鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

すべての見えない都市:イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』について、五十五のメモ

 イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(米川良夫訳、河出文庫)を読んだ。大いに感銘を受けた。具体的な感想はまたどこかで書くとして、ひとまず、生涯最良の小説のひとつに挙げて後悔はないだろうと思う。けれどもそれほどに素晴らしい小説なのに読んだ端から忘れてゆくので、あとで読み返せるように、登場する五十五の都市についてそれぞれどのような都市なのか、引用を交えて簡単にまとめた。最初は本当に簡単なメモのつもりだったが、どう云うわけだか疲れれば疲れるほど要約する思い切りがなくなって、あれこれ長々と書いてしまった。まあ、後半にかけてますます都市が観念的になってゆくと云うのも理由としてあるだろう。
 正直云ってよくわからない箇所、云っていることを丁寧にまとめようとしたら丸ごと引用するしかないような都市も多々あって、自分用のメモと云う域を脱していない。けれどもそれを云うならこのブログのほとんどの記事がそうである。ぼくは自分のために書き、皆さんのために公開する。ミスやコメントがあれば気軽に指摘してください。
 都市は目次通りに並べた。丸括弧は勝手につけた二つ名である。

都市と記憶1:ディオミーラ(郷愁の都市)
  • 郷愁を抱くことができることを羨ましがらせる都市
  • 《しかしこの都の特徴は、日足も短くなってゆく九月の夕べ、揚物屋の門先にいっせいに色とりどりの燈がともり、露台の上から女の、やれ、やれと叫ぶ声がする頃おいにこの都市にやってまいりますと、これと同様の夕暮を前にも過したことがあったしあの頃は幸福だったなどと考える御仁たちが羨ましいという気を、ふと起させることなのでございます。》
都市と記憶2:イシドーラ(欲望の記憶の都市)
  • 欲望が思い出になる都市
  • 《夢のなかの都は彼を青年のまま虜にいたしておりました。イシドーラに彼は年ふけてやってまいります。広場には石垣があり、年寄りたちが青春のとおりゆくのを眺めております。彼もまた彼らと並んで腰をおろします。欲望ははやくも思い出となっているのでございます。》
都市と欲望1:ドロテーア(計算可能な都市)
  • ドロテーアについて説明する方法はふたつある
    • ひとつは、過去現在未来が計算可能な都市であること
    • もうひとつは、駱駝引きの言葉どおり、あらゆる欲望に開かれる都市であること。そうして旅人は、ドロテーアの外側、ドロテーアを去ってからでさえも、ドロテーアから伸びているひとつの道であると考えるようになる――《「その朝、私はドロテーアで、私が望んでならないこの世の幸せなぞはないと心に感じたものでございました。それからまた年を取るにつれて、私の目はもう一度、砂また砂の拡がりとキャラバン道とをただじっと見守り続けるようになりました。それでも今は私にもわかっておるのでございます、これもまたあの日の朝ドロテーアで私にむかって開かれたたくさんの道の一つにすぎないのだと。」》
  • ぶっちゃけよくわからない
都市と記憶3:ザイラ(完全記憶都市)
  • 過去の一切が表出している都市
  • 《思い出から湧きあがるこの波で、海綿のようにこの都市はずぶずぶに濡れてふくれあがっているのでございます。今日あるがままのザイラを描きだすということにはまたザイラの過去のいっさいが含まれておるはずでございましょう。しかし都市はみずからの過去を語らず、ただあたかも掌の線のように、歩道の縁、窓の格子、会談の手すり、避雷針、旗竿などのありとあらゆる線分と、またその上に記されたひっかき傷、のこぎりの痕、のみの刻み目、打った凹みといったなかに書きこまれているままに秘めておるのでございます。》
都市と欲望2:アナスタジア(欲望都市)
  • 欲望を喚起する都市。アナスタジアのなかで人は欲望の奴隷になる
  • 《都市はただ一箇の全体として、どのような欲望も何一つ失われてはならず、われわれもまたその一部をなすものというように思われますし、われわれが現に愉しんでいないものでも都市があますことなく満喫しているのであれば、われわれとしてはこの欲望を住処としてそれで満足しているほかはございません。》
都市と記号1:タマラ(記号に覆われた都市)
  • 記号に覆われた都市
  • 《眼差は市中の通りをあたかも書物のページの上のように走りぬけてゆきます。都市は人々が考えるはずのことをすべて語り、ただその言葉をわれわれにくり返して言わせるばかりでございます。人はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによってみずからとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます。》
  • タマラを出た人びとは、自然の風景もなんらかの表象と見なすようになる
都市と記憶4:ツォーラ(忘れられない都市/忘れられた都市)
  • 一度見たらその全体が決して忘れられない都市
  • 《心から消し去すことのできないこの都市は何やら枡目のなかにそれぞれ自分の憶えておきたい事柄を配列しておく格子桁あるいは網目模様といったようなものでございます。偉人の名前、徳目、数、植物や鉱物の分類、戦役の日付、星座、品詞などというように。それぞれの概念と経路の一転一転とのあいだに瞬間的な記憶喚起に役立つような類縁もしくは対照のつながりを設けることができるかと思われます。それゆえ世界で最もすぐれた賢者と言えばツォーラの都を完全に諳じている人々でございます。》
    • この辺の記述は記憶の宮殿っぽい
  • しかしすでにその都市は、記憶のなかにしかない。《しかしこの都市を訪れようと旅立ちましたのも無駄でございました。記憶し易いようにつねに変らず不動であることを強いられ、ツォーラはやつれはて、消耗し、消え去っておりました。地球はもはやツォーラを憶えてはおりません。》
都市と欲望3:デスピーナ(相対都市)
  • デスピーナは二つの砂漠(一つは海)の境界に位置する
  • 《すべての都市は相対する砂漠からおのれの形を受けとるものでございます。》
    • 駱駝引きは砂漠からその都市を見て船を思い浮かべ、船乗りは海からその都市を見て駱駝を思い浮かべる
都市と記号2:ジルマ(捏造都市)
  • 記憶のなかで記号がくり返され、記憶が捏造される都市
  • 《私もまたジルマから戻ってまいります。私の思い出には、家々の窓をかすめて八方に飛び交う飛行船、船乗りたちの肌に入墨をほる刺青師たちの店が並ぶ道、暑気にもだえる肥満型の女たちを鮨づめにして運ぶ地底列車の行列といったものまでございます。ところが私といっしょに旅をした朋輩たちはただ一艘の飛行船が高楼のあいだに繋留されているところ、ただ一人の刺青師が床几の上に針と墨と図柄をくり抜いた型紙を並べて置いているところ、また大女もただ一人だけとある車輛の入口で涼んでいるところを見かけたきりだと誓うのでございます。記憶はまこと満ちあふれんばかりでございます。都市が存在し始めるようにと、記憶が記号をくり返しているからでございます。》
  • あるいはジルマとは、そうして増幅された記憶のなかの都市なのか
精緻な都市1:イザウラ(地底湖の都市)
  • 地底湖の上に建っている、無数の井戸をそなえる都市
    • 二種類の宗教がある
    • 地底湖のなかにこそ神を置く宗教と、地底湖から水を汲み上げる技術ひいては都市全体に神々を見出す宗教
  • 《それがためにイザウラでは二種類の宗教が生じました。この都の神々と申せば、ある人々にしたがえば、深淵のなか、地下水脈を養う暗黒の湖水のなかに住むとされます。他の人々にしたがえば、神々は、綱に吊した水桶が井戸の外まであがって来たそのなかに、また釣瓶をまわす滑車に、巻揚げウィンチに、ポンプの把手に、あるいは試錐の水を汲みあげる風車の翼、そのドリルの廻転を支える櫓の木組み、細長い脚の上にのせた屋上の貯水槽、無数の水道橋のきゃしゃなアーチ、ありとあらゆる垂直な上水道や下水管、サイフォンや排水孔、はては上へ上へとのびてゆく都市イザウラの高くそびえる塔のそのまた上に立つ風見車にも住んでいるということでございます。》
    • ここの羅列が読んでいてとても楽しい

都市と記憶5:マウリリア(絵葉書の都市)
  • 過去を描いた絵葉書と現在とを較べさせられる都市
  • けれどもその絵葉書は、たまたま名前が同じであるだけの別の都市のようだ
    • と云うか、過去と現在とで都市は別ものであり、較べるものではない
  • 《何よりも彼らにむかって言ってはならないことは、ときとして同じ地の上に、しかも同じ名の下に、まったく異る都市がたがいにとって替り、またそこにおのが姿を認めることもなく、たがいに通じあう術もないままに生れては死んでゆくということでございます。》
都市と欲望4:フェドーラ(ガラス玉の都市)
  • 宮殿のガラス玉のなかにあり得たかもしれない都市が映し出されている都市
  • 《ああ、偉大なるフビライ汗さま、陛下の帝国の地図のなかには、灰色の石の大いなる都フェドーラも、またガラス球のなかの無数の小フェドーラも、ともどもにその場所を得ておらねばなりません。いずれも等しく現実であるというのではございません、いずれも等しく単なる虚構にすぎないからでございます。》
    • ここで、語られている相手がフビライであることが確定する
都市と記号3:ゾエ(分類不可能な都市)
  • 建物や場の姿形からその性質を分類できない都市
  • 《旅人は徘徊に徘徊を続けて、結局はただ疑問だけが残るという始末です。市中の各所の見わけがつかないばかりに、はっきり区別のついていた自分の心のなかの点までが混乱するのでございます。そこで彼は次のように推論いたします――そのあらゆる瞬間における存在がまったきそれ自体であるとするならば、ゾエの都市は分割不可能な存在の場である、と。しかしそうであれば、なぜ都市でなければならぬのか? 内と外を分つ線、車輪の轟きを狼の吠え声から隔てる線は何か?》
精緻な都市2:ゼノビア(柱の上の都市)
  • 地上にありながら、高い柱の上に建てられている都市
  • その形状は奇妙だが、だからと云って住んでいる人間は不幸なのだろうか? ゼノビアに住む人間にとっての幸福な都市は、ゼノビアのような都市なのではないか?
  • 《このように申し上げました以上、ゼノビアを幸福な都市か、あるいは不幸の都市に分類すべきかと詮議するのは無駄なことでございます。都市を分けて意味があるのはこのような区別ではなく、ほかのやり方でございます。つまり、長い歳月と変容を通じながら、なおもろもろの欲望におのれの形を与え続ける都市と、他方は、欲望がついには都市そのものを抹殺するに至るか、あるいは都市に欲望が抹殺されてしまうかする都市の、この二種類なのでございます。》
都市と交易1:エウフェミア(思い出を商う都市)
  • 思い出を商う都市。あるいは、物語を商う都市
  • 《ただ売り買いをしにばかり、このエウフェミアにやって来るのではございません。夜、市場のまわりの焚火を囲んで、袋や樽の上に腰をかけたり、絨毯の山の上に横になったりしながら、だれかが言いだす言葉――、「狼」とか、「妹」とか、「秘密の宝物」とか、「戦い」とか、「疥癬」とか、「恋人」とかというような――その一言ごとに、他のものがそれぞれ自分の狼とか、妹とか、宝物とか、疥癬とか、恋人とか、戦争とかの話を物語るためでございます。》

都市と欲望5:ツォベイデ(夢のなかで見た都市)
  • かつて夢のなかで見た女を追いかけて来た男たちが集まってできた都市
  • 夢のなかの都市を男たちは再現するが、一向に女は現われない
  • 白堊の都市らしいが、初めてやって来た男たちには「醜い都市」と映るようだ
都市と記号4:イバツィア(事物≠記号の都市)
  • バツィアにおいては、記号が事物を裏切る
  • あるいはそれこそが偽りのない言葉のあり方
  • 《「賢者はいずこに?」――パイプの男は窓外をさし示すばかり。そこは、九柱戯、鞦韆、独楽などの遊具を備えた幼児の遊び場でございました。哲人は芝生に腰をおろしておりました。その申すように――「記号が言語を形づくる。しかし汝が識ると信じておる言語ではない。」こうして、たちまち私は悟ったのでございます――それまでは私の探し求めるものを告げ知らせてくれて来ていたイメージから、今や解放されなければならないのだと。また、このようにして初めて私はイバツィアの言語を理解できるようになるのだと。》
精緻な都市3:アルミッラ(水道管の都市)
  • アルミッラの建物には壁も床もなく、もしも壁や床があったら適当であろう位置に水道設備が伸びているばかりで、さながら水道管のジャングルジムをなしている
  • 《私のたどりついた説明はこうでございます。アルミッラの水道管のなかを流れる水は、川の精、水の精らの支配するところとなり終ったのでございます。地底の水脈をさかのぼってゆくことに慣れている彼女らにとって、この新たな水の王国に入りこむこと、無数の水源から湧いて出ること、新たな眺望、新たな遊戯、新たな水の楽しみ方を見出すことは容易なことでありました。》
都市と交易2:クローエ(欲望を交わす都市)
  • クローエでは人びとが言葉を交わすことなく指一本触れることもないままに欲望を交わす
  • 《まこと淫蕩な戦きがたえずクローエを――もろもろの都会のなかでもっとも貞潔な都市を――ゆり動かしているのでございます。男らと女らがそれぞれのはかない夢を真実、生き始めたりしようものなら、ありとあらゆる妄想が人間となって、追いかけっこや、思わせぶり、誤解、衝突、抑圧の物語が始まることでございましょうし、空想の廻転木馬はぱったりと停ってしまうことでございましょう。》
都市と眼差1:ヴァルドラーダ(鏡写しの都市)
  • ヴァルドラーダは二つある。湖の畔に建つそれと、水面に写る逆さまのそれと。
  • ヴァルドラーダのなかにあるどんな場所も水面に写るよう工夫されており、住民はその一挙一動を鏡写しに確認しているので、《彼らは片時たりとも偶然や不注意に身をまかせることを妨げられておるのでございます。》
  • 《鏡は、ときに事物にその価値を添え、ときにはそれを損いもいたします。鏡の上でこそその真価を発揮するかに見受けられるもののすべてが、必ずしも耐え得るような映像を見せるとは限りませぬ。この双子の都市は、けっして相同じというわけにもまいりません。なぜならヴァルドラーダに存在するもの、ここに生じるもののどれ一つとして左右斉合ではないからです。姿や仕草の一つ一つに、完全に逆転した姿、仕草が鏡のなかから応えているのです。ヴァルドラーダは双方たがいに相手のために、たえず相手の眼差をのぞきこみながら、生活しているのではございますが、愛し合ってはおりません。》

