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読書日記2019/05/13 ドロシー・L・セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』

 前回の投稿が46日前だから、ほとんど1ヶ月半ぶりの更新だ。1ヶ月に一度は更新したいと述べておきながら、上半期を終えることもなくこの体たらく……、忸怩たる思いがある。これからはもっと更新頻度を上げたいですね。

 

 最近、海外長篇ミステリを読みたいと云うモチベーションが高まっているので、まずはドロシー・L・セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』を手に取った。ピーター・ウィムジイ卿シリーズの第9作で、英国古典ミステリの傑作として名高い――他を読んだことがないので周囲の評判をそのまま書いています――この作品は、重厚で荘厳な趣を持った大長篇だが、読み手を選ぶような難解さ・複雑さはない。登場人物の多さやいささか癖のある文体に慣れさえすれば、むしろ親しみやすい部類に入るだろう。

 物語の幕開けを報せるのは、吹雪の大晦日に鳴らされる鐘である。小さな村に流行る流感がおさまってくれるよう、教会で鳴らされる祈りの鐘。偶然村を訪れ、鐘の演奏に立ち会ったピーター・ウィムジイ卿も、その神さびた鐘と、それを有する荘厳な教会に感激する。この大晦日から年始にかけてのエピソード自体は、特に事件も起こらない穏やかな場面だ。しかし、序章の終り、ピーター卿が村を離れるのと入れ違いに村へやって来た謎の人物が、不穏なものを運んでくる。

 そして、雪が解けた春。長く病の床に臥していたサー・ヘンリーがついに亡くなり、追悼の鐘が鳴らされたとき、再び物語が動き出す。彼を埋葬するため妻の墓を掘り返したところ、そこから身許不明の死体が出てきたのだ――。

 本作の事件の特徴は、全体の曖昧さだ。死体は誰のものかわからず、死因も、死んだ状況も判然としない。ミステリはまず事件の姿(らしきもの)を読者に見せた後で、それをひっくり返すと云う構造を取ることが多いが、本作の場合、まず事件そのものにつかみどころがないのだ。村の住人の関係や、徐々に解き明かされていく因果も、ひとつのはっきりとした謎へと像を結ばず、何かを掴んだと思っても、手からするりと抜けてしまう。デフォルメされた人物像やわかりやすい物語を逆手にとって読み手を騙すクリスティー流のミステリとは対照的に、本作はミスディレクションダブルミーニングを仕掛けない。複数の事件が何の因果かひとつの大きな形を取ってしまった物語を順に追っていく。それでも物語が取り留めないものとなっていないのは、目の前の謎を捜査すると云う地道な過程に加えて、事件が存在している村を――ひいては村から背景として見える世界全体をも丁寧に構築しているからだろう。

 物語はフェンチャーチ・セント・ポールと云う村を舞台としているけれど、事件は村に収束することはなく、いわゆる村ミステリのような閉塞感はない。読んでいて浮かび上がるのは、閉ざされた小さな村ではなく、どこまでも広がる平らな世界であり、そこに境界線を引くことは――大いなる世界を前にしては――無意味だ。実際、事件の因果の糸は海峡を渡ってフランスにまで伸びているし、その向こうには第一次世界大戦の灰燼がくすぶっている。捜査が進展するにつれ、視点が上へ上へとつり上がっていき、人を超えた何かによって俯瞰されているような印象を与える。そこにいては探偵さえも、無力な小さな人間に過ぎない。

 この印象を決定的にするのは、鐘と洪水と云う存在だ。こんがらがった因果を一顧だにせず村の全てを飲み込んでしまう洪水、それと共に鳴らされる警鐘。そして水浸しとなった世界には、鎮魂の鐘が響く――。事件の最後の謎が解き明かされるのは、このヴィジョンが展開された瞬間である。因果の糸をたぐり寄せた先に残された孔、そこにはめられた最後のピースは、謎の全てを説明づけていながら、大いなる世界とそれを見そなわす「何か」の存在を感じさせる。

 古い教会や神社、あるいは古くからある森林や河川を訪ねると、自分が何かに見られているような気がする。それを霊験あらたかだとか、神秘的だとかと云うのだろうけれども、その「何か」への畏れは、容易く不気味さへの恐れに転じるだろう。本作のラストで明かされる真実に抱くのはそのような恐れ/畏れだ。

 ミステリとして全てを解き明かすことで、本作は、かえって説明の付かない「何か」を現出せしめている。

ナイン・テイラーズ (創元推理文庫)

ナイン・テイラーズ (創元推理文庫)