鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

創作「帝国と云う名の地図」

 突発的に書いた掌篇。地図小説です。元ネタはボルヘスのアレ。



 過去のあらゆる地図よりも正確な地図をもとめたのは四人目の皇帝だったとされる。この頃、帝国の版図は建国以来最大を更新し、千年間で最も権勢を誇った。皇帝が地図を求めたのは、この治世を確かなものとするための道具にしようとしたからだとも、皇帝が自らの栄光を地図に記録しようとしたからだとも云われる。いずれにせよ皇帝がもとめたのは、帝国の版図を端から端まで収める地図であり、寸分の狂いなく帝国を写し取る地図だった。
 測量隊が組まれ、帝国の隅々へ派遣された。山を越え、海を越え、砂漠を越え、彼らは測量した。帝国の空白は彼らによって埋められ、帝国の境界は彼らによって引かれた。十年がかりの測量は無事終わり、作製された地図が帝都に集められた。並べられた地図は宮殿の広間いっぱいを埋めた。臣下は誰もが自信を持って地図を皇帝に捧げた。皇帝は地図の上を、国境に沿って端から端まで経巡った。
「これがわが帝国か」
「はい、陛下」臣下はこうべを垂れた。「これよりいっそうの拡大を目指しましょうぞ」
 皇帝はちょうど帝都の位置に立った。
「……違う」
「は」
「これはまったく正確ではない」
 皇帝は地図を踏みにじった。「ここには帝都がない。西の商業都市も、東の海港都市も書かれていない。お前はこのような、地形図に線が引かれただけの代物を、帝国の写し絵と云うのではあるまいな?」
 臣下は首を刎ねられた。
 地図製作は振り出しに戻った。測量士が集められた。数学者が集められ、天文学者が集められた。宮殿の広間に集まったなかには、哲学者や占い師もいた。困惑した様子の彼らに皇帝は、「従来の測量では不十分である」と云った。学者たちを眺めながら続ける。「測量は完璧でなければならぬ。新たな方法が、新たな道具が、新たな計算が、新たな製図法がなければならぬ。帝国を完全に複製するのだ、あらゆる意味において」。皇帝は哲学者や文学者を指さした。「そのためには、新たな世界観もなければならぬ」。
 学者たちは跪き、帝国のために使命を果たすと誓った。
 測量が始まった。器械によって、計算によって、言葉によって、あらゆる方法で学者たちは帝国を測ろうとした。点と点の角度から長さを割り出す方法が編み出され、その計算式が幾何学を発展させ、いっそう正確な測量法へと反映された。音によって距離を測る器械や、光を定着させて視覚そのものを複製する装置も発明された。何をもって国家を定義するのか検討され――「敷かれた国境は現実なのか虚構なのか?」――都市の本質とは何なのか議論され――「地図上に打たれた点が都市ではないとすれば、道路と建物の集合が都市なのか?」――結論ひとつひとつが地図の書き方を変えた。そのたびに地図は拡大と縮小を繰り返した。
 そうして十年が経ったとき、天文学者が皇帝に云った。「陛下、どうやらわれわれは絶対に、正確な地図を紙に書くことができないようです」。
「確信があるのか。なぜだ」
「われわれの大地は平らではないからです。海を埋め、山を均しても、大地は僅かに曲がっております。帝国各地から集められた星の観察結果から考えて、これは明らかです。われわれは盤の上に生きているのではありません。おそらく大地は球であり、球面を平面に書き写すことはできないのです」。
「ならば球面の地図を作れ」。皇帝は命じた。「地図は正確でなければならぬ」。
「しかしそれでも、おそらくは」と天文学者は云った。「完璧に正確な地図はできませぬ。どんなに硬い物差しも曲がります。音と光も歪みます。計算尺も狂います。そして、人間は必ず誤ります」。
「余は誤らぬ」
 天文学者は首を刎ねられた。
 さらに十年経ったとき、歴史学者が皇帝に云った。「陛下、どうやらわれわれは絶対に、正確な地図を紙に書くことができないようです」。
「それは一度聞いた」