都市と記号5:オリヴィア(隠喩の都市)
  • オリヴィアを言葉によって語るには、隠喩によるしかない
  • 《虚偽は言葉のなかにではなく、事物のなかにあるのでございます。》
精緻な都市4:ソフローニア(半移動都市)
  • ソフローニアは二つの都市からなる。一方は遊園地のような遊び場で、もう一方は生活を営む場である。一方は固定されており、もう一方はキャラバンのように移動する
  • ソフローニアが直観を裏切るのは、移動するのは生活の場のほうであり、固定されているのは遊園地のほうであると云うことだ。ソフローニアの住民は遊園地で暮らしながら、移動都市が戻ってきて真っ当な生活が再開されることを指折り数えて待っている
  • 米澤穂信がオールタイムベスト短篇のひとつに挙げていた
都市と交易3:エウロトピア(交換都市)
  • エウロトピアではまったく同じ都市が点在しており、この総体をエウロトピアと呼ぶ
  • 住民はその一つで生活しながら、現状に誰ひとり満足できなくなると、配役だけそっくり入れ替えて別の都市に移り住む
  • 《こうして都市はその虚な碁盤目の上をあちこちと移り動きながら、つねに変わらぬその生活をくり返しているのでございます。住民は配役を取り替えながら同じ場面をくり返し、さまざまな抑揚の組合せで同じせりふをその都度、言い変え、替るがわる口をひらいては同じ欠伸をしてみせるばかりです。帝国のありとあらゆる都城のなかでただ一つ、エウロトピアばかりがつねに替らぬ己が姿に留っているのでございます。へめぐり移ろうものどちの神、メルクリウスにこの都市は捧げられているのでございますが、この曖昧な奇蹟こそこの神の御業によるのでございます。》
都市と眼差2:ゼムルーデ(見られている都市)
  • ゼムルーデの都市は眺めるものの気分によって変わり、そのいずれが正しいわけでもない。《都会の一つの姿を他の姿にもまして真であると申すことはできません。》
都市と名前1:アグラウラ(語り得ない都市)
  • アグラウラについて語るには、くり返し語られてきた語られ方よりほかに方法がない
  • 《あれは何だと言おうと思いましても、今日までにアグラウラについて語られて来たことのいっさいに、言葉は虜のように捕えられており、そのために否応なしに、語るというよりむしろ、くり返し同じ言葉を言わずにいられぬようにさせられてしまうのです。》
  • そうして語られるアグラウラは、そこに建つアグラウラではない。
  • 《結論としては、こうなりましょう。すなわち、人々が語っている都市は、存在するために必要なものを数多く備えておりますが、他方、その場所に存在している都市は、語られている都市ほどには存在していない、と。》

精緻な都市5:オッタヴィア(蜘蛛の巣都市)
  • オッタヴィアの都市は二つの山の頂のあいだに吊されている
  • 《奈落の底の上に宙吊りになっているとは申しながら、オッタヴィアの住民の生活は、他の都市に較べてさほど不安なものでもございません。彼らは、時が来ればこの網も保たないことを承知しているのでございます。》
  • みんないずれ死ぬし、都市もいずれ滅びる。その点において、吊られた都市と聳え立つ都市のあいだに違いはない
都市と交易4:エルシリア(糸の都市)
  • エルシリアのなかでは家々を結びつける関係を、その種類ごとに色分けした糸で可視化して、戸口と戸口を結びつけている
  • やがて人が戸口を通ることができなくなると住民は去ってしまって、あとには糸と糸の支柱だけが残される
  • エルシリアを再建さえしながら、住民たちはその営みをくり返す
  • 《こうして、エルシリアの領域を旅してゆくと、彼らが捨て去った都市の廃墟にゆき会うのですが、城壁さえももはや姿を消し、風が転してゆく死人の骨とてありません。ただ錯綜する関係の蜘蛛の巣ばかり、それが一つの形を求めているのでございます。》
都市と眼差3:バウチ(大地から離れる都市)
  • バウチの住民は地上に決して近づかない。これには三つの仮説が与えられている
    • 彼らは大地を憎んでいる
    • 彼らは大地を尊敬している
    • 彼らは自らの不在の大地に見とれている
都市と名前2:レアンドラ(二つの神々の都市)
  • アンドラには二種類の神々がいる。ペナーティとラーリ
    • ペナーティ:家に憑く
    • ラーリ:場所に憑く
  • 住む人間と場所、どちらが都市を都市たらしめるのだろうか?
  • 《レアンドラの真の本質こそ、彼らの涯しない論争の主題となっているものでございます。ペナーティは自分たちこそこの都市の魂であり――よしんばわずか前年にやってきたばかりのものであっても――また自分たちがこの都市を立ち去るときにはレアンドラの都市そのものをもいっしょに持ち去ってしまうのだと信じております。ラーリのほうはペナーティを厄介で厚かましい臨時の客と心得ております。真のレアンドラは自分たちのものであり、このような本質が都市を包含するいっさいのものに形を与えているのである、すなわち、真のレアンドラとはあの闖入者たちがやって来る以前からここにあり、また彼らがみんな行ってしまった後にも残っているはずの都市であると考えているのでございます。》
都市と死者1:メラーニア(対話の都市)
  • メラーニアでは同じ対話がくり返される
  • 対話を担う住民たちはどんどん死んでゆくので、配役は順次入れ替わり、それに応じて一人二役することも出てきて、やがて対話は変容してゆく
  • 《時が経つにつれて、その役柄でさえ正確に以前と同じままではなくなって参ります。もちろん、これらの役が数々の筋立てや見せ場を通じて推し進めて参りますその行為は、何らかの大団円にむかってゆくものでございましょうし、またこんぐらがった状況がますます混沌となり、障害がますます大きくなって来るように見えるときでさえ、涯しなく解決に近づき続けているのです。継起するそのおりおりに広場へ顔をのぞかせるものは、幕ごとに台詞が変ってゆくのを耳にしておりますものの、メラーニアの住民たちの生命はあまりにも短すぎて、これに気がつくことさえございません。》

都市と交易5:エメラルディーナ(くり返されない都市)
  • エメラルディーナでは二点間を結ぶ経路は必ず複数存在するため、毎日がくり返されることがない
  • 無数の経路が網目のようになって全体を覆っている
  • 《エメラルディーナの市街図は、それゆえ、色とりどりのインクで書き込まれた、これらすべての固体、流体、あるいは公然、隠然の道すじを含んでいなければならないはずでございましょう。》
都市と眼差4:フィリデ(見えない都市)
  • フィリデの橋はどれ一つとして同じものがなく、眺め終ることがない
  • ところがいざこのフィリデに滞在すると、フィリデの全体は見えなくなり、目にする部分の一つ一つは、かつて目にしたことのあるもう消えてしまった何かとなってしまう
  • 《幾百万もの眼差が窓に、橋に、白花菜にむけて注がれますが、それは白い頁の上を走るにも似ております。フィリデのような都会は数多くございます。それはふと捉えるのでもなければ、いつも視線を逃れてしまうのでございます。》
都市と名前3:ピッラ(知ってしまった都市)
  • 語り手にとってピッラとは長らくその名前だけを知っている都市だったが、いざピッラを訪れてからは、かつて想像していたピッラは失われてしまい、そこにあるがままのピッラがピッラと云うことになってしまった
  • 《私の心は今でもやはり、見たこともなければこれからもついに見ることのないだろう沢山の都市を大事に抱え続けております。ジェトゥッリア、オディーレ、エウフラーシア、マルガーラといった、それ自体一つの姿なり、あるいはその想像された姿の断片が燦めきなりを秘めている名前です。入江にのぞむ高層都市も、相変わらずやはりその中にまじって、井戸のまわりに閉ざした広場を見せているのですが、もはや私にはその都市を一つの名で呼ぶことも、またどうしてそれにまるで違った意味をもつ名前を与えることができていたのか思い出すことさえもできないのでございます。》
都市と死者2:アデルマ(死者の都市)
  • アデルマで語り手が出会う人間はみな、知っている顔をしている。ある者は父に、ある者は祖母に。そのいずれも死んでいる
  • 語り手は思う。《「知り合った人のなかでも死んだ人のほうが生きている人より多くなる、そんな人生の境目にやって来たのだ。」》
  • そして語り手もまた、誰かにとっての死者の顔をしている
  • 《私はこう考えました、「恐らくアデルマは、死ぬときにやって来る都市なのだ。そしてここではだれもが自分の知っている人たちと対面するのだ。これは、私も死んだというしるしなのだ」と。そして私はこうも考えました、「あの世は幸福な場所ではないというしるしでもある」と。》
都市と空1:エウドッシア(地図の都市)
  • エウドッシアに保存されている一枚の敷物は、一見すると幾何学的な図柄に見えるが、その実よく見ると、エウドッシアの全体が写し取られており、エウドッシアのどの点とも対応が見出される
  • 敷物は秩序立てられて不動だが、じっと見ればその模様のなかに、進むべき道を、人生や運命の転機さえ見出すことができる

都市と眼差5:モリアーナ(裏表の都市)
  • モリアーナには二つの面がある。美しい都市と、廃れた都市と。けれども二つの側面があることは珍しいことではない
  • モリアーナの特徴は、両者が連続しておらず、文字通りに表裏一体をなしていることにある。《ちょうど一枚の紙のようで、こちら側とむこうとにそれぞれ絵姿があり、それはたがいに離れることも、顔を見合わせることもできないのでございます。》
都市と名前4:クラリーチェ(代謝の都市)
  • クラリーチェは何度も衰退と繁栄を繰り返し、そのたびに新しい資材や建物、物品がもたらされ、古く壊れにくいものはさまざまに転用されてゆく
  • 最初のクラリーチェが理想とされているようだが……
  • 《確かなこととして知られていることは、ただこれだけでございます、すなわち、ある一定数量の物体がある一定の空間内を、ときには多量の新物体によって埋没させられ、ときには取替えの部品もないままに消費されながら、移動しているということです。規則は、毎回必ずよく混ぜ合わせてから全部を揃え直してみることなのです。多分、クラリーチェというのは、いつだってばらばらに壊れて使い道すらなくなったがらくた類の取合せのまずい寄集めだったのでございます。》
都市と死者3:エウサピア(模型の都市)
  • エウサピアの住民たちは死への不安を和らげるため、その地下に都市の完全な模型をこしらえ、もしも死んだときは死体は地下へ運びこまれて模型のなかで暮らし続ける
  • 地上と地下の都市のあいだは、奉仕団なる者たちによって媒介される。奉仕団は地下の様子を地上に教える。地上の生者たちはそこで死者の都市が変容していることを聞き、負けじと地下の模倣をし始める
  • 《彼らに言わせますならば、この双生児の都市ではもはや、いずれが生者か、いずれが死者かを知る術などないのだそうでございます。》
都市と空2:ベルサベア(糞便都市)
  • ベルサベアには、天上と地下にそれぞれもうひとつのベルサベアがあると信じている。この信仰によれば、天上のベルサベアは最高の徳と感情に満ちており、最高の材料と技工が尽くされている手本とすべき都市で、地下のベルサベアは一切模倣するべきではない、汚れて醜い糞便の都市である
  • この信仰は、実際に天上と地下にそれぞれもうひとつのベルサベアがあると云う点で正しい
  • けれども技工の粋を尽くして建てられているのは地下のベルサベアのほうであり、地上のベルサベアは見当外れの徳目を積もうとしてかえって徳から遠ざかっている
  • そして天上のベルサベアを作り上げているのは地上のベルサベアの人びとが棄ててしまっている一見して取るに足らない品々であり、天上の都――それはベルサベアの天頂に浮かんでいる一つの天体である――のまわりを周遊する彗星を打ち上げているのは、《そのときだけは貪欲でも損得ずくでも計算高くもなくなるベルサベアの住民にとってまさに自由にして幸福な唯一の行為、あの糞ひるという行為なのでございます。》
    • 「糞ひる」なんて聞いたことなかったけれど、「ひる」で体外に出すと云う動詞らしい。「ひり出す」の「ひる」か。へええ。
    • 確かに「ひり出す」って排泄物以外に使ったことないかも
連続都市1:レオーニア(廃棄の都市)
  • レオーニアの住民はきれい好きなのか、日常のあらゆる品物を使い捨てる
  • そうして排出された厖大な廃棄物は都市の外へと棄てられるが、その山はどんどん高くなって都市を取り囲み、レオーニアが拡大するにつれてその山も拡大し、レオーニアの技術が発展するにつれ廃棄物は耐久性を増してゆく
  • 《日ごとに生れ変わりながら、この都市は唯一の決定的な形によって自己のすべてを永久保存させるというわけでございます、すなわち前日のごみも、前々日のごみ、日ごと年ごと代々のごみのなかに積み重ねられて得られる形でございます。》
  • レオーニア以外の国々も同様に国境で廃棄物の山をうずたかく積み上げ、両者がぶつかるときごみの山は互いのごみを交換して支え合う
  • そうしていつかごみの山が内側に向けて倒れたとき、混ざり合った隣国の過去も含めた過去の雪崩のなかにレオーニアは埋まるのだろう

都市と名前5:イレーネ(遠い都市)
  • イレーネは遠くから見る都市の名前であり、近づけばそれはもうイレーネではない
  • 都市は見る場所、見る者それぞれに別の名前が与えられる
  • 《その中へ入ることなく通り過ぎてゆくものにとっての都市はそれで一つの都、そこにとらわれて出てゆくことのないものにとってはまた別の都でありますし、初めてやって来る都市が一つの都なら、立ち去って二度と返らぬつもりの都市はまたもう一つの都でございます。それぞれにいずれも異る名前にふさわしい都市でございます。恐らく、イレーネについて私はすでに他の名前でお話し申し上げておりますし、恐らくイレーネのことしか私はお話し申し上げなかったのでございます。》
  • 都市論としての『見えない都市』のありようがここで語られているように思う。ここで語られる五十五の都市はすべてひとつの都市であり、またひとつの都市に別の見方と語り方を与えれば、それはすでにひとつの都市ではない
  • さながら角度を変えるだけで別の像を浮かび上がらせる万華鏡のようなもので、小説の幾何学的な構成もまたそのイメージを補強する。都市は互いに互いを写し出しながら、どこまでも無限につづいて留まることがない
  • この章で一瞬、語りが崩れる――三人称のような語りが挟まり、語り手がマルコ・ポーロであることが明かされる――のはどんな意味があるのだろう?
  • あるいは、意味とは?
都市と死者4:アルジア(埋もれた都市)
  • アルジアは土のなかに埋もれており、それがどんな都市なのか、そもそも存在するのかさえ定かではない
  • 文字通りの意味で「見えない都市」である
  • 《アルジアについては、この地上からは何一つ見えません。「この下にあるんだ」と申すものがおりますが、信ずるより他はございません。その場所は荒寥といたしております。夜中に、耳を地面に近づけますと、ときおり、ばたんと戸を閉ざす音が聞えます。》
  • この最後の一文で与えられるイメージが実に怪談チック。そう云えば「都市と死者」に分類されているのだった
都市と空3:テクラ(未完の都市)
  • テクラの都市はいつも建設中で、工事用の板囲いや幕、足場に覆われている
  • 《「テクラの建設はなぜこうも長く続くのか?」という問には、住民たちは、桶を引き揚げ、鉛直儀の糸を垂らし、長い柄の刷毛を上下に動かす手をいっこうに休めようともせず、こう答えるのでございます、「破壊が始まらないように」と。》
  • 陽が落ちると工事は終わる。夜空に浮かぶ星を見て、彼らはこれが工事の計画なのだと云う
    • こう云うのって「自己目的化」で済ませがちだと思うが、ここでは天の星を持ってきているのがユニーク
連続都市2:トルーデ(既視の都市)
  • トルーデの空港は出発した空港と同じに見える。空港の先に広がるトルーデは、どこもかしこもかつて何度も見たことのある景色だ
  • 《「しかしまた何から何まで同じもう一つのトルーデに着くのです。世界はただ一つのトルーデで覆いつくされているのであって、これは始めもなければ終りもない、ただ飛行場で名前を変えるだけの都市なのです。」》
  • ……空港?(いまさら)
隠れた都市1:オリンダ(たまねぎ都市)
  • オリンダは都市のなかに都市を含み込んだ点を持っており、この点は時間が経つと拡大して外側の都市を押し広げてゆく
  • ふつう、都市が拡がる際は樹木の年輪(成長輪)のように外側へ一層ずつ拡がってゆくが、この都市は内側から新しい都市が生成されてゆくわけだ
  • そして新しく生成されたもっとも内側のオリンダのなかには、すでにこれから生成されてゆくオリンダが内包されている

