鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

2020年下半期ベスト

「簡単なことです」耳を傾けるすべての人に向かって、世界中のタッサ・アムズワールが声をそろえる。「私たちはもっと良くなる必要などありません。私たちはすでに私たちだ。そしてすでにある全てのものは私たちのものです」

――リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』

 

  いろいろなことが変わってしまい、いろいろなことを思う一年だった。マクロにもミクロにも。様々なものやひとと近づいたり離れたり。少なくとも現在は、夏ほどに鬱々とした気分ではない。久しく更新していなかった――ホントに広告が表示されるなんて!――ブログにログインし、こうして下半期の読書を振り返られるていどには、元気だ。最近はニュースを見て、お上に対して怒ったり嘆いたりできるようになった。
 以下、下半期に読んだ本から、新刊・国内外問わず、長篇と中短篇で20ずつタイトルを挙げ、簡単なコメントを付した。順番や分類は優劣を示していない。

 

長篇

 ついに芥川賞をとった首里の馬』は高山作品でベストとは思わないものの、生活、社会、小説に対する個人的な問題意識と通じるものがあった。記録すること、記憶すること、物語以前にある世界の質感。

 翻訳のなかでもジャーナリズムのそれにスポットライトをあてたボスニア紛争報道』は、これを読むことを基点にして、ボスニア紛争を含むユーゴスラヴィアの崩壊、戦争、国、民族、言語、……様々なコンテクストが同心円状に拡がってゆく。その拡がりは、翻訳と云う営為について本書が指摘し、実際に検証していることでもある。ランドスケープの近代』は、様々な領域と要素の均衡として(物理的にも学問的にも)成り立つランドスケープ・デザインに幾つかの主題から切り込み、豊富な実例紹介とともに概説した入門書。もしかすると進路はこの方向に行くかも知れない。ランドスケープのほか、写真、アメリカ、ジャーナリズム、かたち、等々、この半年の個人的興味をひとつのパースペクティヴに収めてくれた『現代アメリカ写真を読む』との出会いが今年一番の読書だったと思う。もちろんそのパースペクティヴには、ミステリも捉えられている。幾つかかじった写真論のなかでもうひとつ興味深かったのは『イメージのヴァナキュラー』で語られたヴァナキュラー写真論だ。メディアとしての写真と、モノとしての写真。写真が貼られたアルバムをめくる、あるいは額縁に飾られた写真を眺める、あるいはスマホに保存した写真をタッチする。見るのは同じ写真であっても、その体験は異なる。ランドスケープへの興味の延長として読んだ『実況・近代建築史講義』も良著だった。『現代アメリカ写真を読む』同様、本書もぼくにとってある種の道標として機能してくれるだろう。

 写真、建築、記録と記憶、と云った主題に小説としてアプローチしたアウステルリッツも印象深い読書体験だった。低く囁くような文体とキャプションなく挿入された写真、その間隙の白に驚かされる。このような小説を、ずっと知っていたような気さえする。リチャード・パワーズは何作読んでもベストが決めきれない。どれも間違いなくリチャード・パワーズなのに、ひとつの物差し上に並べられないのだ。ユダヤ人の父と黒人の母と音楽の才能に長けた兄、弟、妹――彼ら家族の物語を、公民権運動に揺れる20世紀アメリカ史とともに語り上げた『われらが歌う時』は訳者の文体も肌に合ったからか一生読んでいたいと思わせる文章だった。時間を超越して響く、叫びと祈りの歌。幸せとは遺伝子が記述するものに過ぎないのかと云う問いからはじまる『幸福の遺伝子』は、同時に、何かを語ることそのものを追及する。たとえそこが行き止まりに過ぎないとしても、結末へ向けて加速する叙述が圧倒的だ。文章に圧倒されると云えば『越境』も同様だった。狼を還すためにはじまった旅は、境界を超えるたびに凄絶な様相を呈する。血を流し、暴力を振るわせながら、リアリティラインを揺るがせる幾つかの挿話を効果的に挟むあたりすべては計算尽くなのだろう。重量級の現代アメリカ文学を読んだからには重量級の30年代アメリカ文学を読もう、と云うわけで、まずは資本主義に翻弄される家族の旅路を描く怒りの葡萄。巨視的な語りと微視的な語りを自在に行き来しつつ、その旅路は複数の読みに開かれている。いまなお読み継がれるだけのことはある強度。八月の光は意訳を強めたと云う黒原敏行の読みやすい翻訳のおかげもあってぐんぐん読み進められたが、内容自体は読みやすくもわかりやすくもない。束になっても敵わない恐るべき語りの技巧。特殊な語りや叙述の面白さならば『夜、僕らは輪になって歩く』も外せない。一人称で語られる三人称、あるいは三人称に紛れ込む一人称。ここではパワーズ同様、“本当の出来事”を語ることについての追及がなされているけれど、本作の場合、内戦や独裁の後遺症が未だ残る土地において奪われたもの/奪ったもの、と云う主題に繋がってゆく。本作はまた、ミステリの可能性を感じさせる小説としても面白かったのだけれど、そう云えば下半期はあまりミステリらしいミステリを読まなかったように思う。数少ないなかから印象的だったタイトルを挙げるとまず、国名シリーズの最後となった『スペイン岬の秘密』。スマートな謎解き小説として仕上げながらも、だからこそ、随所に“謎解き”の“小説”であることへの限界を垣間見せる。新訳されたのをきっかけに読んだ『ポケットにライ麦を』は最後の手紙にすべてを持って行かれる。あまりにも痛ましい真相と、哀切な“犯人”像だ。ことしはろくに新刊を読めなかったが『果てしなき輝きの果てに』はそれでも年間ベスト級だと推せる良作。それぞれの人生のそれぞれの物語を、大いなる輝きへと流れこませてゆく。