天文学者とは違う理由でございます。たとえ球面を正確に写し取れたとしても、完璧に正確な測量がおこなえたとしても、帝国の姿は刻一刻と変わっているのです。辺境では小競りあいが絶えず、諸外国からは常にどこかと交戦しており、版図の境界は測量開始からいままでに何度も更新されました。新たな都市が建設され、幾つかの都市が廃れました。たくさんの道路が敷かれ、隧道が掘られました。埋め立てられた海岸や、拡幅された河川もあります。帝国は静止することなく動き続け、その一瞬を切り取ることはできません」
「一瞬の光景を紙に定着させる装置があると聞いたが?」
「もし帝国すべてを収める巨大な装置で写し取ったとしても、それは過去のある一瞬の帝国であり、いまこのときの帝国ではありませぬ。帝国は生きております。なんとなれば、われわれが生きているからです」
「ならば地図も常に更新し続けよ」
「お言葉ですが、陛下。それでは地図はいつまでも、帝国そのものに追いつきませぬ。完璧に正確な地図はあり得ないのです。完璧に正確な地図ができるとすれば、帝国そのものが過去となるときだけです」
「帝国は永遠である」
 歴史学者は首を刎ねられた。
 そして十年経ったとき、ある学者が皇帝に云った。「陛下、われわれはついに正確な地図を書くことに成功しました」。
 最初に測量隊を派遣してから、四十年が経っていた。
「前置きは要らぬ」。皇帝は床に伏せながら云った。「見せよ」。
 しかし、皇帝の眼は焦点が合わず、瞳は濁っていた。
「いま見せることはできませぬ。なんとなれば、地図はこれから書かれるのですから」
「ならば、書くが良い」
 皇帝は学者を見もしなかった。
「お前は誰だ」。
生物学者でございます。人間は生きており、都市も生きており、帝国が生きていると云うのであるならば、地図も生きていなければなりませぬ」
 生物学者は説明した。ほかの地図製作者たちにも繰り返した説明だった。
「地図は紙に書かれますが、紙は植物から作られます。製造の過程を工夫すれば、生きたままの紙を作ることは可能です。地図を書くのはその生きた紙でございます。南方の密林にいる、周囲の景色に合わせて肌の色を変える蜥蜴のように、生きた紙は模様を変えることで地図を書くのです」
 生物学者は紙片を取り出す。羽ばたくように紙片が身を震わせると、表面にはインクを垂らしたような斑点がにじんでくる。
「植物を繊維まですり潰し、また合成したものが紙です。器械の部品を解体し、自律する装置に改造することと何が違うでしょう? われわれは、自ら地図となる地図を作ったのです」
 紙片は蝶のように生物学者の回りを飛び始める。翼の斑点が集まって、宮殿の、皇帝のいる部屋が浮かび上がる。紙片が鼻の先まで飛んできたとき、皇帝の朧気な視界にもはっきりとそれが見える。そこには皇帝自身の、老い、やつれた顔が映し出されている。
 皇帝は咄嗟に命じる。「その者の首を刎ねよ」。
「わたくしが死んでも、地図は生き続けます。地図は自己増殖します。能う限り迅速に、転写と複製を繰り返し、新たな地図を作り続けます」
「首を刎ねろ」
「地図はすでに帝国中にまかれました」
「誰もいないのか」
 地図は部屋を埋め尽くし、側近たちを呑みこみ、生物学者を覆っている。
「陛下。完璧に正確な地図とは何でしょうか?」
 皇帝の唇を地図がわけいる。生きているものの感触がある。
「それは、一分の一の地図です。帝国そのものと同じ大きさの地図です。帝国とともに生きる地図です」
 生物学者の顔に貼り付いた地図に、生物学者の顔が書かれる。
「あるいは、帝国自体となる地図です」
 窓から、扉から、地図があふれ出す。
 蒼穹が地図で埋め尽くされ、帝国は地図に覆い尽くされる。
 長い時間をかけて、または永遠に較べれば一瞬のあいだに、空白のすべてを地図が埋める。民の多くは何も気付かないうちに地図へ呑みこまれ、地図から逃げようとしたものもその逃げ惑う姿を含めて地図に記述される。
 地図はようやく帝国に追いつき、帝国は静かに息を引き取る。

