鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

鑑賞法に転倒した創作術

 あんまり整理できていないことをメモがてらに書く。

 

 世の中には創作指南が溢れている。プロの作家による手法の開示や脚本家養成スクール等々の講師による参考書から、twitterでバズるいち創作者の意見まで。あなたはそこから好きなものを選んでテクニックとして採用し、好きなものを切り捨てて創作は書きたいように書けば良いのだととぼけることができる。一文で主語と述語は一致させよう。説明ではなく描写せよなんて糞食らえ。冒頭から読者を引き込もう。結末をあらかじめ決めて書くなんてつまらない!
 ここで気になることがある。本来、書き手だけが(採用するにせよ切り捨てるにせよ)意識していれば良いはずのそれら創作術が、読み手にまで浸透した結果、鑑賞のいち基準として採用されてしまう事態が、しばしば見られるように思うのだ。
 以下は具体例である。はじめに云ったように、整理も検討も足りていない。

  • 説明ではなく描写せよ。あんまり云われるものだから一部のこだわりの強い書き手から蛇蝎のごとく嫌われている印象のある教えだけれど、「説明しようとするのではなく描写しようとするような気持ちで書いてみよう」と云いなおせば、歌唱指導における「頭から抜けるように声を出して!」と云うような類いの喩えであるとも読める。つまりこれは書くときの感覚の話であって、実際に書かれたものが説明か描写かはあまり問題にならない。説明的な描写、描写的な説明もあり得るだろう。しかし「説明的な文章」だと認識した途端に「小説として稚拙」と認定する読み手はしばしば存在する。創作術だったはずの「説明ではなく描写せよ」は、脚本術スクールの先生ではないはずの鑑賞者の評価シートにまで記載されるようになっていないだろうか?
  • たとえばアニメ『ゴジラS.P.』の説明的な台詞回しは、その饒舌っぷりが独特のリズムを生んでいる。もしこのアニメに「説明的な台詞が多いからつまらない」と感じたとすれば、「説明するな」と云う創作術が鑑賞の基準に転倒してしまっている、と云えるのではないだろうか?(もちろん、その饒舌っぷりさえもつまらない、と云うことは可能で、『ゴジラS.P.』の評価はここでは問題にしない)
  • 「――た。」と云う文末が連続する文章は、リズムもトーンも単調でつまらないのでやめた方が良い、と云うのは文章指南のひとつとして広く知られているように思う。しかしこれはひとつの書き方に過ぎないので、淡々とした文章を求めるのならば積極的に「――た。」と続けるべきだ。志賀直哉の「城崎にて」の異様な静けさはそうして生まれている。しかし、「――た。」と続く→単調→つまらない、と云う回路が成立している読み手にとっては、その静けさは耐えがたい退屈さとして読まれるだろう。
  • プロットの技法。たとえば複数のストーリーラインをスムーズに展開し、絡み合わせるような作品があったとして、この《複数のストーリーラインをスムーズに展開し、絡み合わせる》書き方自体が鑑賞者にとっての面白がるポイントになっている、と云うことがある。作品の面白さの理由を分析しようとしてプロットのテクニックに行き当たるのではなく、プロットのテクニックを読み取ってそれを面白がるわけだ。是非はおくとしても、ここには転倒があるように思う。
  • 「小説が巧い!」と云う感想とか。ぼくもよく云うけど。
  • 自分で書くわけでないとしても書き手の眼差しを持っている、と云うことだろうか。
  • 『天気の子』には、プロットの破綻やバランスの悪さがよく指摘される。事実、いわゆる三幕構成や、起承転結からは外れているし、前半にダイジェストが二回も挟まるのは流石に「脚本が下手くそ」認定したくなる。しかし脚本術からの逸脱、プロットのおかしさは、作品を鑑賞する際にどこまで考慮されるべきだろうか。歌を流してダイジェストで展開を進める演出は二回も重ねるべきではないが、実際に『天気の子』を鑑賞すると、「疑似家族的関係の形成」がどちらでも共通していること、両者における帆高少年の役割がシフトしていることに気付く。プロットのバランスを崩してでもそのように描かれたと云うことについて考えることを、鑑賞法として転倒した創作マナーは妨げかねない。(もちろんここでも、そのような反復を踏まえた上で、『天気の子』はつまらない、と云うことは可能だ。しかし、踏まえるか踏まえないかは大違いである)