都市と死者5:ラウドミア(生れ来ぬ者たちの都市)
  • すべての都市は墓地を備えている。それは死者のための都市であり、この意味においてすべての都市は二重であるが、ラウドミアの場合はここに《まだ生れ来ぬ人たちの都市》を含んでいる三重の都市だ
  • 《まだ生れ来ぬものたちのラウドミアは、死者たちのラウドミアとは違って、生あるラウドミアの住民たちに多少とも安心感を伝えるということがございませず、ただ不安ばかりを伝えて寄越すのでございます。》
  • 死者たちは歴史を伝えるが、まだ生れ来ぬ者たちは、文字通りに未来を伝える。人口爆発が起こるにせよ、あるいは反対に人口減少を想像するにせよ、《どちらがいっそうの悩みをもたらすものか、だれも存じません。》
都市と空4:ペリンツィア(計算違いの都市)
  • リンツィアを建設するにあたって、占星術師たちは神々の与える調和を反映するよう計算し、都市はそれに正確に従って建設された
  • しかし今日のペリンツィアは、まるで計算違いのように、障害者や異形の者たちで満ちている
  • 《ペリンツィアの占星術師たちは今や困難な岐路に立たされておるのでございます、すなわち彼らの計算がすべて間違っており、彼らの数字は天空の動きを語るには何の役にも立たないことを認めるべきか、あるいは神々の秩序とはまさにこの怪物の都市に映しだされているものに他ならぬことを打ち明けるべきかと。》
連続都市3:プロコピア(過密都市)
  • 語り手は毎年プロコピアに滞在し、同じ宿屋の同じ部屋に泊まる
  • その部屋の窓辺から見える景色には、訪れるたびに人の顔が増え、やがて窓全体が顔に覆われて外を眺めることはできない
  • そして部屋のなかにもまた、人間がすし詰めのようになっている。《幸い、みなさん御親切な方々ばかりでございます。》
隠れた都市2:ライッサ(不幸な都市)
  • ライッサに住む人びとは、みな幸福そうには見えない
  • にもかかわらずライッサの都市には、幸せな一瞬がか細い連鎖をなしている
  • この都市の不幸と幸福について、哲学者は言う。《「陰鬱なライッサにおいても、やはり目に見えぬ一本の糸が走っており、それは生ある者の一から他へと一瞬のうちに結び合せては解け、さらになお動いている点と点とのあいだに張り渡されて新しい刹那の図形を描きだし、こうして一瞬ごとに不幸な都市はそのなかに、みずからの存在することさえも知らぬ幸福な都市を包含するものとなるのだ。」》
  • 地獄のようなこの世にあって、それでもなお残された一縷の希望を見出すこと。ライッサは断章部分でマルコ・ポーロがくり返すペシミズムすれすれのオプティミズムを反映している
都市と空5:アンドリア(天球儀都市)
  • アンドリアの道はそれぞれがなにがしかの惑星の軌道をなぞっており、公共の場所と建物はすべて天体の秩序に基づき、都市の暦は星座図に対応している
  • 都市と天界との照応は真に完全であるため、都市のあらゆる変化は天界の変化を反映しており、またアンドリアの人びとは、都市の変化が天界へ反映されると考え、いっさいの変化をおこなう前に慎重な計算をおこなう
連続都市4:チェチリア(世にも名高い都市)
  • 語り手にとって名前がついているのは都市であり、そのあいだに拡がる空間は名前がない。しかし語り手がチェチリアで出会った山羊飼いの男は《私にとっては都会に名前はございません》と云う。《「都会は草場と草場のあいだを距てる草のない場所でございます[…]」》
  • 自分にとって名前のついていない場所では、場所が混ぜこぜになってしまう。語り手にとって都市のあいだの空間が混ぜこぜになってしまうように、山羊飼いの男にとって都市は混ぜこぜになる
隠れた都市3:マロツィア(鼠と燕の都市)
  • マロツィアの運命についてこんな信託があった。巫女は云う――《「二つの都市が見える、一つは鼠の都市、もう一つは燕の都市じゃ。」》
  • マロツィアの人びとはこの神託を、鼠の都市から燕の都市への解放を述べているのだと解釈した。けれども解放を目指してどれだけ都市を改善しようと、燕のような軽やかな翼は得られない
  • 《私はこんなふうに解釈いたしております。すなわち、マロツィアは二つの都市から成り立っているのでございます、鼠の都市と燕の都市と。どちらも時とともに変化いたしておりますが、両者の関係は変りません。すなわち、後者は前者から解放されつつある都市なのでございます。》
連続都市5:ペンテシレア(辺獄の都市)
  • どこからがペンテシレアで、どこまでがペンテシレアなのか、答えられる者は誰もいない。ただ郊外のような空間がどこまでも茫漠と続いてゆく
  • 《ペンテシレアの外に外は存在するのか? それとも、どんな都市から離れて行っても、辺獄(リンボ)から辺獄(リンボ)へと通り抜けてゆくばかりでけっして外へ出ることはないのではないのか?》
隠れた都市4:テオドーラ(人間の都市)
  • テオドーラはその歴史を通じて、およそ外敵となる人間以外の生物を絶滅させてきた
  • ある種が絶滅したらそれを天敵とする動物が増加する。それもまた絶滅させる。鼠はしぶといが、それも絶滅させ、テオドーラはようやく人間だけの都市を手に入れ、その内に閉じ籠もった。《その動物相がどのようなものであったかを誌す思い出として、テオドーラの図書館はビュフォンとリンネの著述を書架に納めることとなるのでございます。》
  • しかし――《長い長い時代を通じて、今では絶滅した種の体系によってその地位すらも追われて、別格の隠れ場所に棚上げされていたもう一つの動物相が、揺籃期本(インクナボリ)の保存されている図書館の地下倉庫から明るみに舞い戻り、柱頭や雨樋口から跳びおりて来て、眠っている者の枕もとに蹲るのでございました。スフィンクスグリフォン、キマイラ、龍、山羊鹿(トラゲラポス)、ハルピュイア、ヒュドラ、一角獣(リオコーン)、バシリスクなどがふたたび彼らの王国を取り戻し始めたのでございます。》
  • 幻想的な結末だが、これをどう読めば良いのだろう。人間以外の種を絶滅させながらみずからの内に閉じ籠もるテオドーラは、まさしく現代人の都市にほかならない。その果てにやって来る幻獣たちは、人間にとっての他者としての動物たちがなおも絶えることがないと云う希望を語っているのだろうか、それとも幻想が興隆を極めるような時代は人間以外誰も残らないような時代だと云う、これは絶望だろうか?
隠れた都市5:ベレニーチェ(正義と不正義の都市)
  • ベレニーチェは不正義が横行しているが、その内部には正義を志す者たちの都市が隠れ潜み、不正義の都市を内側から掘り崩そうとしている
  • けれどもその正義のなかには驕りがあり、欲望があって、正義を内部から掘り崩す
  • そしてその不正義のなかにも、また正義がある……。正義と不正義の果てしない包含の構造
  • 《この私の話から引き出せる結論は、せいぜい、真のベレニーチェとは正と不正の交替する、異る諸都市の時間的な継起であるということぐらいでございましょうか。しかし私が御注意申し上げたかったのは他のことなのでございます。すなわち、未来のあらゆるベレニーチェはすでに現在のこの瞬間に存在しており、しかもつぎからつぎとくるみ込まれているために、解きほぐすこともできないほどぴったり詰めこまれているのだということでございます。》
  • この結論は、その後のエピローグでマルコ・ポーロが語る言葉へ繋がるのだろう――《「生ある者の地獄とは未来における何ごとかではございません。もしも地獄が一つでも存在するものでございますなら、それはすでに今ここに存在しているもの、われわれが毎日そこに住んでおり、またわれわれがともにいることによって形づくっているこの地獄でございます。これに苦しまずにいる方法は二つございます。第一のものは多くの人々には容易いものでございます、すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします。すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないかを努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることでございます。」》

読書日記:2023/11/20~12/03 藤原辰史『ナチスのキッチン』ほか


 最近はやたらに読んでやたらに書いている。そのせいでスケッチが疎かになってしまっているけれど、書くことも読むことも線を引くことも、同じ線上に置かれるならば、それも当たり前なのかもしれない。

北村薫『遠い唇:北村薫自選日常の謎作品集』

「飛躍です。そこにこそ、昔ながらの名探偵の意義もあった。あることとあることの、思わぬ結び付きを発見する。常人では分からぬ一本の道を、空から見たかのように示す」

 かつて同じく角川文庫から出ていた同題短篇集に、表題作のその後を書いた短篇をふたつ加えたもの。旧版を読んだ先輩と話したところ、続篇の追加にあたって収録順も変わっているらしい。そちらでは「遠い唇」に始まって「ビスケット」に終わるとのことで、それならきっと、伝える/伝わらない/伝わると云うテーマにおいて、暗号とダイイングメッセージが互いに互いの変奏であることがよりいっそう強調されることになっただろう。「遠い唇」でいまは亡き先輩が遺した暗号も、「ビスケット」で殺された被害者が遺したハンドサインも、自分の持ち得るものによってなんとか他者へとメッセージを伝えようとすると云うコミュニケーションの本来的な営みが謎と云うかたちで現われたものであり、その謎を生む契機として死と時間による断絶が横たわっている。あるいはこうも云えるだろう――死・時間・他者と云う届かない断絶のあいだに架ける橋として、本書の解決=解釈は書かれる、と。ほかの収録作品も、このテーマにおいて両者のあいだにある。亡くなった夫が遺した謎かけから忘れ難い人生の風景が浮かび上がる「しりとり」、言葉をそのままに解釈することの難しさを茶化しながら問う「解釈」、小説を解釈することと暗号を解読することとをパラレルに置く「続・二銭銅貨」、日常のなかにある言動の誤解やメッセージの誤配を掬い上げる「パトラッシュ」「ゴースト」――。言葉はしばしば伝わらない。それでも、われわれは言葉を伝えるし、読み取ろうとする。新版の表紙にポストが描かれている理由はそこにあるし、「日常の謎」の範疇には入らないであろう殺人事件が扱われる「ビスケット」が、それでもわざわざここに並べられているのも同じ理由からだろう。ずっと昔、NHKの犯人当てドラマで見たときは、ダイイングメッセージひとつで犯人が特定されて良いものだろうかと首を傾げたものだけれど、「ビスケット」とは、そうしてサインがたったひとりを示していると云うダイイングメッセージの本来的なところに、二地点を思いがけないかたちで結びつけると云う名探偵の意義を重ね合わせる話なのだ。そんな名探偵が現代では意義を失っていると云うことの悲しさも含めて、呆気ないほど簡単な事件のなかに、小説は時間の流れの重みを巧みに書きこんでいる。
 もっとも、新版ではそんな「ビスケット」のあとに「遠い唇」を並べ、ひょっとすると前者より痛烈な時間の流れの、生者と死者の、自己と他者の断絶を置く。そしてそこから、暗合を暗合と読み替えるようにして、ひととひととの巡り会いの線を延ばしてゆくのだ。時間のなかで、言葉は離れてゆくばかり。けれどもそうして流れた時間が、新たな言葉との出会いを運んでくる。巫弓彦が小説の外で「彼女」を待ったように、小説の記述はそこで終わっても、人々の人生は続いてゆく。そこでもたらされる新たな出会いは、ときとして作者にとってさえ、思いがけないものだ。

 

アドルフ・ロース『装飾と犯罪:文化・芸術論集』

我々が森の中を歩いていて、シャベルでもって長さ六フィート、幅三フィート程の大きさのピラミッドの形に土が盛られたものに出会ったとする。我々はそれを見て襟を正す気持ちに襲われる。そして、我々の心の中に語りかけてくる。「ここに誰か葬られている」と。これが建築なのだ。

 モダニズム建築について読んでいたら必ず出会うのがこの本の表題作「装飾と犯罪」。そうした解説でしばしば引かれているように、装飾は犯罪である、装飾をしてはならない、だから白い箱をつくらなければ――、と云う話なのかと云うと、実はぜんぜん違う。ロースは無駄な装飾を否定するが、装飾すること自体を否定してはいないのだ。彼が否定する装飾は家具や建築にとって有機的でない装飾であり、それはかたちだけのハリボテ、同書でも言及されているような「ポチョムキンの都市」である。宗教的な意匠や生活に根ざした装飾は、それによって世界と関わっている限り「犯罪」ではない。伝統的な農家の生活や、そのなかで記憶される生活の痕跡、人びとの喜びを擁護するロースの思想は、モダニズムの文脈で参照されるものとしてはむしろ保守的だ。機能的な建築によって人間の生活を規定するのではなく、人間の生活はそうそう変わらないものとして、それにフィットする建築をつくること。モダニズム建築と聴いてわれわれが真っ先に思い浮かべるような真っ白な箱の真っ白な矩形こそ、彼にとっては「犯罪」的な建築だったのではないか。
 とは云え彼の云いたいことが伝わらず、「犯罪」の言葉がひとり歩きするのもよくわかる。本書に収められている彼の文章にはいつも仮想敵がいるらしいのだが、そんな文章をはたから読み解くのはとても難しい。ぼくも友人と話してやっと上記の考えにまとめられたくらいだ。それに、当時のウィーンと云う貴族社会への苛立ち、新進国アメリカへの憧れが、世紀転換期の強い進歩主義と結びついて辟易する。彼は民族の文化的な慣習を擁護する一方で、そんな慣習を持つ文化よりも欧米の文化のほうが近代的で進歩しているとも云ってのける。けれどもそうした思想は容易く優生思想と結びつき、排外的な態度へ転じるだろう。もっとも、だからロースはナチスであるとは云わない。ただ、そこに思想の結びつきがあるだろうと云うことで、ロースを読むにはそんな絡まりをかきわける必要がある。本書のやたらと詳しい註釈はその助けとするためだろうし、だからこそ面白い、と云うこともできる。そうしてまで立ち返るべき、鋭い現代的な指摘もあるだろう。

 

藤原辰史『[決定版]ナチスのキッチン:「食べること」の環境史』

ほかの生きものを食べなければ生きていけないヒトの「外部器官」、自然を改変する人間の作業の最終地点、あらぶる火の力に対する信仰と制御の場、人間社会の原型である男女の非対称的関係の表出の場――つまり台所とは、人間が生態系のなかで「住まい」を囲うときにどうしても残しておかなくてはならない生態系との通路なのである。

 ロースが危うくその身を近づけながらも否定した、機能主義の加速と浸透。それがナチズムへ絡めとられてゆく過程を台所と云う場所に見出すのが本書『ナチスのキッチン』だ。アドルフ・ロースの名前も出てくる――機能主義を重んじつつ、食事の文化が失われることへ反発する存在として。画一化されたシステムキッチンやビタミンを筆頭とする料理の栄養学化、家事労働の経済学的分析、そうして主婦の仕事を効率化してゆく家政学の知見。それらは生活を便利にしてゆく一方で、主婦を台所ごとひとつの機械へと近づけ、調理器具や調味料と云うかたちで企業がそこに忍びこみ、市場原理が取り囲む。――その果てに、ナチズムがいる。
 とは云え本書は、決してナチズムを正面切って扱っているわけではない。むしろそこに至るまでの準備やわき道、余剰的な領域を捉えようとする。そうして台所のエコロジーを起ち上げること。結果としてそこに、同じくエコロジカルなものであるナチズムとの接続が探り当てられる。なるほどナチスは台所を独裁的に支配したわけではなかったかもしれない。けれども台所における、つくること、食べること、吐き出すことの連関が、いつの間にかナチスのなかに呑みこまれている。それはいったいなんなのか。そこに出口はあるのか。
 巻末で藤原も批判を受け止めているとおり、本書はナチスに引きずられすぎ、そこを袋小路としているきらいもある。けれども本書はそうしてナチズムを考えるなかで食べることのエコロジーを捉え、ナチスがもたらした最暗黒の循環――飢餓の人間は自分の肉を栄養とするしかなく、ゆえに痩せ衰えてゆく、それは極限的にエコロジカルでエコノミーな状態だ――に危うく近づきながらも、その袋小路を裏返した先に希望を見る。すなわち、生きるために食べること。その本質をあらためて見つめること。ぐるりと裏返された袋小路は、そこで未来に開かれるだろう。