 地図を燃やしたのは帝国の外に出ていた皇子とも、侵略の好機と見た諸外国の兵士たちだとも伝えられる。あるいは、森林の豪雨や砂漠の灼熱に耐えられず、地図は勝手に朽ちてしまったとする物語もある。東方の渓谷の奥地に、石膏型のように人間の姿だけ抜け落ちた、地図の死骸の塊が残されていると云う。北方の雪原や西方の砂漠には、地図の遺骸がいまも断片的に見つかるそうだ。その断片には言葉も記録され、以上の物語はその記録を再構成したものだと、砂漠の民の語り部は話した。
 果たしてその言葉は、誰かが地図に書き残したのか、それとも地図自体が語っているのか。
「解釈はそこでも分岐します。わたしが語ったのは、無数の枝葉を辿ったうちの一本に過ぎません」
 そう云って語り部が握りしめる紙片はすっかり黄ばみ、何が書かれてあるのかは読むことができない。



 もうちょっと捏ねればもっと伸びそうだし、地図に覆われてからの話も書きたいけれども、そうなると別ものなので。

小川哲著『嘘と正典』文庫版の解説を担当しました

 こんにちは。鷲羽巧です。

 小川哲さんの短篇集『嘘と正典』文庫版の解説をこのたび担当しました。
 解説では、個々の作品の読解から、作家・小川哲の魅力、そしてぼくはそもそも誰なのか――なぜ一介の大学生なのにこのような大役を任されたのか――も含めて書いたつもりです。あくまで主役は作品ですので、その鑑賞の一助になることができていれば幸いです。7月6日発売。

 小川哲さん最新長篇『地図と拳』もよろしくお願いします。

ブランコを漕ぐ

 何かを考えたいときは散歩する。何かを考えながら散歩するときに公園が目に入ると立ち寄る。そこにはたいていブランコがある。両脚をピンと伸ばして、勢い良く漕ぐ。振り子の周期をその身で感じながら、何かを考える。多くの場合、それは夕暮れから夜中だ。ひとけのない公園に、ブランコの鎖の擦れる音が響く。

 『SFマガジン』2022年8月号(No.752)掲載の小川哲・逢坂冬馬対談では、日本人が外国の戦争を書く意義について最後に話している。微妙な問題なので部分的な切り抜きや要約も避けるが、当事者とは云えないものを書くことについては自分もしばしば考えることがあり、今後も考えていくしかないなと読んでいて思った。

 当事者ではない過去の戦争を、しかし小説で書くことによって、当事者として受け止める、と云うのはひとつの意義であり、効用だろう。とくに戦争は過去ではなく、いまも世界で進行している。内戦や、形を取らない暴力はそこら中にある。これはまったく他人事ではなく、だから外国の戦争を小説であれ研究であれ書くことは大切だ。もちろん書くことが無条件で肯定されるわけではないし、たやすく陰謀論歴史修正主義、偏ったプロパガンダへ滑り落ちる。けれどもゆえに、考え続けなくてはならず、書かなければならない、と云うこともできる。

 当事者ではないことを普遍的な問題として受け止めたり、当事者として引き寄せたり、当事者へと入りこんだりすることは、たとえば男性が女性に、性的マジョリティが性的マイノリティに、アングロサクソン系がアフリカ系に、と云った関係に置き換えてみると、必ずしも肯定できないことがわかる。そこには「他人」と云うだけではない格差・勾配があって、小説として語ることによる一般化や相対化はその構造を覆い隠すだろう。黒人の命を蔑ろにするな、と云う声に、誰だって命は大切だ、と反論することの醜悪さを考えなければならない。