 ボスニア紛争を少年少女として生きたひとびとのささやかでしかし重い“つぶやき”をまとめた『ぼくたちは戦場で育った』は、『ボスニア紛争報道』のあとに読んで良かったと思う。翻訳と云う営為の危うさを無理にでも意識しなければ、簡単にこころが持って行かれていただろう。安易な共感に陥るのではなく、ひとつひとつの声に耳を傾けつつ読みたい。戦争体験者たちの知られざる声に耳を傾けたルポルタージュと云えば『戦争は女の顔をしていない』を外すことはできない。――“伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が。” しかし、その声をそのままに伝えることはできない、ドキュメンタリーとは編集されたものだから。その危険と希望を、ある意味自己言及的に語るのがドキュメンタリー映画史』。作り手が無数の選択の果てに編集した物語を、読み手/聞き手はただ受け身で鑑賞するのではなく、ときには批判的になってでも、真摯に耳を傾け、目を凝らさなければならない。

中短篇

 下半期に読んだ短篇のなかでもっとも強く印象に残ったものを選ぶなら、小説ではなく評論――とも云い切れない、云わば写真家としてのマニフェストである「なぜ、植物図鑑か」になるだろう。ものをものとして撮ること、物語を拒絶すること。本来不可能であるはずのそれを、しかし痛烈に共感し理解できるその命題を追求したばかりに、中平は写真家として大きく方向転換し、行き止まりに向けて突き進んだ。そしてある意味では突き抜けてしまった彼に、かけるべき言葉をぼくはまださがしている。

