鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

文体の舵を取れ:練習問題⑤簡潔性

 一段落から一ページ(四〇〇~七〇〇文字)で、形容詞も副詞も使わずに何かを描写する語りの文章を書くこと。会話はなし。

提出作品

 チャーリー・フォージャーは一九五四年にフラグスタッフで生まれ、七十二歳で亡くなるまでアリゾナを出なかった。大学で機械工学を学んだあとは自動車工場に就職し、退職する前の十八年間は技術部門の主任を務めた。四つの部品の開発に関わり、うち三つは彼が主たる設計を担当した。家族や同僚からは読書家としても知られ、文章を書くことも得意だったので、社内報の編集と執筆をすすんでおこない、退職後はふたつのエッセイを地元の新聞に載せてもらったほか、技術者の心得を記した実用書も共著した。三十七歳で結婚し、ふたりの子供をもうけた。四十一歳で購入した一軒家は、木組みの家屋こそ家族四人で住むにはぎりぎりだったけれど、敷地の半分以上の庭を有し、自動車が二台入るガレージを建ててもまだ妻や娘が園芸に勤しむ余地が残されていた。しかし実のところ、園芸書を買いあさって家族の誰より植樹や造園に張り切っていたのは彼だった。家の裏にはトタン小屋があり、そこが彼の書斎兼作業場だった。設計図と計算用紙がファイリングされたキャビネットの隣には、その倍くらいの量を詰めた本棚が天井いっぱいまで設えてあり、それでも入りきらなかった書物が机の足許に積まれていた。彼はソローを愛していた。イギリスの作家ならチェスタトンも好んだ。主流文学の文芸誌をふたつと、技術者向けの雑誌をひとつ購読していた。思いついたアイディアを図面に書き起こすことに夢中になるあまり気がつくと食事も忘れていたような夜更け、彼は本棚から一冊の本を取り出すことがあった。ぱらぱらとページを捲り、もしも、と想像した。父の反対に逆らって、小説家になっていたら。社内報の活躍が高じて、編集者になっていたら。庭づくりの趣味に目覚めて、造園家になっていたら。そんなことを考えているとノックがして、妻がココアを持ってきてくれる。背中には次女が背負われて眠っている。ドアの陰から長女が顔を出す。父さんはわたしたちを招いて、考えていたことを話しはじめる。ココアの湯気が空気に溶ける。差し込む月明かり。窓の向こうのクスノキ
 ねえ、憶えている、お母さん? あの樹は、わたしたちみんなで植えたんだよ。

コメント
  • 実のところ、「実のところ」は副詞。英語に訳すと形容詞にならざるを得ない箇所もちらほら。かなり難しい課題。
  • 一方で、慣れれば書けないこともなさそう。普段からいかに形容詞や副詞に「逃げて」いるかを実感させられた。
  • 娘が母親に、父親のことを語っている。この構造がわかりづらかったか。書いている人間も急遽決めたことなので、やはり小説はきちんと考えて練り上げることが大事なようだ。
  • 説明的な記述からエモーションを引き出す試みは概ね成功したように思う。
  • 第5章までは云わば基礎編で、小手先の言葉遣いを制御させる課題だった(次回からは文章の時制や構造に踏み込んでいく)。
  • 前半=基礎編の目的はたぶん、「文体の舵を取れ」と云うにあたって、「舵を握らせる」ことにあるのではないだろうか。わたしたちは自覚しないままなんとなく擬音語やリフレインや修飾を用いるけれど、文章を磨くならばそれらをきちんと「技巧」として認識し、手持ちの道具として扱えなければならない。
  • ここで重要なのは、「形容詞や副詞を効果的に使え」と云うのではなく、「いったん形容詞や副詞を使わないでみろ」と云っていること。形容詞や副詞の多寡によって生ませたい効果は結局、作者によるし、作品による。だからいったん使わせないことで、「そもそもその言葉で何ができていたのか」を考えさせ、「その言葉を使わずともできること」も合わせて考えさせる。ル=グィンはわたしたちから言葉を奪うことで、言葉を技巧として教えているわけだ。
  • スポーツの基礎練みたいなものかも知れない。したことないけど。とすれば、継続が重要だ。一周で終わらせるのは勿体ないかも。