 本来なら具体例をもっと挙げていたが、断片のなかで語るのは難しすぎるので省いた。

 音楽についての小説を構想していて、その音楽家は耳が聞こえなかったと主人公が気付く、と云う展開を思いついた。この思いつきに対して、自分の倫理が待ったをかけた。もちろん単なるサプライズとして書こうとは思っていなかった。主人公がなぜそのことに気付かなかったのか(なぜその音楽家が気付かせなかったのか)、そしてなぜ主人公は気付いたのか、そこに作品のテーマがあるだろうと思った。しかし、そのテーマをあとから並べ立てても、云い訳にしか感じられなかった。

 当事者にとっては当たり前で、切実な問題を、小説のフックやツイストとして消費するのはやめるべきだ。しかし、ミステリはしばしば、その認識の差異が生む衝突や暴力にこそテーマを落とし込んできた。『断たれた音』のラストシーンの、耳が聞こえないチェスプレイヤーと視聴者の見ている世界の断絶をつきつけるラストシーンは忘れ難い。しかし、それは云い訳に過ぎないのかも知れない。こっちは啓蒙してやってンだから、と云う態度で障害を扱うミステリ小説に出会うことも、ある。

 ミステリはポーを意識することから始まって、ホロコーストを考えるところで終わる。チェスタトンのように、世界をあえて単純化することで豊穣を謳うような逆説は、いまやその手続きが持つ暴力が看過できなくなりつつある。

 犯人当ては人間を属性に分解してしまう、と云う先輩の言葉を思い出す。障害や性差を手がかりとして消費するその書き方は批判されるべきだ。しかし、これはうろ憶えなのだけれども、人間を属性に分解するから犯人当ては面白いと先輩は云う。ひとがしょせんは要素の集合でしかないことによって癒される痛みもある。その実感が与える豊かさもある。リチャード・パワーズがよく難病患者を小説に登場させるのも同じような動機だろう。われわれはしょせんタンパク質の塊であって、遺伝子やら反応式やらで記述される存在に過ぎない、と。しかし、パワーズの小説に登場する難病が、たやすくエモや涙を誘うことも事実である。

 当事者でなければ書いてはいけない、と云うのも極端だ。何より、ぼくはぼく自身のことをあまり詳らかにしたくない。ぼくには、文学の題材になりそうな当事者の問題が幾つかあるけれども、それを小説で書こうとは思わない。しかし、だから自由に、想像を逞しくして書くのだ、と云って書いてきた小説が、ステレオタイプに嵌まり込んで当事者を蔑ろにしたものである危険は常に存在する。

 結局は、考え続けなければならない。そもそも最近は小説を書くことさえうまくできていない。

 尻が痛くなってきたので、ブランコを降りる。ブランコに乗ったときしか感じられない尻の浮遊感をおぼえながら、公園をあとにする。コンビニでアイスもなかを買って帰る。ラップトップを起ち上げる。この文章を書く。

創作「ウボンゴ小説集」

 『文体の舵を取れ』の練習問題⑦ではウボンゴ小説と呼ぶべき掌篇を提出した。この記事は過去複数回にわたって発表したそれらのまとめ版。なぜまとめたのかと云うと、ウボンゴが話題に出るたびにリンク貼るのに、記事が複数あると面倒だからだ。最近はゲーム小説熱がにわかに高まっているとも聞くことだし。

booth.pm

 同じような話をさまざまなPOVで書き換えている課題だったけれど、ここでは気にしてもらわずとも構わない。なお、ウボンゴ3Dの実際のルールとは微妙に異なっていることを注意してほしい。
 元記事は最後に。