 複数の語りの形式を織り交ぜながら波状的に物語の射程を拡げ、沖縄や南方熊楠、そして神々までも捕捉し、かなり無理がありつつもまとめ上げた「風のクロニクル」。この《無理》も、ひとつの明確な思想ではなくそれぞれがそれぞれ自分でもわからないままに流れを作り出していったあの時代を描いたこの作品にあっては、必ずしも瑕疵になっていない。「壊れた風景」は戯曲だけれど、実際に演じられた舞台を見るのではなく、過剰にまき散らされた三点リーダーを読む戯曲と云う形式で触れることで、これはこれで独特の体験となった。確定的な言葉を徹底的に避けながら加速してゆく暴走を、結末の言葉が冷え冷えと断ち切る。ジャンルの周縁をなぞるような『事件の予兆――文芸ミステリ短篇集』は優れたアンソロジーだった。ここでは比較的わかりやすく謎解きをしながら、作品自体もまた静かに崖っぷちを歩くような傑作「断崖」を挙げておこう。これに限らず、ことしはアンソロジーが豊作で、とくに『日本SFの臨界点』は日本SF短篇の再考・再読・再評価を促す、良い企画だった。とくに石黒達昌「雪女」に出会わせてくれたのは大きい。ノンフィクションの体で雪女をSFとして再構築した完成度の高い作品だが、語り手が姿を消しているために個人的な問題意識から手放しでは褒めがたく、つい考え込んでしまう。しかし、このような小説があるのだと云うことを知ることができたことが重要なのだ。さて、もし自分が『日本ミステリの臨界点』を編めるとしたら日下圭介は是非とも入れたいところ。「黒い葬列」はトリックとしては素朴ながら、ヴィジュアルのイメージと卓抜した文体で走り切ってしまう隠れた名作だった。『太鼓叩きはなぜ笑う』は流石あゆてつと云うべきか一定の水準を満たした良作揃いで、とくに「竜王氏の不吉な旅」の切れ味は棄てがたいが、ここは「春の驟雨」をとろう。その確かな筆致は途中でだれることも慌てることもなく、過不足なく物語をまとめ上げており、真相解明のあとの“証拠固め”も含め、最後までしっかり面白い。竹書房の短篇集は挑戦的ながら面白い企画ばかりでわけても草上仁はこんなにもポテンシャルの高い作家がいるのかと戦いた。アイディアストーリーの“正解”を知っているのではないかと思う。どれも良いが、「アイウエオ」は導入からして見事。日本推理作家協会賞受賞作「学校は死の匂い」は謎解きと理屈を越えた怪奇の塩梅が絶妙だ。選評でも指摘されていたけれど、“耳を塞がせた”ディテールが巧い。同じく怪奇とミステリが混交した短篇が集められた『夜の淵をひと廻り』からは、比較的ホラー要素の薄い「笛吹き男はそこにいる」を。構図の転換をきれいに決めつつ、しかし構図からはみ出すものを感じさせる。「一億円と旅する男」はいろいろツッコミたいところがあるものの、ここはもうアイディアの勝利で。加藤元浩は定期的に飛び道具みたいな話を書くけれど、この作品は鈍器をぶん投げたような怖さがある。

 ことしはなぜかピーター・ワッツの翻訳がプロアマ問わず盛んだった。ついにワッツの時代が来たのか? ワッツが大人気を得る時代はそれはそれで怖いけれど……。「血族」は〈バベルうお〉刊『BABELZINE』1号目の収録作。これからも期待しています。去年の京フェスで紹介されて以来気になっていた「偉大なロックン・ロールにおける間(ポーズ)」は読んで驚けパワポ小説。しかし発想の出オチで終わらないからこそこうして下半期ベストに挙げているわけで、あんなクソグラフを愛おしいと思う日が来るとはおもわなかった。ことし中に完結しなかった『短篇ミステリの二百年』は本当に作品のセレクト“は”良い。3巻所収「ひとり歩き」は万力で加減を間違え潰されるかのような、“やってしまったな”と云う怖さがあった。フラナリー・オコナーはどの短篇も素晴らしいが、やはり「善人はなかなかいない」の出会い頭の衝撃は忘れ難かった。理不尽で、暴力的で、理解が追いつかないほどの結末は、しかし、これ以外ないと思える。「心臓の二つある大きな川」は山も落ちもないソロキャン小説。ただしそのキャンプは、アメリカの“風景”のなかでおこなわれる儀式だ。カーヴァーの描く苦みはどことなく肌に合わないのだけれど、一見奇妙な取り合わせを透明感ある文体で成立させ、人生のままならなさを衝いてしまう技巧は認めざるを得ない。「羽根」は奇跡的な一瞬と、流れ去ってしまう時間の対比が哀切。長篇でごちゃごちゃしているデクスターは短篇でもごちゃごちゃしている。けれど長篇ではあまり好ましいと感じなかったその詰め込み具合も、短篇では作品の密度と奥行きの形成に貢献するようで、ドードーは死んだ」はこの短さで無理にでも書いたからこそかえって味わい深いものになった。入れ子的な語りの構造が功を奏している。今年のアンソロジー豊作を締めくくったのが『2000年代海外SF傑作選』と『2010年代海外SF傑作選』。前者の掉尾を飾るジーマ・ブルー」は読後、あの“青”を思う。とにもかくにも画が良い。そして画の良さで云えば、まだ読み終えていないが『爆発の三つの欠片』の「ポリニア」もそうだろう。ロンドンの上空に浮かぶ巨大な氷山。奇妙で恐ろしくて仄かに懐かしいその風景には、環境問題の比喩・諷刺などの言葉でも捉えきれない圧倒的な質感がある。

 

 以上、40タイトル。さらにこのなかから下半期のベストを選ぶなら、小説では『われらが歌う時』、評論では『現代アメリカ写真を読む』となるだろう。

われらが歌う時 上

われらが歌う時 上

 
われらが歌う時 下

われらが歌う時 下

 
幸福の遺伝子

幸福の遺伝子