 

多川精一『戦争のグラフィズム:『FRONT』を創った人々』

引越し先では、それまで写真館が使っていた一階の、広々とした撮影スタジオが美術部に割り当てられた。この部屋は二階まで吹抜けで、九段坂側の東面は、大きなアトリエのようにガラス窓が天井まで開けられていた。そしてそこには劇場舞台の緞帳のような、ずっしりしたビロードのカーテンがかかっていて、大変明るかった。

 戦時中刊行された対外宣伝誌『FRONT』。本書は自身も若手社員としてその製作に携わっていた著者による回想と戦後の研究調査を踏まえ、『FRONT』ひいては東方社の戦争を辿ってゆく。戦前のモダニズム――ドイツのバウハウスやロシアの構成主義――から影響を受けた写真家・デザイナーたちが時勢のなかでプロパガンダに加担してゆくその過程を、著者はあくまで同情的に記述するが、まさしくその加担の過程こそ戦争がもたらす歴史の皮肉にほかならない。計算し尽くされた恰好良い構図とそれを可能にするモンタージュの手法は、そのイメージをつくるテクニックによって事実と反するプロパガンダ――要するに捏造をも可能にしてしまうのだ。そこが写真の恐ろしさであり、同時に写真のひとつの限界を示してもいる。プロパガンダが描き出す大きなシナリオから、ひとりひとりの人間はいつも取りこぼされる。空襲に遭った著者が戦火のうちに目撃するのはそうした戦争の真実であり、個人的な回想や日記の抜粋が中心となってゆく後半の記述もまたそうしたプロパガンダから漏れ出てゆくものだ。そしてカメラは、そんな光景をも記録し得るのだ。対外宣伝の写真を撮っていた木村伊兵衛のカメラが広島の惨状を記録したこともまた、歴史の皮肉と云うべきだろう。
 上で引用したのは、空襲を恐れて社屋を移転した際の回想である。戦時下にあって、この妙な明るさはなんだろう。けれどもぼくはそれを不謹慎とは思わない。新しい社屋の明るさと、遠くの戦場に行った同世代たちが同居する――それが銃後を生きると云うことなのだろう。著者も述べているとおり、『FRONT』をつくった者たちは何よりも技術者だった。自分の技術が試せるならば、それがプロパガンダでも面白がった。反戦的な思想を持ちつつも、生きるためにプロパガンダと関わった。そこに生きることの複雑さがあり、戦争の複雑さがある。

満州で過ちを測る:小川哲『地図と拳』について

 似たようなことだが、いつのまにか私たちの地図が、自分で夢を見るようになった。だから毎晩、地図が眠りこみ、都市はたえまなく形を変えている。円かったかと思えば正方形になり、山頂にあったかと思えば海底に沈んでいる。煙のような都市。人の声すらしない都市。騒音に引き裂かれた都市。内部から炸裂する都市。都市についてはお伽話ばかり。
 その間に、都市は崩壊し、廃墟になり、しかしいつでも最新の建物で埋まっている。正確無比で客観的な地図など、この世のなかには存在しないのである。
――多木浩二「歴史の天使」*1


 何年か前、測量学の講義を受けたときのことだ。「この授業の目的は、完璧に正確な地図の作り方を教えることではありません」と先生が云った。彼は准教授で、専門は都市・農村計画だったはずだ――いや、『地図と拳』ふうに云うなら、都邑計画か。そもそも、と彼は続けた。「完璧に正確な地図をつくることはできません」
 曰く、その理由は三つある。第一に、世界があまりにも複雑すぎるからだ。完璧に水平な地面はあり得ず、地球は丸い。しかもその球形は、凸凹と微妙に膨らんでいる。どんな土地にも計算をはみ出す歪みが存在し、その歪みを紙の上で正確に写し取ることはできない。
 第二の理由は、測量器にある。と云うのも、完璧に正確な測量器など存在しないからだ。その日の気温や湿度、そして第一の理由にも通じる土地の傾きによって、測量器は必ず歪む。もちろん統計的な処理によって誤差はある程度避けられるが、統計もまた完璧ではあり得ない。この世界を測るにあたって、測量器もまたこの世界の一部である以上、すべては相対的であり、絶対的な基準は不可能だ。
 しかし、もし仮に完璧に水平な土地と完璧に正確な測量器が与えられ、第一と第二の問題が克服されたとしても、われわれは完璧な地図を手にすることはできないだろう。測量器の使い方を誤るかもしれないし、測量結果を書き間違えるかもしれない。横着して測量を怠ったり、それを誤魔化すために計算で済ませたり。あるいは、完璧な土地がほしい何者かから賄賂を手渡されて、「ここは完璧な水平ではありません」と虚偽の報告をするかもしれない。つまり、これが第三の理由である――人間が測量するからだ。人間は必ず間違えるし、嘘をつく。
「ゆえに、正確な測量はあり得ません」と云って先生は、説明を締めくくった。「この授業では、測量が必ず間違っていることを前提としたうえで、発生しているであろう誤差の計算とその訂正を扱います。測量学とは、間違いを測る学問なのです」
 あの丸眼鏡の男なら、この話から何がしかの教訓を引き出しただろう。彼――細川が戦争構造学研究所でおこなおうとしたのは、世界を正確に測量し、地図に写し取ることであり、それによって世界の行く末を予測することだったからだ。彼は百年後に生きる都邑計画の研究者に、反論しただろうか。同意しただろうか。「それでも」と抵抗しただろうか。「やはりか」と諦めただろうか。
 いずれにせよ彼は、日本が生き延びるための別の道を模索するはずだ。

 戦争構造学とは、『地図と拳』に登場する架空の学問である。提唱者である細川は、研究所開設のスピーチで国家の趨勢を「地図」に、地図をめぐる戦争を「拳」に喩えて、次のように述べる。

「戦争構造学とは、地図と拳の両面から、日本の未来を、そして人類の未来を考える学問です。戦争構造学とは、地理学、政治学歴史学軍事学、人類学などを含む、領域を横断した学問です。十年後、世界の地図はどのように変わっているでしょうか。人類はどのように考え、その帰結が何を生むでしょうか。僕たちの研究所はまだ設立したばかりで、人類がどのような未来を歩むか、まだ確定的なことは何も述べられませんが、全力を尽くして未来を予測することと、その予測をもとに正しい行動をすることを約束します」
(第十章、342頁)*2

 この企ては二重の意味でうまくいかない。ひとつには、そもそも正しい予測を立てることは甚だ困難であると云う点で。測量するには世界はあまりに複雑で、絶対的な基準はあり得ない。そして、たとえある程度は正しい予測をしたところで、人間は正しく行動しない。人間は間違える。人間は嘘をつく。人間は騙される。
 しかしそれならば、学問で戦争を止めようとすることは無意味なのだろうか? 振り上げられた拳には拳で応える以外に方法はなく、読むことも書くことも考えることも虚しいのか?
 日米開戦前夜、研究所の「日銀総裁」石本はそんな無力感をも超えたような諦めの境地に至る。

 昭和十五年の九月だった。ドイツはイギリスを空襲していた。日本軍は相変わらず支那と戦っていた。研究所のデュナミスによれば、今後も戦線は拡大し続けるだろう。日本は総力戦となり、アメリカやソ連を相手に泥沼の戦いをすることになるはずだ。
 だが、どういうわけか、石本はもう戦争が終わったつもりでいた。もしかしたら細川や赤石も、同じような想いに至ったのかもしれない、そんなことを考えた。戦争への道を避けられなかった時点で、もはや何もできることはないのだ。日本は不治の病にかかってしまい、もう治療はできない。戦争は始まっていなかったが、始まる前から終わっていたのである。
(第十四章、524頁)

 学問すると云うことは、ものごとには理屈があると信じることである。現象があれば、それを結果としてもたらす何がしかの原因がある。そして現象は、それを原因として次なる結果をもたらす。そうした因果を前提に置かなければ、学問と云う営みは成立しない。
 学問はなんであれものごとを分析する。そうして因果を、ものごとの理屈を考える。因果がわかれば構造化できる。それは一切を水平の地図に記述しようとするようなものだ。そこではもはや、未来も過去もない。あらゆる出来事が別の出来事の原因であり結果である以上、行く末も来し方も等価だからだ。
 そのような信念は必然、決定論に漸近する。あらゆる出来事が始まる前に終わる。すべてが決定づけられている以上、何をしようと、何を考えようと無駄である。石本も同じように思う。だから彼は夢中になって踊る。踊る以外に、一切は虚しいからだ。
 ――いや、そうだろうか。それはそれで、頭でっかちな諦念ではないか?

 細川が戦争構造学を起ち上げるときのスピーチが「地図と拳」と題されていたことが暗示しているように、『地図と拳』と云う小説そのものが、ひとつの戦争構造学と考えることができる。巻末に挙げられた参考文献は作者の勉強量を示すが、それは決して虚仮威しのためではないだろう。本書は細川が予測しようとした未来を、現在の時点から遡って辿ったのであり、参考文献リストは単なる勉強の証拠と云う以上に、学問としての引用文献リストである。ならば論文としてどこまで優れているか。それはいまのぼくに判断のつくことではないし、正直なところ、関心もない。そもそも本書は小説だからだ。どう云うことだ、話が違うじゃないか、なんで小説として書いたんだ、と云う問いへの自分なりの答えは、またのちほど触れる機会があるだろう。
 いずれにせよ、本書を「戦争構造学小説」として捉えたとき、ならば本書もまた石本と同じ境地に至るのだろうか。戦争は決定づけられ、一切は無意味なのだろうか。いや、そうではない。学問すること=地図を描くことは、確かにそれがあったのだと記録する。同時にそれは、地図が描かれたと云うこと自体もまた記録するだろう。そうして紙上に記された出来事は、なるほど否定し得ないが、否定し得ないからこそ意味がある。

 なにをもってしても過去を消すことはかないません。そこには悔悛があり、償いがあり、赦しがあります。ただそれだけです。けれども、それだけでじゅうぶんなのです。
――テッド・チャン「商人と錬金術師の門」*3

 思えばテッド・チャンもまた、決定論そのもの、あるいは決定づけられた終わりに対して思考し、小説として書き続ける作家だった。
 決定論を扱っているわけではないものの、短篇小説「息吹」もまた、避けられない終わりを前にして書くことに何ができるかを書いていた。語り手は、その答えとして、ひとつの説明――「息吹」と云う小説自体――を書き残す。そして想像する。「あなた」と語りかける。遠い未来、外からやって来たあなたが、この説明を読み、そして「われわれの残した他の書物」を読むことを祈る。

 あなたの仲間の探検家たちが、われわれの残した他の書物を見つけて読めば、あなたがたの想像力の共同作業を通じて、わたしの文明全体が生き返ることになる。静まりかえった地区を歩きながら、あなたがたは、ありし日の光景を想像する。塔時計が時を打ち、給気所には近所の噂好きが集まり、触れ役は広場で詩を暗唱し、解剖学者は教室で講義する。こうしたすべてを思い描いたあとで、周囲の制止した世界を眺めると、あなたがたの心の中で、それがまた命を吹き込まれて動き出す。
――テッド・チャン「息吹」*4

 こうした「想像力の共同作業」を喚起するものこそ、『地図と拳』のもうひとつの、そして中心的テーマ――建築である。

 作中ではくり返し「建築とは何か」が問われる。それらの答えはいずれも違うようでいて、同じ答えを別の角度から切り出しているようだ。中川は「建築とは避難所である」と云う。建築とは人間の身を守るものであり、ゆえに国家もまた建築である。細川は「建築には歴史と思想が表れる」と云う。須野はそれと同じ役割を地図に見出し、この須野の考えを引き受けながら、細川は「国家とはすなわち地図である」と云う。ここでもまた、国家と建築は結びつけられている。建築には国家の記憶が刻まれる。建築は国家の象徴となる。一方で、国家の図面を引くことは建築を建てることに通じる。外部から襲いかかる暴力に対して、なかにいる人間を守らなければならない。しかし国家は建築と同様に机上の設計図ではあり得ず、さまざまな力学に曝される。そして国家とはあまりに大きく複雑なものだから、崩壊しないための正しい図面を引くことができる者は誰もいない。
 とは云え中川や細川、そして須野の思想を引き受けながらも、明男にとって建築は、国家よりもさらに大きなものだった。細川との対話のなかで、「建築とは時間です」と彼は云う。

「同じ場所に、同じ形の建築が存在することで、人間は過去と現在が同一の世界にあるのだと実感します。たとえそれが凡庸な建物であっても、存在そのものが価値になるのです。あなたにとっては意味のない建築かもしれない。でも、生れたばかりの子どもにとってはどうでしょうか。彼や彼女が見た建築は、二十年後に幼いころの記憶を繋ぎとめる鍵になっているかもしれません。だから僕は、建てることに意味がないとは思いません。意味がないのは破壊することです。かつてその建物がその場所にあったことを、抹消する行為です」
「なるほど」と細川がうなずく。「君は『時間を繋ぎとめる』という点において、すべての建築に意味があるという。つまり君は人類の話をしている。そして僕は日本人の話をしている。それが僕たちの違いだ」
(第十七章、613頁)

 国家と人類。その規模の違いに、細川の地図測量――彼が作中で試みるさまざまな工作――が失敗してしまう、大きな理由がある。彼は誰より広い視野を持っているかもしれないが、それでも彼は国家と云う基準から逃れることができない。しかし国家と云う物差しは、世界を地図として記すにあたっては歪みが大きすぎるのだ。
 あるいはこうも云えるだろう。細川の引く図面はしょせん、図面止まりのアンビルトである、と。彼は権謀術数に長けてはいても、明男のように自然を――何よりもわれわれの現実の基盤を成すものである風や温度を――厳密に考慮することができない。それは彼が結局、国家と云う虚構の建物に囚われているからだ。彼にとっての建築は、どうしても観念の側にある。彼が考えるのは、未だ来ぬと云う意味でアンビルトである未来のことばかりだ。最後に彼が計画する建物も、未来を象徴するビルである。
 もっとも、既存の建築については細川も、その来歴を、過去を見出している。建築とはまず何より、過去を記すものである。そして、国家が滅んでも建築は残ると云う点で、建築は国家より、ともすると大きいものである。
 建築は記憶する。建築は思い出させる。なにをもってしても過去を消すことはかないません。建築が残っている限り、あるいは破壊してもなおその痕跡が残っているならば、そこに人間が生きていたと云う過去を消すことはできない。

 時間。すべての建築は特定の時間に帰属する。現代建築は現代に、古典建築は過去に。そして、その時間を無限に延長しようとする。モニュメントの語源は「思い出させる」ことにある。拳の記憶を、その時間を、永遠に保存し、呼び覚ますこと。
(第十六章、577頁)

