鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/01/31 ドン・デリーロ『ホワイトノイズ』

「もしも死が音だとしたら?」
「電子的な雑音だな」
「ずっと聞こえ続けるの。そこら中で音がする。なんて恐ろしいの」
「恒常的で、白い」


 死とは、少なくとも現代において、物語の結末のように訪れる決定的な一点ではなく、終わりのないかたちでだらだらとそこら中を漂っている。ウイルス。薬物。環境汚染。放射線。――死はそうして掴み所のないままわれわれを取り囲み、膜をすり抜けてこの身体を侵す。テクノロジーはそれらを遠ざけるどころか、むしろテクノロジーこそそうした死の源泉であり、遠ざかろうとすればするほど死は不安となって忍び寄ってくるだろう。われわれにできるのはテレビをつけて、インターネットに繋いで、なんとかそれらを忘れようとするか――しかしびかびかと明るい光は網膜を貫いて脳を焼くみたいに毒々しい――、反対に自分を取り囲んでいるものを知ろうとして、自ら膨らませた不安に苛まれるしかない*1
 ここに逃げ場はないのだろうか? 現代と云う、ここには?
 環境問題もパンデミックも戦争も――極言すれば根っこは同じだ――どれにしたっていつまでも克服できない2023年初頭、『ホワイトノイズ』は古びるどころかますます真に迫って読めた。アメリカの地方都市で、得体の知れない化学物質が漏出する。それを吸ったらどうなるのか? それが流出したら環境にどんな影響があるのか? 情報と生態系の複雑な網目にあってそれらに明確な答えが出るはずもなく、語り手たち家族は痙攣じみた不安に耐えるしかない。後半ではそうした死の不安を乗り越えるためにひとつの薬が登場するが、それも結局は、得体が知れない。何が起こっているのか誰も答えを示してくれないまま、不安と噂がそれもまたウイルスのように伝播する。
 語り手を取り囲むのは、ホワイトノイズと雨の音。どちらもざあざあと鳴り続け、恒常的で、白い。文体もまた、ホワイトノイズのようにざあざあと、白けたように醒めて綴られる。
 何も起こらないと云えば何も起こらない話だ。決定的な破局をとっくに通り過ぎてしまったようなどうしようもない諦めや後悔、恐怖が文章のあいだひとつひとつから漂ってくる。われわれは生きながらにして死んでいるのだ。生も、死も、もはや境界は曖昧になって、孔だらけのわたしたちのあいだを、化学物質や病原体が激しく循環する。その靄ついた死を振り払うために語り手は自ら死を操ろうとするけれど、その暴走もまた挫折してゆく。逆転のための妙手はどこにもない。
 しかしその挫折は、ねじくれていながらも一種の利他を提示する。本書がこんなにも死の匂いに満ちて不穏であるのに、不思議と重すぎる印象を与えない理由はそこだろう。どれだけ死に満ちていたとしても、われわれは生きていくしかないのだ。穴ぼこだらけの身体をさまざまなものが通り過ぎてゆく。その巨大な網目のなかに囚われてわれわれは決して出ることができないけれど、それは同時に、他者と切り離された人間はあり得ないと云うことでもある。醒めたヴィジョンだ。恒常的で、白い。

honto.jp

追記:『ホワイトノイズ』は以前読書会で読んだこちらの評論で知った。感想もそこでの評に引き寄せられた感は否めない。

*1:福島原発の事故以来、コロナ禍でも盛んに云われた「正しく恐れる」とは結局のところ、「これ以上は考えないと云うラインを定める」の云い換えでしかない