鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

創作「64/6/24,美術館裏」

 内容はすべてフィクションです。


 

 一九六四年に京都国立近代美術館(当時はまだ、正確には国立近代美術館京都分館)で開かれた第二回《現代芸術の状況》展には、多くの画家や彫刻家と混じってふたりだけ写真家が採られている。一見して場違いな選出はしかし当時の現代芸術を取りまく混乱――ジャンルや形式を打ち破らんとする新鋭たちの群雄割拠を写し取っていて、もとより絵画のなかに写真を塗りこむ作品もあるのだからごく自然な選択とも云える。いずれにせよ選ばれた写真家はふたりとも、写真家と云うよりも写真を用いた芸術家だった。ひとりは大阪出身の木更津康司で、東京、大阪、ニューヨークにパリ、大判カメラで撮影したそれら世界中の大都市を彼は切り貼りし、大きなコラージュ作品をつくった。《アトラス1》と名づけられたそれは現在、彼の故郷にあるメモワールで見ることができる。シリーズはそのまま2、3とつづき、題材や撮影手法を変えながら九つの《アトラス》が製作された。もうひとりの写真家は木更津に較べるとマイナーで、東京出身の平石一創。一創と書いてかずまさと読ませる。彼が《状況》に展示したのは、無題のインスタレーションだった。会期中、平石は愛用のライカを片手に京都中を歩き回っては街路や風景を撮りまわり、その日のうちに現像しては、プリントされたはしから会場の壁に貼りつけた。被写体もわからないほどに粒子の粗いモノクロームに、裏返すと日付および撮影地点、そして引用や箴言が走り書きされている。際立っていたのは撮影枚数で、学芸員や木更津、ほかにもカメラに心得のある画家たちまで巻きこんで現像させて、展示のために与えられた壁は半日ごとに写真で覆い尽くされた。「写真は地層のように折り重なっていった」と木更津はのちのインタビューで回想している。「やられたって思ったよ。あれは記憶の比喩や写しなんかじゃない、記憶そのものの刻印だった」。このインタビューが収録されているのは京都国立近代美術館の《現代芸術の記憶/記憶の現代芸術》展の図録だ。《状況》展の開始からちょうど五〇年目にあたる二〇一三年、全十回おこなわれた《状況》展を振り返って総括した、云わば展覧会の回顧展。当時の作品が幾つか再び展示されたほか、展覧会がどのように開催されて受容されたのかを記録したアーカイヴや新聞、雑誌の資料も充実していた。木更津の《アトラス1》も、五十年前と同じ場所に立てかけられた。
 しかし平石のインスタレーションは、決して再現されなかった。その場限りのインスタレーションだったから、と云うのは主たる理由のひとつではあるが、すべてではない。会場にも図録にも、平石がおこなったことについて、木更津による回想以外、ほとんど言及がなかった。資料が失われていたからだ。当時インスタレーションに使われた写真は平石によってすべて回収され、一枚も美術館に寄贈されなかった。その後も平石は厖大な写真を、一度も公開していない。そして決定的だったのは、美術館に保管されていた作品調書から、平石の写真を写したものだけが切り取られていたことだ。発覚したときは業界でそれなりに話題となったけれど、逆に云えばそれ以外に話題にされることはなかった。その後現代芸術と写真表現を模索して世界的な写真家となる木更津と対照的に、平石はすでに表舞台から消えた、忘れられた写真家だった。《記憶》展の図録でも、事件については簡単に触れられるだけに終わっている。木更津も前述のこと以上は語っていない。事件についてはそのほかに、犯人はおそらく平石自身だったと、風の噂が一度だけ流れたくらいだ。
「平石はいま、どこにいるんですか?」
 《記憶》展の最終日、わたしは学芸員のひとりに訊ねた。彼女は同僚や上司と何度かやり取りしたあと、個人情報ですので、と断った。木更津にもコンタクトを図ったけれど、メールはひと言、おれも知らないと返事されて終わった。
「わたしはいま、平石が当時撮った写真を一枚だけ持っています」
 そうメールして、いまは応答を待っている。
 わたしは手もとにポケット植物図鑑を取り出して、ページを開く。河原町の古本屋で拾ったものだ。なかほどに、粒子の粗いモノクロ写真が挟まっている。指でつまむ。わたしは考える――考えてきたことを思い出す。平石はおそらく、回収した写真を一部、蔵書に挟んで売り飛ばしたのだろう、と。流石にすべての写真を挟むには同じく厖大な数の書物が必要になるけれど、ほかにも家具のなかに隠したり、アルバムに紛れ込ませたりしたのかもしれない。半ばそう確信しているのは、ある時点のある地点に集められた写真が、時空間のなかでどんどん拡散してゆく、そんなイメージに、わたしは作品の真の完成を見るからだ。
 写真は美術館近くの水路を写している。流れている水は荒々しい画面のなかで冷たく凍っている。光が容赦なく、写真家の、そして観者の眼を貫くようだ。
 裏側には64/6/24とある。美術館裏,仁王門通り.筆致は力強く、けれども言葉は年月のうちにすっかり掠れている。見るものはすべて殺す.
 平石が最後に目撃されたのは妻の葬儀で、両目ともに義眼だったと云う。