 最前に『地図と拳』は戦争構造学小説であると述べた。もっともその戦争構造学は、未来の予測ではなく過去の遡行として実践されている。向いている方向が逆になったとき、戦争構造学は「いかにして戦争を止めるか」ではなく、「なぜ戦争を止められなかったのか」を問うことになる。「これから何をするのか」ではなく、「かつて何をしてしまったのか」を。そうして振るわれた拳の記憶を――振るった人、振るわれた人、引っくるめたそこに生きていた人びとのことを、思い出すこと。そこに『地図と拳』の戦争構造学がある。
 ゆえにこう訂正しよう。『地図と拳』は、建築である。建築についての小説であり、それ自体が建築なのだ。そうして書かれた小説、刻まれた言葉は未来に残り、過去を呼び覚ましつづけるだろう。

 我々が森の中を歩いていて、シャベルでもって長さ六フィート、幅三フィート程の大きさのピラミッドの形に土が盛られたものに出会ったとする。我々はそれを見て襟を正す気持ちに襲われる。そして、我々の心の中に語りかけてくる。「ここに誰か葬られている」と。これが建築なのだ。
――アドルフ・ロース「建築について」*5


 しかしそうして思い出された過去は、決して過去だけを物語るのではない。
 歴史はくり返されるものだと考えるなら、過去を考えることは未来を考えることである。あるいは、くり返しを避けるためにもまた、過去を考えなければならない。いずれにせよ現在と未来は過去からの地続きである以上、過去を参照することは、未来を考えることになる。戦争構造学とはそのような学問であったし、『地図と拳』もまたそうだろう。一切が運命づけられた決定論を信じるとしても、これは変わらない。未来は未だ書かれざるものであり、未来を書くためにも、われわれは過去を見る。この仕組みは、李大綱――になり代わってしまった人物――の来歴を語る序盤ですでに示されている。

 千里先を見ることは、千里前を見ることと同じだった。
(第三章、121頁)

 彼は過去から未来を語る。その精度は凄まじく、李家鎮=仙桃城の歴史の一切が、彼の記した小説のなかに語られていることが仄めかされる*6。しかしだからと云って、李大綱=周天佑が未来予知の能力を持っていたのかと云えば、そうではない。彼の来歴を踏まえるならば、それは彼自身に身についた特殊能力と云うよりも、物語――それも、適切に語られた物語が持つ効果である。

 未来とは人々が何を信じるか――つまり真偽にかかっている。そして、真偽を決めるのが善悪である。善悪を知り、真偽を作り、正しく語る。説話で聴衆の心をつかんできた周にとって、千里を見通すこと、あるいは千里を見通していると信じさせることは容易かった。
(第三章、122頁)

 善悪を知り、真偽を作り、正しく語る。物語は過去に根ざし、聴衆の心に根ざす。すると物語は自ずから現実と結びつき、未来を語る。あるいは、未来を語っているのだと信じられる。もう、こう云ってしまって良いだろう。李大綱=周天佑が語ったのは、SFである。とてもよくできたSFである。
 もっともこうした見方は、SFは未来予知の道具ではない、と反論されるはずだ。いかにも。未来予知のように読めるSFはたくさん書かれているが、それは本当に未来予知をしているのではなく、「善悪を知り、真偽を作り、正しく語」られた物語が、現在――いつの時点でも――においても未来予知のように読める、と云うことだろう。
 優れた想像は現実に風穴を開ける。考え抜かれた理屈は現実を裏打ちする。物語は現実と結びつく。物語は時として窓になり、鏡になる。李大綱=周天佑が試みたように練り上げられた物語は、人の心に届き、人を動かし、あるいはまるでそのようにして現実に働きかけているかのように読まれる。『地図と拳』は、そんな物語の功罪を問う小説でもある。

 物語が現実と結びつくとき、メディアが必要になる。李大綱=周天佑は物語ることを建築に喩え、その比喩は『地図と拳』全体を貫いているが、建築そのものは物語そのものと云うよりも、物語を再生するためのメディアなのだと云うべきだろう。建築の構想だけでは建築が建たないように、物語もまた、想像だけでは物語られ得ない。そこには声や文字と云うメディアが必要になる。プロットは構造材であり、文体はマテリアルだ。公園を設計しようとする明男の次の思考は、建築と小説の違いを述べているようでいて、小説に求められているものが暗に述べられている。

 とある小説家によると、突然天啓が降りてくることがあるという。
 建築においてそんなことはなかった。建築家は原稿用紙の上ではなく、現実世界に物語を記さなければならない。だが、現実世界には重力がある。雨も降るし、雪も降る。風も吹くし、しばしば自然災害が起こる。湿気たり、乾いたりする。それらを勘案して設計し、適切な建材を見つけなければならない。建材が見つかっても、加工技術が追いつくかもわからない。そして、すべての要素を「予算」や「発注者」や「法律」という壁が阻害する。頭の中の空想は、いつまでも空想のままだ。紙の上の計算は、紙の上の計算にすぎない。明男は最後に、いつも同じ敵と戦う羽目になる。現実世界という敵である。
(第十二章、446頁)

 小説を書いたことがある人間ならわかるように、天啓が降りてきたところで、それが一気に小説として書き上げられるわけではない。降りてきた発想をどう組み立てるか。構造や素材に気をつけなければ小説は自壊してしまう。適切な書き方がわかったとしても、書き手の技術がそこに追いつくかどうかわからない。プロの作家ならばここに、「予算」や「発注者」や「法律」の束縛が強くのしかかる。小説はなるほど原稿用紙に書かれるけれども、原稿用紙もまた枚数単価で数えられる現実である以上、小説を書くこともまた、「現実世界に物語を記」すことであるはずだ。そのためには空想さえも完全に自由ではいられない。物語を物語るとき、物語は空想と同時に現実によっても規定される。

 本当の難点は信念にある。僕が担当した十八歳の学生たちは、読者が現実で、自分自身も現実で、世界の話題も現実だとはまったく信じていない。そうだということを、どこまでも主張しなければならないとは信じていない。
――リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』*7

 もっとも、こうしたことを云われると、小説はもっと自由であるはずだ、と云いたくもなる。小説は何を書いても良いし、どう書いても良いのではないか、と。
 ここで思い出されるのは、エンパイアステートビルについて交わされた、細川と明男の問答だ。超高層ビルを実現するために必要だった技術とは何か、と細川は問う。

「答えは、エレベーターと空調機の発明だよ。この二つの技術が、超高層を実現させたのだ。エンパイア・ステート・ビルディングを設計した男はそう言っていたよ。四百メートルの建物では、高層階へ階段で移動するわけにはいかない。利用者を運ぶためにエレベーターが必須だった。また高層階では風が強く、窓を開けることもできないので、換気をするための空調機も必要だった。実用的な高層ビルディングには、この二つの技術がなければならなかった」
(第十四章、503頁)

 細川はこの話から「壮大な建築も、案外細かな技術の集積によって実現する」と云う教訓を導く。しかしここで云う、その細かな技術とは、人間がそこで生存することを可能にする技術である。逆に云えば、人間が住むことを度外視したとき、真に巨大な建築ができると云えるだろう。ピラミッドやストーンヘンジとは、そのような建築ではなかったか?
 小説もまたそうだ。人間が読むことを度外視したとき、細かな技術など必要なく、巨大な建築をものすことができる。誰に読まれることのない、自分ひとりのためだけの、空想の城。
 しかし、『地図と拳』において、そのような城はもはや建築とは呼ばれない。

 建築は誰のものか。利用者のものである。すなわちこれは建築ではない。明男はそう思った。これは巨大な兵器である。
(第十五章、528頁)

 満州では、もはや本物の建築は期待されていなかった。誰かを殺すための施設を作ることは、建築家の仕事ではない。
(同、536頁)

 いち読み手としては、巨大な兵器で結構だ、と云う気持ちもないではない。それはそれで迫力があり、それにしかできないかたちで人を楽しませるだろうし、何より書き手自身にとって救いとなるだろう。けれどもそんな巨大建築は、ともすると陰謀論的な誇大妄想に漸近する。なんとなれば、その空想は現実と結びついておらず、その建物には他者が住んでいないからだ。自分の頭のなかの空想が現実に対して優位になってしまう。そんな境地を、チェスタトンならば「狂人」と呼ぶ。小川哲の作品には、しばしばそんな意味での「狂人」が登場する。『ゲームの王国』のポル・ポト。「時の扉」のヒトラー。あるいは真正面から陰謀論を取り上げた「スメラミシング」。そして『地図と拳』の場合、そのひとりは憲兵の安井だ。天皇を妄信する安井はその意味で物語の暴力を振るう者であり、最後には首を吊ることで、自身もまた物語の犠牲者となる。そしてその姿には、現実を見定めることができないままに敗北へ突き抜けてゆく大日本帝国が重ねられている。
 だからこそ、と云える。だからこそ、小説は他者を考えなければならない。自分の空想の埒外にある他者をも考慮しなければならない。『君のクイズ』を筆頭に、小川哲は一貫して、他者との遭遇を描いている。そもそもSFや歴史小説を書くことは、現在の自分とは違う思考で生きる人びとを想像することであるはずだ*8。遠い過去に生きた人のこと。遠い未来に生きる人のこと。遠い国に生きる人のこと。その想像は絶対に届かないかもしれないが、しかしそうして手を伸ばすことによって、われわれは自分の想像の外側にあるものを知る。

 長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。
――ガブリエル・ガルシア゠マルケス百年の孤独*9

僕たちは日々、これまで知らなかったものに触れる。それらは多かれ少なかれ、僕たちの人生を変える。まだまだ、世界には自分の知らないことが数多く存在するのだと教えてくれる。「氷」とはすなわち文明であり、宝石であり、神だったのではないか――僕はそんなことを考える。
――小川哲「受賞エッセイ」*10

 他者を知ること。それはこう云い直しても良い。世界を知ること。建築は、地図は、小説は、そのために時間を繋ぎとめる。

 ここでようやく、クラスニコフ神父に登場願おう。高木・細川・須野・明男と云う、小説の縦糸となる男たちとはほぼ言葉を交わさなかったにもかかわらず、彼らの人生を、言葉で裏打ち――思えばこれは製紙用語だ――するように生きた人物。彼は生きることの虚しさを知りながら、それでもなお生きるべきだと云う。

「何をすればいいのかわかりません」
「何かをしなければならないわけではありません。ただ生きればいいのです」
「意味があるのですか?」
「それなりに長く生きてきたので、あなたの気持ちも少しはわかります。私の人生も、失ってばかりでした。大切な人を失い、教会を失い、神の御言葉を失ってきました。それでも生きるのです」
(第十七章、602頁)

 『地図と拳』において、真に何かを成し遂げた人物はいない。図面を思ったとおりに引いて、建築を竣工まで立ち会えた人間はいないのだ。唯一の例外は、最後に地図を遺した、クラスニコフだけだろう。その彼さえ、あらゆるものを失い、無数の挫折を生き抜いてきた。生きることは残すことであり、残すことは時間を繋ぎとめることだ。何かを残すことは、それこそ奇跡である。

 ある日、一人の書記が、物語を文字で表現した。政治や経済のために使われていた文字を組み合わせ、物語を言語に置き換えた。聖書が生まれた真の奇跡は、このことにある――クラスニコフはそう言った。それまで声で伝えていたことが、文字になった。文字を学ぶことさえできれば、どの時代の、どの立場の人でも、等しく神の声を聞くことができるようになった。
(第十一章、400頁)

 物語と小説が、ここでは区別されていることに注意したい。物語とは、後付けされた因果であり、先取りされた想像であり、いずれにせよそれのみではかたちとして残らない。物語は文字と云うかたちで残されたときはじめて他者に開かれる。声のみでは目の前の誰かに伝えることしかできない。自分の声の聞こえない、眼には見えない向こう側へ向けて物語ること、それが小説なのだ。しつこいようだが、『地図と拳』の勘所はここにこそあると思うのでくり返したい。書くことによって残す。残されたものを読む。そうすることによって人は、時間に繋ぎとめられる。
 『地図と拳』は、建築=地図=小説と云う営為を、そのような繋留として書く。クラスニコフの地図が広げられる終章は、その集大成だ。十年ぶりに仙桃城を訪れた明男は瞑目し、街の幻を思い浮かべる。自分が知り、自分が携わった街を。
 目を開いたとき、そこにあるのは廃墟だ。

 かつての仙桃城が、午後の光に溶けていく。すべての過去が、ありえたかもしれない現在が、変えようのない現実の中に吸いこまれていく。
(終章、619頁)

 切ないシーンだ。しかし、ただ切ないだけではない。第十二章、明男が自らの仕事として公園を、モニュメントを決意するくだりを思い出してほしい。

 光とは命である。光は、そこに何かが存在することを示す。光がなければ、人びとは何も見ることができない。光は人間にとって――むろん建築にとって――命そのものである。
 だからこそ、建築家たちは光を利用する。あるときは命を生みだすために。あるときは命を見つけるために。あるときは命を奪うために。
 光が命であるならば、闇はなんだろうか。
 想像力だ、と明男は思う。
 明男は東州河の向こうに広がる冷たい暗闇の中に、太陽の光を幻視する。明け方になると、大豆と高粱の畑が早朝の光によって薄紅色に染まる。日が昇るにつれて次第に茶色がかった緑色に変わり、正午の黄色い陽光が眩い白色の世界をつくりだす。午後になって太陽が沈みかけると、光を吸いこんだ土が紫を帯びてぼんやりと輝く。その横の東州河が、銀色に反射しながら下流に向かってゆっくりと流れる。
 そうして夜になる。あたりからすべての存在が消滅すると、すべての存在を想像する余地が生まれるのだ。光は実像を写し、闇は虚像を写す。そこに存在しないものが立ちあがり、人間の精神の中で様々な建築が生みだされる。
(第十二章、427頁)

 光とは命であり、想像力に対する現実である。光がなければ、瞼を閉じていれば、何も見ることはできない。けれども瞼を閉じた闇のなか、夢のうちから、物語は生まれる。建築家=小説家とは、闇のなかに引き籠もることでもなければ、光のなかで想像を忘れることでもない。想像されたものを、現実に繋ぎとめることだ。そうして残す。建てて残す。書いて残す。残されたものが想像を、記憶を呼び起こす――。
 明男と丞林が広げた、一分の一の地図。そのなかに、クラスニコフは存在しない島――青龍島を書き残した。それは現実に記された物語=小説であり、満州と云う白紙の地図に描きこまれた、真の夢だった。同時にそれは満州の歴史に対して『地図と拳』が書き加えた李家鎮だったとも云えるだろう。そして実際、島のなかには李家鎮の地図が置かれている。地図にはこう書かれている。地平線の向こうにも世界があることを知らなかったあなたへ。
 あなたとは誰だろうか。クラスニコフがいつか出会った李家鎮の人びと。李大綱。孫悟空。丞林と明男。細川。須野。高木。慶子。石本や中川。ともすると、安井や黄も。そして、戦争を生き抜いた人びと。あるいは、戦争のなかで死んでいった人びと。何よりも、クラスニコフ自身。それから、あなた。この小説を読み、いままさに想像力の共同作業を働いている、あなただ。
 書かれたもの、記されたものは、そうして遠くまで届く。

 明男は彼女を撮影する。背後には、かつて自分が作ったモニュメントの残骸が写っている。
(終章、625頁)

 長大な小説の、ここが結末だ。地図も写真も本作においては、単なるエモーショナルなアイテムに留まらない。と云うよりも本書の眼目は、それらが喚起するエモーション、ひいては想像にこそ向けられている。
 加えて云えば、『地図と拳』があくまで小説である理由もまた、ここに見出されるだろう。どうしても事実の断片の集成である学問――もっとも、そこに学問の束縛があり、誠実があり、真髄があると思う――では、青龍島を書き得ない。しかしそれを本書自体が書いてこそ、物語ることの功罪は、この射程で問われるのである。

