の履修登録のガイダンスがあった。ただでさえ集中が切れやすい環境なことに加え、事前に配布された資料を読み上げていくかたちだったので、かなり退屈した。これで学期中、真面目に講義を受けられるのだろうか。

 

 最近気分が晴れないのは、目の前の現実とうまく折り合いを付けられないからでもあり、うまく切り結べないからでもある。インターネットを通じて、誰もが引きこもった静かな社会を想定しても、ちょっと街に眼を向ければ、みんなマスクをしている以外特に大きな変化のない風景が見える。だのに商店や公共施設は次々と閉められ、経済的にも健康的にも苦しい生活を余儀なくされるひとびとの話がきょうもたくさん聞こえてくる。いったい何なんだろう、と思う。うまく「いま・ここ」を認識することができない。認識することができない現実を相手に、ぼくはぼくでいることを強いられている。

 

 グレアム・グリーン『国境の向こう側』を読み終えた。『見えない日本の紳士たち』に較べると、やや打率は下がる。それでも全篇通して面白く読めたので、グリーンはたぶん好きになれる作家だ。『ヒューマン・ファクター』以外の長篇にも手を出してみよう。

 

国境の向こう側 (ハヤカワepi文庫)

国境の向こう側 (ハヤカワepi文庫)