 結末で発端が明かされるつくり、船旅に始まり船旅に終わる構成、あるいは随所で見られる反復は、小説に幾何学的な構造、端的に云えば円環を印象づける。ガルシア゠マルケスボルヘスへの目配せもそのひとつだ。なかでも小説のラストシーンは、明らかに「学問の厳密さについて」のイメージを借用している*11

……あの王国では、地図学は完璧の極に達していて、一つの州の地図はある都市全体の、また王国の地図はある州全体の広さを占めていた。時代を経るにつれて、それらの大地図も人びとを満足させることができなくなり、地理学者の団体は集まって、王国に等しい広さを持ち、寸分違わぬ一枚の王国図を作製した。地図学に熱心な者は別にして後代の人びとは、この広大な地図を無用の長物と判断し、やや無慈悲の感があるが、火輪と厳寒の手に委ねた。西方の砂漠のあちこちには、裂けた地図の残骸が今も残っている。そこに住むのは獣と乞食たち、国じゅうを探っても在るのは地図学の遺物だけだという。
――スアレスミランダ『賢人の旅』(レイダ、一六五八年刊)の第四部、四十五章より。*12

 これで全文。あまりにも短い。
 けれども短く切り詰めることでその抽象性が浮かび上がるボルヘスとは正反対に、『地図と拳』はその抽象性に飛びこんで、時間をかけて分量をかけて円環をぐるりと回ってみせる。すべてが決定されていたとしても、最初と最後が一致したとしても、その旅は決して虚しくはない。われわれは李家鎮に、彼らが生きていたことを知っているからだ。
 以前、知人とボイスチャットで話していたとき、『地図と拳』が結論ありきでつくられていることに異議が呈された。なるほど、建築とは何か、満州とは何か、小説とは何かと云うことについて、『地図と拳』は紙幅を割いて語りながら、その筆致はまっすぐで揺るがない。ではなんのためにこんなにも長く書いたのか。ぼくはその答えを、長さそれ自体に見出す。『地図と拳』は始点と終点を線で結んだだけかもしれない。けれども小川哲は、そうして二地点を線で結ぶ抽象性の暴力に対して、その二地点間のあいだを自分なりに考えることを選んだ。結論ありきの後付けで結構だ。それこそが物語――出来事のあいだを因果で結びつけること――だからだ。そして、そのありようをこそ『地図と拳』は問う。
 リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』の文庫版に寄せた解説で、小川哲は同書の試みを「より正確な、より「世界」に接近した小説を完成させる」覚悟だと評する。そこで引用する作中終盤のセリフ――実在の写真家、アウグスト・ザンダーが小説の主人公たちと出会ったときに残した言葉――を、ここでも引用しよう。

 ――自動車ってのは、出発点から目的地にできるだけ早くたどり着くためのものだ。わしはそのあいだで起きることを人に見せて飯を食ってるんだよ。*13

 これ一作で終わっても良いと云うほどに人生を懸けていたパワーズのデビュー作と、プロの作家として生きていくなかで書かれた『地図と拳』は作家のキャリアにおいて違う位置にあるし、実際、文体面では両者の試みは正反対と云っていい*14。しかしぼくにはこの解説は、小川哲自身の自作解題のように思われてならないのだ。ボルヘスによる寓話と並べるならば、小川哲が『地図と拳』で書こうとしたのは、「完璧の極に達し」た地図が、「裂けた地図の残骸」と化すまでの「あいだ」ではないだろうか? 砂漠のあちこちに散らばる断片を集め、どんな地図がつくられたのかを想像し、そこで生きていた人びとを、国家がいかに生まれ、消えていったのかを、考えること。
 その「あいだ」を埋める作業は、因果の後付けであり、もっと物語ふうに云うならば、バトンリレーを思い描くことだ。十九世紀のユーラシア史から、日清、日露、日中の戦争へ。そうして第二次世界大戦へ至る連鎖のなかにある、高木、細川、慶子、須野、明男と云う、軍刀のバトン。それからもうひとつ、李大綱と、孫悟空、丞林の連なり。そして両方を繋ぐ、クラスニコフの地図と言葉。
 再三述べたように、すべてを因果のなかで捉えることはしばしば虚しく、ともすると決定論陰謀論に漸近する。何もかもが決まりきっていて、抵抗することが無駄に思える。そして実際、多くの抵抗は無駄に終わる。前掲の解説で、「二十世紀とはつまり」と小川哲は云う。「世界に対して個人で抵抗する意義が失われていった時代だ」
 しかし、それでも個人は生きていたし、生きてきた。「たしかに、たったひとりで抵抗した者たちは、世界を変えることはできなかったかもしれない。彼らは手ひどく失敗し、世間に冷笑され、歴史から抹消されてきた」だが――、と小川哲は続ける。

 だが、その想いや祈りは誰かに届き、個人を変えることはできたのだ。そして、そうやって変えられた個人が、実際に少しずつ世界を変えていった。本書[=『舞踏会へ向かう三人の農夫』]では、そんな希望が重層的に何度も繰り返されている。そして、鏤められたそれぞれの希望が積み重なり、互いに混じり合いながら一点に集約されていく終盤は、およそ他の形式では実現できない次元の感動を生みだしている。

 その感動は、『地図と拳』のそれに通じるだろう。

 満を持して問おう。小説は戦争を止めるだろうか?

 止めない、と云うことはいかにも容易だ。時代の濁流はあまりに重い。しかしこれもまた繰り返しになるが、そんな濁流のなかに呑まれていったひとりひとりの繋がりを見つめることは、彼らが生きていたことを忘れないと云うことであり、他者を想像すると云うことであり、世界を知ると云うことでもある。そうした想像力の共同作業を通して小説は、読者であるあなたを変えることはできるかもしれない。なんとなれば小説とは、究極、書いた者と読んだ者、一対一の共同作業であり、そのあいだにある遙かな距離を、国境を越え、時代を越えて、旅し得るメディアだからだ。小説はあなたに向けて書かれている。バトンはあなたに渡されている。地平線の向こうにも世界があることを知らなかったあなたへ。

 本は、孤島に生きるフィンチのように容易に変化し、広がりと多様性を持っている。しかしそこには共通する中核部分があり、それはあまりにも見え透いているので当然の前提と思われている。最後に重要となるのは、恐れと怒り、暴力と欲望、驚くべき〝許し〟の能力と結び付いた憤怒──品性──だと、誰もが思っている。もちろん、それは子供っぽい思い込みだ。創造主が、連邦裁判所の判事のようにいつか一人一人に裁きを下すと信じる段階から一歩進んだだけのこと。満足のいく物語と意味のある物語を取り違え、生命を大きな二本足の生き物と思い込むのが人間だ。だが違う。生命ははるかに大きな規模で動員されるもの。そして世界が今行き詰まろうとしているのはまさに、小説が世界をめぐる戦いを魅力的に――失われた少数の人々の間の争いと同じように――描くことができていないからだ。しかしレイは今、誰よりも虚構を欲している。英雄、悪人、そして今朝、妻が語り聞かせてくれている端役たちの話は真実よりも優れている。彼らは言う。私はにせものだ。私が何をやっても世界は変わらない。でも、私は遠いところからこの電動ベッドの枕元までやって来て、あなたの話し相手となり、あなたの心を変える。
――リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』*15

 小説はにせものだ。「より正確な、より「世界」に接近した小説を完成させる」ことは、信念としてはあり得ても、実践としてはあり得ない。完璧に正確な地図をつくることはできません。しかしそれでも地図は何某かを書き記す。間違いを含めて書き残す。そうして残されたものから、想像力の共同作業が始まる。

「思うんだがね」
 中川は誰に話しかけるでもなく、ぽつりとそう呟いた。「音楽を聴いているとき、僕は音楽を聴いていないんだ」
「どういうことですか?」とすかさず石本が質問した。
「僕は音をいちいち拾って感動しているわけではない。音楽が僕の精神に作り出す想念に身を委ねているだけだ。つまり、僕は音楽を聴きながら、別の音楽を自分で作り出しているんだ。これって、何かに似ていると思わないか?」
[…]
「建築だよ」と中川が言った。(第十章、326頁)

 そして音楽はおそらく、よっぽど小説に似ている。メディアとはそのようにして、想像力の共同作業を駆動する。このあとに明男が後付けで理屈を考えることも含めて、想像とは何か、物語とは何かを問う、これは象徴的なシーンだろう。引用が続くが、ぼくはここに『舞踏会』の一節を想起せずにはいられなかった。

 明らかにグリフィス公園で撮られたシーンに我々がなぜ心を動かされるのか、ここにようやくその説明が見出される。我々はフィルム上の出来事に反応しているのではなく、自分の心のなかにおいて同時進行で編集している無数のリールに反応しているのだ。言い換えれば、我々自身の希望と恐怖から成る映画に我々は反応している。グリフィス公園、ヴェルダン、人けのないパリの街路、ぬかるんだ道に立つ三人の農夫――それらよりも、自分を巻き込もうという機械的決断、場面を作り直し物語を拡張しようという決断の方が、より大きな意味を持っているのだ。*16

 メディアは事実を記さない。メディアが写すのは虚像であり、偽物である。それでもメディアは記し、残す。われわれが読み、聴き、見るのは実のところ、メディアに記されたそのものではなく、そこから生みだされた想像だ。けれどもその想像が独り善がりになることなく、メディアの向こう側にそれでもなお存在する現実へと手が伸ばされる限り、世界は閉じることなく、開き続けるだろう。たとえ向こうまでたどり着かずとも、理解することができずとも、考えてみること。そうして、自らのなかで問い続けること。そうでなければ世界を知ることはできず、自他の肯定はあり得ない。
 要するにそれは、自分で考える、と云うことだ。

 自分で考える、とはどういうことでしょう。それは、戦争の写真を見て、いろいろと分析すればいい、ということではありません。戦争に囲まれてしまった現在の私たちは、芸術や映画や写真などを見ながら、言語化し、考えることが何より大切なのです。こうしたものをきっかけにして何か考えようと思えば、それはもういくらでも考えられるはずです。作家自身がひょっとしたら気がついていないことまで含め、考えてしまえばいいのです。そういう作業をすることが、この戦争化した世界、あるいは世界化した戦争のさなかにやはり必要なのだ、と強く思っています。
――多木浩二*17

 自分で考えるのに引用するのか、と云う指摘は、自分で考えるために引用するのだ、と答えておこう。こうして拾い集めた言葉ひとつひとつがぼくにとってはバトンなのであり、自らの問いとして引き受けてゆくと云うことでもある。『地図と拳』のずらり並んだ参考文献リストもまた、作者の勉強量以上に、小説自体が辿り、読者に託される、そんなバトンの軌跡を跡づけているはずだ。

言葉の群れは、やがて偶然出会った読者によって批判され、解体され、次の書物や思考の肥やしになる。少なくともそうなるように工夫されなければならない。謝辞や註や参考文献が必要なのは、それらが偶然の出会いの記録でもあり、歴史書の解体に役立つからでもある。やがて歴史研究者自身も、老いて寿命を迎えることで、自分の放った言葉とともに、歴史にただよう「屑」の一つになる。現世のしがらみから切り離され、誰の所有物でもない「屑」に分解されるのである。そんな歴史研究者の自覚においてこそ、歴史叙述は生成し始めるのだと思う。
――藤原辰史*18


 この文章は『地図と拳』を「次の書物や思考の肥やし」とするために書かれた、解体の試みである。そうして断片にすることによってはじめて見えてくる繋がりと云うものもある。もとより、完璧な読解はあり得ない。小説に何が書かれてあるのかを正確に書こうと思えば、小説全文を引用するしかなくなる。
 そして同様に、完璧な小説もまたあり得ない。完璧な地図があり得ないように。なぜなら世界はあまりに複雑で、絶対的な基準はどこにもなく、人間は過ちを犯すからだ。しかしそもそも、完璧な小説など必要がない。なんとなれば、世界はあまりに複雑で、絶対的な基準はどこにもなく、人間は過ちを犯すからだ。小説は人間の過ちを測り、記す。そこには悔悛があり、償いがあり、赦しがある。おそらくはきっと、感謝もある。そして最後に言葉が残り、言葉は問いを残すだろう。われわれはそこから考えるほかない。自分の頭で。あなたの言葉で。もちろん答えは出ないかもしれない。ピンポンは鳴らないかもしれない。けれども問うこと。考えること。それでもなお、と。

以前、「この人は答えのない問いを発している」と書評で書かれたことがありました。たしかに私は、いままで理性的な言語で書こうとしてきた。ただそれだけだったのです。にもかかわらず人はそこに答えがない、という。ですから、決定的に理性的な言語、構造のはっきりしたもの、謎のないもの、といったものにたいする強い不信があります。いつ頃からかそう思うようになりました。しかしながら、私たちは何かを書かなければなりません。もちろん書くときはしっかり語らなければなりませんし、人に伝わらなければならない。そうまわりから言われたりもします。けれども、そのときに自分が扱う言葉や言説というのは、あくまでもとりあえずのものだと思っています。いま私は何か知的な問題を提起する立場にいながらも、じつは知的な問題など解けはしないのだ、と思っているということです。これまで、そういったことが、私自身も含めた大学や論壇などでは、あまりに見過ごされてきました。そうした反省がひとつあります。その反省が、私に二〇世紀の探求へと誘いました。
――多木浩二*19

webgenron.com

*1:多木浩二・今福龍太『映像の歴史哲学』(みすず書房

*2:以下、本文からの引用は集英社単行本版に基づく

*3:テッド・チャン『息吹』(大森望訳、ハヤカワ文庫SF)

*4:同前掲書

*5:アドルフ・ロース『装飾と犯罪――文化・芸術論集』(伊藤哲夫訳、ちくま学芸文庫

*6:『地図と拳』は『百年の孤独』だろうか、と云う疑義に対して、この点を持って「少なくとも前者は後者を参照している」と答えることはできる。なんでもかんでも先行の有名作に喩えることは喩える作品・喩えられた作品双方に対してともすれば浅慮であり慎むべきだが、両者は異なると云う理由で並べることを否定するのもまた浅慮である。

*7:リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』(若島正訳、みすず書房

*8:「「宇宙人について書くようなものだ、という点で一緒」直木賞受賞・小川哲が語った“SF小説と時代小説の共通点”とは」(文春オンライン、https://bunshun.jp/articles/-/60227

*9:ガブリエル・ガルシア゠マルケス百年の孤独』(鼓直訳、新潮社)

*10:小川哲『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)

*11:明らかも何も、山田風太郎賞記念のトークショーで本人が述べていたのだが

*12:ホルヘ・ルイス・ボルヘス『創造者』(鼓直訳、岩波文庫

*13:リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』(柴田元幸訳、河出文庫

*14:「より正確な、より「世界」に接近した小説を完成させる」ために凝った文章表現を駆使するパワーズと違って、『地図と拳』では平易な、ときとして凡庸な比喩が使われる。もっともそれは、諦めや怠惰ではなく、意図された実験である。高山羽根子との対談(『小説TRIPPER』2021年夏季号「新たな小説の分岐を求めて」)によれば「いま連載している長篇[=『地図と拳』]では、実験的に、僕のなかの美的センスで「ギリアウト」まではOKにしたんです。絶対NGと完全OKの間のグレーゾーンにあるギリアウトまでは、OKとしている。そこまでOKとしたときにどういう作品ができあがるか、という実験ですね」。『地図と拳』のテーマに即して解釈するならば、この文体上の実験は、小説を開かれたものにするための実験だろう。それもまた、「あいだ」を探る試みである。

*15:リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(木原善彦訳、新潮社)

*16:リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』(柴田元幸訳、河出文庫

*17:多木浩二・今福龍太『映像の歴史哲学』(みすず書房

*18:藤原辰史『歴史の屑拾い』(講談社

*19:多木浩二・今福龍太『映像の歴史哲学』(みすず書房

「グラモフォンとフィルム、タイプライターのための殺人」:『蒼鴉城 第四十九号』

 あとに残るのは言葉。ただ言葉だけだ。われわれは言葉の外に出ることはできない。音楽がドレミの外では何も演奏できないように。映像が光の外では何も映すことができないように。すべてはこのどうしようもない窮屈さのなかで一切が遅れてゆく。そこには本当も嘘もない。ただ抜け殻になった死体が転がっている。コーパス。死体。全集。言葉の集積。
 まだわたしの話を聴いてくれているかい?


 キトラとぼくはきょうだいのようにあるいは友達のように育った。いちばん収まりが良い関係は、探偵役とその助手だろう。ぼくたちは探偵小説の真似事をすることで世界と関わってゆく。今回キトラが挑むのは半世紀前に起こった殺人事件だ。中学校の資料室で英語教師が殺害された。現場の出入りは録音と録画によって監視下にあって状況は密室。そして被害者は死の間際、タイプライターでダイイングメッセージを残していた――。



 こんなミステリを久しぶりに書いたような気がします。スリーピング・マーダー。密室。ダイイングメッセージ。名探偵、みんなを集めて「さて」と云い。趣向としてはフーダニットやハウダニット、ダイイングメッセージ当てといろいろ詰め込んでいますが、やりたかったことは要するに、タイトルどおりの三題噺です。グラモフォンとフィルムとタイプライター、三つのガジェットのためにこの殺人は書かれました。なんと人工的な! けれどもそれはミステリが本来的に抱え込む残酷であり、面白さでもあります。楽しんでいただければ幸いです。
 元ネタは、作品内のエピグラフでも引いているとおりフリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』。探偵役の名前もここから採っています。数年前からタイトルだけは思いついていて、ネタがぼんやりと浮かんだのは今年の春頃。手がかりから犯人へ至る推理がはっきり見えたのは〆切一ヶ月前です。実際の執筆期間は二週間ほど。だから本作は数年かけて書かれたとも云えますし、二週間の突貫で書かれたとも云えます。あるいはこうも云えるでしょう――ぼくが生れてからいままでの二十四年かけて書かれた、と。書くと云うことはかくも捉えづらいものであり、ゆえに本作の主題も「書くこと」です。最後に添えられた呆気ないほど単純な、いっそ馬鹿げたダイイングメッセージが、実のところぼくのもっとも書きたかったことでした。

 掲載は京都大学推理小説研究会の機関誌『蒼鴉城 第四十九号』。京都大学の十一月祭で頒布予定のほか、通信販売や文学フリマでも手に取っていただけると思います。下記のboothでも販売しますので、追加された際にはぜひお買い求めください。妖怪退治の活劇や京都市内を股にかける知恵較べまで、力作揃いです。


追記:信販売開始しました。

booth.pm

soajo.jimdofree.com

読書日記:2023/11/08~11/15 ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』・松井和翠『和翠の図書館I』


 卒業研究の進捗が芳しくない。それはそれとして本は読む。

スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』

写真は繰り返し立ち現れる。写真は単純化する。写真は扇動する。写真はコンセンサスという幻覚を創り出す。

 藤原辰史先生の《現代史概論》に潜っている。「現代史を」語るのではなく「現代史とは何かを」語る講義で、マクロな政治史・外交史からはじまって、社会史、経済史、環境史、思想史、文化史、そして文学や哲学を経由しながらミクロな個人史へ、その内容は多岐にわたる。それも、シームレスに話題が変わり続けるのでついてゆくのは難しい。けれども毎回、確かな熱を与えてくれる講義だ。
 先日もその講義を終えて帰りがけ、昼休みに向けてわっと流れ出す学生たちの波にもまれながら階段を降りていると、後方で、おそらく同じ講義を受けたばかりであろうひとりがこんなことを云っていた。「面白いけど、結局、何が云いたいのかわからなかったな」。ぼくは振り向いて「違う」と云いかけた。そうじゃないんだ、と。けれども、その言葉のどこにも否定できるところがないと考え直して、そのまま階段を降りつづけた。講義は確かに、興味深く刺激的であると云う意味で、とても面白い。けれども、何が云いたいことなのかよくわからないことも事実だ。先生は多面的に「現代」を語る。それは必然、「戦争」を語ることになる。戦争が悪しきものであることは論を俟たないが、それは問いかけの始まりであって結論ではない。では先生は結局、何が云いたいのだろう? 歴史は大事? 歴史は面白い? それは真実かも知れないが、答えではない。いや、そもそも答えなどあるのだろうか? もっともこれは、答えなんかないんだと云う諦念や開き直りではない。問い続ける、と云うことだ。結論づけることができずとも、結論がすぐに相対化されたとしても、それでも、と。《現代史概論》が次々と違う歴史叙述のあり方を繰り出すのは、絶えず「それでも」と云うためではないか? ひとりひとりが違うことを考えている。そのひとりひとりのなかにも、たくさんの違う考えがある。だからわれわれは問うことをやめてはならないし、だからわれわれは問うことができる。
 問うことはおそらく、「それでも」と云うことである。それは相対化であり、抵抗であり、屈折であり、しばしば議論を錯綜させるものとして嫌われるが、何よりも議論を駆動させる一歩でもある。それはまさしく歩くことに似ている。片足を前に出すだけでは前進できない。右足の次に左足を出し、それからまた右足を出すことで、ようやく歩くことができるわけだ。「しかし」や「それでも」と打鍵するとき、ぼくはそんなふうに次の一歩を進める気持ちで書いている。これまでの文章にもやたらとそんな逆接が繰り返し現われていることに、あなたは気づいただろうか? おそらくその癖を最初に指摘したのは母である。小学生のとき、母はぼくの書いた読書感想文を読んで、「しかし、で論を曲げることが多いね」と呆れた。「何が云いたいのかわからへんわ」。
 ソンタグもおそらく、そんなふうに書いていたのではないか。
 本書においてソンタグが何を云いたいのか、それは非常にまとめづらい。けれども何を問いたいのかはわかる――写真、そして、それが伝える/伝えない戦争の苦痛。本書では問い続けるために、何かを述べた次の瞬間にはそれに疑義を唱えるような書き方がなされている。写真について、報道について、戦争について、文学について、彼女がどんな立場を取っているのかわからず、読んでいて迷子になってしまった。けれどもそもそも本書は、そうして「立場」によって読まれること――それはすぐさま「分断」を導くだろう――に抵抗するようなエッセイである。もちろん、末尾における《そのとおりだと、言わねばならない》と云う言葉は、断絶に対する諦めのように聞こえる。じゃあどうすればいいんだ、とも云いたくなる。しかしわれわれは、続くべき言葉を知っているはずだ。断絶を知ることによってはじめて、われわれは想像することができる。考えることができる。知ることができる。だからこそ、それでも、と云わねばならない。

 

松井和翠『和翠の図書館 I』

 しかし、世界のシロとクロの間には、広大なグレーの世界が拡がっており、私たちにできるのはそのグレーの世界を漂うことでしかないはずである。とはいえ、世界はグレーに過ぎないと達観してばかりもいられない。グレーの世界に生きていると認識しつつも、シロとは何か、クロとは何かを絶え間なく問い続けること、つまり《事実》とは何か、その向こう側にある《真実》とは何かを探求し続けること、それがノンフィクション作家に、そして《名探偵》たちに、ひいては我々に課された《宿題》のように思われる。

 となれば、やはり我々はその《宿題》を取りにいかねばならない。

 掌篇、戯曲、シナリオ、童話、漫画、ノンフィクション。さまざまな形態をとった古今の「ミステリ」を渉猟し、精選したアンソロジーの目録に、解説と座談会を付したもの。大変な労作で、最初の蔵書目録が発表されたときが2019年の初め*1だから連載をまとめるまでに五年がかり。現在の目録と比較するとその様相も随分と変わり、執筆にかけられた月日を物語っている。――いや、選定はずっと昔から始まっていたわけで、これはもうライフワークと云うべきだろう。それも、本書はまだ『I』なのである。

 ――ごくごく私的な思い出から書く。
 ぼくがtwitterをはじめた頃、読書メーターからの繋がりを除けば、最初期にフォローしてくれたのが松井和翠さんだった。以来ぼくにとって氏はずっと、ファンダムのなかに屹立する高みであり、憧れであり、道標でありつづけた。ぼくが巽昌章を知ったのは氏のnote記事がきっかけだったし、そこに並んでいたタイトルをはじめとして、ATB企画や架空アンソロジーの数々は、推理小説を読むと云うことに片足を突っ込んでしまった子供にとって、重要な道標だった。何を読むか。いかに読むか。そして、どう語るか。以前ぼくはブログについて、「短評が巧い」と褒められたことがある。ぼくがそんな技能を得ることになった理由のひとつには、松井和翠さんの記事やtwitterにおける、短く、鋭く、作品の真髄を貫くような言葉への憧れがあったはずだ。
 本書を読んでいると、あらためてそんな影響関係を自覚させられた。一見すると関係のない作品を並べることで星座を起ち上げてゆく切り口、そうしてあらたに物語を「編む」ことの面白さを、ぼくは巽昌章ではなく、氏の企画で知ったのだ。あるいはトリックのイメージや、文体へのこだわり、抽象性への憧れ。大学での日々を通していまでこそ読書傾向は変遷を遂げたが、それでも読書の道はひと続きであり、ここには間違いなくその源流がある。それはつまり、ミステリに何ができるか、と云うテーマだ。謎がある。解かれる。ただそれだけのことが、何を物語るのか。翻って、ミステリとは何か。謎とは何か。解くとは何か。本書はそこに「批評」を見出し、本書もまた批評してゆく。古今の作品を渉猟し、並べ、結びつけながら展開される、ときに慎重で、ときに大胆な読み。そのどれもが興味深く、ひとつひとつの指摘にいちいち唸らされ、思考を促される。そしてミステリを読むこと、語ることの、素朴な面白さを思い出す。美味しいお菓子をひと袋ずつ開けるようにして読むつもりだったのに、ついつい、ほかの読書を差し置いて、一気に読んでしまった。

 ――とは云え。
 美味しいお菓子、とぼくは書いた。これは単に褒めるための比喩ではない。そうだとすれば比喩としてなんの面白みもない。ぼくにこの比喩を使わせたのは、全篇通して感じた「美食家」的な嗜好だ。もっともそれは、たとえば小森収が『二百年』で繰り広げたような美食家的態度とは似ても似つかない。そもそも小説を読む者は、大なり小なり美食家であることから抜け出すことはできないし、この『図書館』の主人は、同時にすぐれた在野の研究家である。本書において、氏は小森収が陥ったような嗜好の追求と文学研究の混同、あるいは美食家的態度がもたらすトートロジーの横暴――好きなものは好きだから好き、嫌いなものは嫌いだから嫌い、それがすべてであるような思考停止――を慎重に回避している。けれどもそうして作品を丁寧に並べ、読み、語ることで浮かび上がる「タペストリ」が、最終的にはふたたび美食家的な満足感――美味しい料理をテーブルに並べ、たらふく平らげてしまうような「閉じた」ものに見えるのはなぜだろうか?
 ひとつには、作品を論じるにあたって自分の読みであることを強調する誠実な態度が、繰り返し留保を重ねることで自己満足的な領域へしばしば裏返るからだろう。そしてもうひとつはおそらく、アンソロジーが独特な――良くも悪くも、作品リストだけでは一見してわかりにくい――選定基準=問題意識に貫かれている都合上、来館者との座談会が主人による解説と作品に対する「美味しい」と云う感想が大半を占めることによる。選定基準が明かされるときの驚きや納得は間違いなく快楽であるし、それはミステリそのもののの快楽にも通じるが、けれどその結果どうしても、座談会の場はコース料理をふるまう料理人とそれを味わう客たちと云う図に漸近するのだ。これを美食家的と云わずしてなんだろう。
 もちろんぼくは、だからと云って本書を否定するつもりはない。素晴らしく面白い労作であることは繰り返し書いても書き足りないし、自己満足で、美食家で、いったい何が悪いのかとも思う。個人的な嗜好だって、貫徹すれば信念だ。それに、図書館のなかに優れた作品をアーカイヴする行為はそのまま、本書で論じられるユートピアへの志向に重ね合わされ、その先には高山宏を筆頭とする文化論・都市論が開かれてもいる。そもそもポーからして、そうしたユートピア/都市の作家ではなかったか。
 ただ、ぼくはこうも問えると思ったのだ。
 ――ならば、巽は?

 『論理の蜘蛛の巣の中で』が、すべてを呑みこむかのように周到な手さばきで糸を張り巡らせる評論書だったとしても、それが決して閉じた営みとはならなかったのは、同書が同時代の作家・作品たちを相手にして書かれたことによる。つまり巽昌章がそこでおこなっているのは、気に入った宝石を集めて自らの家に囲い込むような内側への志向/嗜好/思考でもなければ、人里離れた庵から世界を睥睨する外側への逸脱でもない、この世界で、この時代に書かれ、現われ、多様に分岐してゆく作家・作品たちと出会いながらその複雑な力学に身をさらし、絶えず「ミステリ」なるものを編み直しつづける、内と外の切り結びである。
 ぼくは何もここで、新刊に眼を通すべきだと云うつもりはない。ぼく自身、新刊ミステリはどんどん読まなくなっているし、それで良いと思っているし、新刊を読みまくったところでミステリについての思考が開かれてゆくわけではない(かえって巨大で疲弊した「ミステリ業界」に囲い込まれるような気がするし、ぼくが最近、あまり新刊を読まなくなったのはそのためだ)。けれども「ノンフィクション」の章の最後で語られるように《我々はその《宿題》を取りにいかねばならない》のだとすれば、ただアーカイヴを渉猟するだけでは足りないのだと思う。

でも私たちは今何かの崩壊局面に立ち会っているのではないでしょうか? 学ぶべきはむしろ崩壊を見る感性なのかもしれない。それに近代建築が未来を幻視しながらむしろ過去の遺産を読み替えることだったとしたら、あなたは今何に取り組みますか? 結局私たちは、人類の作品と知見というアーカイブを漁りながら不気味な時代と格闘し、ふと気づいたら新しい地平が見えていたというところまで生き残るしかないのです。これはぜひ希望として理解したいところです。
――青井哲人『ヨコとタテの建築論』

 もちろんアーカイヴは重要である。本書は何より『図書館』であり、その編者は云うなれば司書である。いや、館長か。だからこれは館長に対する言葉ではなく、来館者である自分自身への言葉として書く。ぼくは《宿題》を取りに行くだろう。けれどもそれはぼくの宿題だ。そうしてぼくは問うだろう。読むことで問うだろう。書くことで問うだろう。それはつまりアーカイヴから何を引き出すかであり、引き出されたものによってこの不気味な時代――極端な白と黒に塗りわけられて引き裂かれようとするあまり、すべてがグレーに呑みこまれてゆくかのようなこの現在――と切り結ぶことであるはずだ。巽昌章が語ろうとしたことも、そして彼が語った作家たちが取り組んだこともおそらくはそうした切り結びであり、ぼくもまた自分なりにどう切り結ぶかを考えるなかでリチャード・パワーズと出会い、写真や建築、環境と云ったテーマと出会ってきた。来館者はだから、そのようにして各々の問いを持ちながら図書館を訪れ、帰ってゆく。ふたたびこの世界と切り結ぶために。

 ――さあ、あなたも図書館を訪れよう。

note.com


 ――さて。ぼくもまた現代ミステリからは距離を取ってしまったけれど、同時代の書き手たちのなかにもまた、時代と切り結んでいる者がいることは疑いない。巽昌章の名前をあいだに挟みながら交わされた最後の松井和翠-千街晶之往復書簡を読みながら、ぼくはひとりの現代作家を思い浮かべていた。自作を含めたメディアを通して「自己商品化」を目下、飄々とこなしている人物。そのなかで記憶をテーマとすることで「自己隠蔽」を書いている人物。そうして事実と虚構について、正面から問いかけている人物。彼はまた、作品としても「魔術師」あるいは『君のクイズ』と云う《岳葉の友》をものした。
 その名は、小川哲である。

 ――本当はこの続きとして、『地図と拳』を再読した感想が書かれるはずだったが、流石に長くなりすぎるのでやめた。まだ読み終わってないし。次回、自分なりの「切り結び」の実践として『地図と拳』について書けたら良いと思っている(あるいはトークーショーレポ?)。

*1:noteの記事に先行してtwitterで発表されたのは、その年の元日だったはずだ

読書日記:2023/11/02~11/07 石岡丈昇『タイミングの社会学』ほか


 読書日記なのでさらっと書くつもりだったが、どれも本当に良い本だったのでじっくり書いてしまった。

結城正美『文学は地球を想像する:エコクリティシズムの挑戦』

 環境はテクストの内と外の両方に存在する。オゾンホールは事象を指すのであって、「オゾン層という言葉に穴があいているのではない」。しかし、オゾンを「層」ととらえ、人間の活動の影響によってそこに「穴」があいたという見方は、文化的に構築されたものである。物理的事象はけっして透明な事実ではなく、言語と結びついたかたちで知覚される。テクストの内と外は関連しており、両者の関係は合わせ鏡に映る像さながら往復運動をくり返し、固定されることがない。

 読書会の課題本。エコクリティシズムとはどのような批評か、その登場から現在までの系譜をざっと辿ってから、その拡がり――人間の生活圏の周縁・外側としての自然から、人間の生活圏と云う自然へ、人間を含めたエコロジーへ、惑星規模の環境へ――をあらためてなぞり直すように具体的なタイトルを挙げてエコクリティシズムを実践し、自然とは何か、環境とは何か、そしてわれわれを待つ未来はどうあり得るのかを問うてゆく。著者がアメリカ文学研究者であることもあってか英語中心的すぎることや、作品ごとの読解について云いたいこともないではないものの、入門書としてコンパクトにまとまっていて良いと思う。読書会と云うのはそのものずばり、エコクリティシズムの読書会なのだが、一年くらい顔を出せておらず段々気まずくなっていたところ、本書でやると云うのでサクッと読んで気軽に参加できた。同じような読書会をやるなら、本書で第ゼロ回をやるのも手だろうと思う。ブックガイドにもなっているので。
 読書会では、本書の表題にもなっているエコクリティシズムの挑戦――自然を、環境を、地球をめぐる文学と云うものが、では現実の環境危機に対してどれだけ届くのだろうか、と云う話も出た。石牟礼道子の例が示すように、なるほど、すぐれた文学はひとを動かし、社会を変える。けれどもそれは、現代の地球を取巻く機能不全にどこまで有効だろうか? 水俣病の裁判さえまだ終わらないのに? いや、そこまでの強い疑義は読書会で問われなかったけれども、構造的な環境破壊――個人個人は良くないことだとわかっていながら、誰にも止めることができない、いたずらな開発・造成――に対して、(究極的には)ひとりで書き/ひとりで読む、と云う文学の仕組みはともすると無力だ。明るい未来を想像することは難しい。けれどもちろん、そもそも「明るい」とは何かと云う根底から問い直しながら考えることをやめないこと。それこそエコクリティシズムの、ひいては文学の「挑戦」にほかならない。

 

石岡丈昇『タイミングの社会学:ディテールを書くエスノグラフィー』

すごい雨音だろ、トモ。何も聞こえなくなる。サンロケでも雨になるとトタン屋根の雨音はすごかった。だけど、サンロケには光があった。密集してみんなが住んでいたからね。トモ、外を見てごらん。ここではみんなマニラに戻ってしまっていて、外には灯りもない。ここに居るのは限られた人びとだ。ここは、人がいない場所、活動のない場所。ここで、夜に、トタン屋根の雨音を聞いていると、俺は本当にさみしくなる。さみしさに耐えられなくなる。

《何が起こるかわからない明日を待ち、絶えざる今を生きのびるとはどういうことか》と云う帯の紹介文が眼に留まり、手に取ったら《書くことは考えることである》と云う書き出しで心掴まれた。考えてから書くのではない。書きながら考えること。書くことで考えること。書くことは考えることであり、そうして生きることでもある。
 本書はフィリピンの貧困層を題材にしたエスノグラフィーである。前半はボクシング・キャンプ――単なるジムではなく、そこで寝食を過ごすのでそう呼称される――の若者たちの暮らしを、後半は都市開発にともなう強制撤去に揺れる人びとの生活を記述しつつ、著者はそもそもエスノグラフィーとはいかなる実践なのかと云うところから論を進めてゆく。それは単なる詳細な記述ではなく、良くできた観察ではない。世界を根底から問い直す契機である。社会において搾取され、抑圧され、無視される人びとは、明日も知れぬ日常、次々と問題が起こるために絶えず壊れつづける日々を懸命に生き延びている。彼らが曝される理不尽は社会の構造がもたらす理不尽であり、エスノグラファーはこの理不尽をともに目撃することで、見返すように社会の構造を暴き出すのだ。そして人びとがいかにしてこの理不尽を生き延びているのか――あるいは、いかにして自分を磨り減らしているのか――を記述することは、鳥瞰する地図や標本を留めるような方法では決してたどり着かない知見をもたらすだろう。つまり――、同じ苦しみとしてはとうてい並べられずとも、地球全体が絶えず壊れつづける現在において、「生きてゆくこと」はいかにして可能か。
 こうしてまとめるだけではどうにも云い足りないくらい、章ごとに提供される視角、展開される議論、いずれも素晴らしい本だった。時間と空間の構造――ものごとを進めるための決定権がこちら側から奪われていることによって発生する服従の構造と、都市開発やコロナ禍の封鎖によって人びとの生活が寸断されてゆく蹂躙の構造――についての考察は全篇を貫いて、人びとの生活のディテールから大きなスケールへと届いている。そうした構造的暴力を生き抜くための柔軟な「家」のあり方は示唆に富んでいるし、そこから現代の「レジリエンス」を引き出しつつ、決して「草の根」的なマッチョイズムに陥らない慎重さもある。肉体的な疲労と区別して、精神と肉体が結びついた身体の疲労としての「疲弊」と云う概念も興味深い。人びとは疲れている。何に? わからない。あるいは、すべてに。疲れていると云うことに疲れている。なんとなれば、絶えざる日々を、人びとは自分に決定権のないまま耐えなければならないからだ。その疲れは運動後の心地良い疲労ではなく、ぐったりとした「疲弊」である――。そしてこうした議論もまた、エスノグラフィーによって捉えられたディテール、生きた記述から引き出されるがゆえに実感を持つ。それは数値や図式ではどうしても取り落とされる人びと固有の生であり、けれどもそれを書き、読むことで、われわれは「わたし」を知るのである。
 メモやノートをよく使うようになって、そして日記をつけるようになって、もう半年以上になる。ぼくは書きながら問う。書くことを問う。この夏、ぼくは小説を書いて、その登場人物のひとりに書くことは殺すことだ書かせた。けれどもそれは終わりではない。書くことは決して終わらない。本書における書くことの実践を通してぼくは生きながらにして書くことを問わなければならない、と思いはじめている。こうして感想を書きながら。

 

本田晃子『革命と住宅』

保管と記憶のための空間は、こうして喪失と忘却の空間へと裏返る。言い換えれば、個々の建築物を平等かつ効率的に保管するシステムは、同時にそれらを効率的に破壊する装置としても機能するのだ。

 まとめて云えばソ連の建築(思想)史についての本で、内容としては、実際に建てられた「社会主義的」住宅――コムナルカやフルシチョーフカ、ブレジネフカ――の系譜を辿る前篇と、実際には建てられなかった建築――イワン・レオニドフのアンビルトや、結局建たなかったソヴィエト宮殿の顛末、そして知られざるペーパー・アーキテクト運動――の思想を論じる後篇「亡霊建築論」の大きくふたつにわかれる。建ったか、建たなかったか。生きられたか、生きられなかったのか。両方の題材は正反対であり、正反対であるがゆえに、ソ連イデオロギーと建築の関係を両面から照らし出す。そうして浮かび上がるのはソ連と云う奇妙な国家像――未だかつて建てられることないままに崩壊してしまった、未完の廃墟の姿だ。
 二十世紀のはじめ、志高く設計された新時代の住宅は革命のイデオロギーそのままに、旧弊な価値観を否定して家族を解体しにかかる。けれどもそのユートピア――あるいはディストピア――は十全に果たされることなく、時代がスターリンの独裁へ移ろうと、家は解体されるどころか、人びとは国と云う巨大な家に囲い込まれてゆく(もちろん、父親はスターリンであり、その相手は母なる祖国だ)。けれど皮肉にも、内戦が、粛正が、戦争が人びとから家を奪った。解決のために用意されたコムナルカはイデオロギーを捩れたかたちで達成した、誰もひとりではいることのできない共同住宅である。それは相互監視社会の構成単位だ。そしてスターリン亡きあとの時代では一転、人びとは家庭ごとに閉じられた家を与えられるけれど、それは家の否定の失敗であり、ひいてはソ連崩壊への序曲でもあった――。
 前篇で綴られる住宅の系譜には、イデオロギーの形骸化する過程が映し出されている。透明な家、直線的な住まいは人びとの生活を取りこぼし、同時にそこで生きる人びとの暮らしが、果ては国家のイデオロギーを骨抜きにする。もとより政治的な思想を建築と云うかたちで現前させることがどだい無理なのだ。ゆえにイデオロギーで突き抜けてしまった建築は、アンビルト――紙上の建築で終わる。けれどもそれは、建築が物語になると云うことだ。そうして物語られた建築は、象徴として、幻視として、果てには批評として、メディアのなかを漂いはじめる。後篇で論じられるそうした「亡霊建築」の数々はどれも興味深い。イワン・レオニドフの、もはや建てることを一切無視したかのような建築図案は抽象画のようだし、巨大すぎるレーニン像をいただくソヴィエト宮殿の、設計の変遷とエスカレーションは、ソ連と云う国家自体の数奇な顛末に通じるだろう。個人的にもっとも面白く読んだのはアレクサンドル・ブロツキーとイリヤ・ウトキンによる『建築の墓所』そして『住宅の墓所』だ。集団墓地、あるいは博物館の展示のように並べられた数々の家は、都市開発のなかで失われた住宅であり、そこで営まれていた暮らしの記憶の痕跡である。墓所はそうして記憶を蒐集する。けれどもその蒐集には果てがなく、決して達成されないと云う意味でもこれはアンビルトであり、いずれ訪れる忘却から逃れられない。けれども本田は、それを物語として囲い込むことで、抗えない忘却そのものを主題として描いているのだと読み解く。そのときわれわれは、失われたことを通して失われたものを知るのだ。
 あるいはその抵抗こそ、物語ることの意義、その切実な理由ではないか?
 戦争の時代である。これからたくさんの廃墟が生れて、ファシズムが叫ばれ、ディストピアが訪れるだろう。けれどもぼくが本当に怖いのは、そんなディストピアさえ成立しなくなる荒廃であり、同時にそこに、ぼくは希望を見てもいる。どれだけ規格化された生活を押しつけられようと、人びとは固有の記憶を家に、モノに、刻みつけるだろう。そしてどんなに鮮烈なイデオロギーも、やがては空洞化して挫折する。そこでものを云うのはおそらく、生きることであり、物語ることである。

革命と住宅

革命と住宅

Amazon

書評・掌篇・座談会:文学フリマ東京37で読める鷲羽巧の文章


 来たる2023年11月11日、東京流通センターにて開催される文学フリマ東京37にて、鷲羽巧は出席こそしませんが、いくつかの文章を書かせてもらっております。以下、その告知です。

カモガワ編集室『カモガワGブックス vol.4』〈池澤夏樹=個人編集 世界文学全集〉全レビュー参加

 ではこれはいったいなんなのか?

 世界が音を立てて引き裂かれているかのような21世紀の現在、「世界文学」と云う言葉は幾らか空疎に、それでいて、いやだからこそ、切実に語られているように思います。物語ることに何ができるか。それを読むことが何になるのか。企画への参加はあくまで気軽だったはずですが、レビューのために読んだ小説たちに、いま・ここで、これを読んで・語る、と云うことを真剣に問われたような気がします。
 鷲羽は以下の三作品を担当しました。

  • バオ・ニン『戦争の悲しみ』
  • ボフミル・フラバル『私は英国王に給仕した』
  • 石牟礼道子苦海浄土

 選んだのは偶然でしたが、いずれも20世紀と云う時代に収奪された者たちの語りが揃いました。けれどもそんな安易な理解を拒み、すり抜けてくる作品たちでもあります。
c.bunfree.net

note.com

 

造鳩會『鳩のおとむらい 鳩ほがらかアンソロジー』参加

 大学三年の夏、わたしはリョコウバトの鳩舎ではたらいたことがある。

 藤井佯氏編、鳩をテーマにしたアンソロジーです。鷲羽は短いフィクションで参加しました。以前このブログでも公開した掌篇の再録ですが、もとは『蒼鴉城』に書いたもの。いろいろなところで発表しているのは、かなり気に入っている作品だからです。変にひねくれることなく、まっすぐに希望を書くことができたと思います。
 アンソロジーは参加者70名以上、小説のほかにもエッセイやイラストまでいろいろ収められてボリュームたっぷり。そのいずれも鳩と云う同じテーマで書かれているのだから驚かされます。鳥たちが群れをなして一斉に羽ばたく。けれどもその羽根に同じものはひとつとしてない。

c.bunfree.net

 

松井和翠『和翠の図書館I』〈掌篇百撰〉座談会参加

 子供のころに実感する「死」ほど恐ろしいものはありません。

 多少なりとも本を読んできた者ならばわかっていただけると思いますが、アンソロジーを編むことには代え難い悦びがあります。作品を並べ、そこから糸をほぐし取って、自らの手で編み上げてゆく。その面白さはともすると、推理小説なるものの面白さ、果ては物語と云う営為の根底にさえ通じる原動力でしょう。そうして多くの読書家が惹きつけられ、構想するアンソロジーを、松井和翠さんは単に提案するだけでなく、実際に編んでみせた。鷲羽はそうして編まれたアンソロジーのひとつ〈掌篇百撰〉を読ませてもらい、座談会に参加しました。ほかの参加者は主催の松井さん、そして小野家由佳さん、浅木原忍さんです。アンソロジーのテーマはズバリ、掌篇。単に短ければ良いと云うわけではないその形式はときに、神話的なスケールを獲得します。
 座談会自体は数年前のことで、いまとなって読み返すと恥ずかしいくらい拙いコメントしか云えていませんが、これはこれで素朴な良さがあります。エアミステリ研究会のブースで頒布予定とのこと。

c.bunfree.net