1

 三番、と桐島が云って、片手で開いた文庫本から視線を逸らさないまま砂時計をひっくり返す。谷中が手許のシートに眼を落としたとき、はじめ、と桐島の気怠い声がした。三番。儀式のように各々がそう口にし、卓上で六つの手が動きだす。正面の嘉山は与えられたピース同士を闇雲に組み合わせ、隣の植野はひとつひとつのピースを矯めつ眇めつし、谷中は迷うことなく順番に、ピースをシートへ置いてゆく。パターンなんだよ、と谷中はほくそ笑む。指定された図形は立方体に欠けがあって真四角に近く、けれど与えられたピースはキューブが蛇のように伸びていた。こう云うときはピースの長さを処理しようとして縦横に並べるのではなく、むしろ対角線を作るように噛み合わせるべきだ。パズルは直感を裏切る。だから直感を信じない。データとパターンに基づくこと。谷中はちらと右を見た。そう教えてくれたのはあなたですよ、植野さん。植野は眉間に皺を寄せ、ついにピースから手を離した。嘉山も変わらず進捗がない。いける。谷中は最後の二ピースの組み合わせを急いで検討しはじめた。こうか。こうか? いや? 静かな狭い部室のなかでかちゃかちゃと云う音が忙しない。ねえ植野ってば大丈夫、と桐島が云う。焦る内心で谷中は思う、先輩じゃなくてぼくを見てください、桐島さん! しかしいつまでもピースが合わない、なぜだ。訝しがると同時に気づいた。思わず顔を上げる。テーブル中央のピースの山を見る。その向こうで状況を察したのだろう嘉山が嗤った。ピースの取り間違い。背筋が凍る。砂時計はもうほとんど落ちている。桐島が呆れたように溜息。植野はピースを手に取る。やめろ、と谷中は叫びたくなる。植野の手は迷いなく、コの字の立体を組み上げた。絶望のなか、谷中は植野の宣言を耳にした。「ウボンゴ」。


2

 ウボンゴは苦手だけれど、みんなでウボンゴをするこの時間は大好きだ。嘉山は袖をまくった。三番、はじめ、と桐島が云う。三番、と全員が図形を確認した。そうして二分間の知的遊戯がはじまる。すべてはパターンだと谷中はいつも云うけれど、そのパターンがきっちり当てはまったところを嘉山は見たことがない。むしろ彼女は、あんなの適当で良いの、と云う桐島の教えに従っていた。あれこれ適当にピースを組み合わせて正解への取っ掛かりを探す。ランダムな組み合わせが閃光のようにこたえを示すのを待つ。こうか、あれか、そうだ、こうだ! 嘉山の研究生活にも、引いては大学生活にもその教えは当てはまった。ランダムな衝突が思いがけず綺麗な形を生むのだ。所属も年齢も違うわたしたちがここでウボンゴに興じているように。考え込む谷中くん、泰然自若でゲームに臨む植野先輩、興味ないような素振りで進行を見守る――ほら、いまも先輩に声をかけている――桐島さん。やがて嘉山にもこたえが見えてきた。あとは細部を詰めるだけだ。ほかの状況を見ようと視線を上げたら、谷中が青ざめた顔をしていた。応援する気持ちで嘉山は笑った。植野はピースを手に取って追い込みをはじめた。頭のなかで組み上げてあとはピースをその通りに配置する、人間離れしたその業を、植野はたまたまだといつもとぼける。「ウボンゴ」。結局今回も一位は植野だった。嘉山も追いかける。谷中は茫然としているけれど、手を動かすのをやめはしなかった。あと何回、こんなふうにウボンゴできるだろう、と嘉山は思う。

3

 白地に薄黄色の花柄が散りばめられたテーブルクロスの上には立方体を幾つも組み合わせた蛇のような積木がゆうに四十個は並び、赤、青、緑、黄、それぞれの色である程度分けられているその山を、三人分、六つの手が取り囲んでいる。色黒で指が太いふたつは忙しなく指でテーブルを弾き、色素が薄く線が細いふたつはべったりと掌をクロスのマットな表面に押しつけ、毛深いふたつはむかいあわせにして卵を包むように膨らんでいる。テーブルの隅には先週の雑誌と背色の褪せた文庫本と表紙がはずれかかった辞書ともう空っぽになったティッシュペーパーの箱とが積み上げられ、そのてっぺんにある砂時計が第七の手で抓まれるようにしてひっくり返された。三番、とテーブルの上から声が落とされる。六つの手が一斉に動き出す。色黒のふたつは赤い積木を一方に持って、もう一方で黄や青の積木と組み合わせては外していく。その向かいの華奢なふたつは焦る様子もなく赤、黄、緑と積木を組み、隣のふたつは指で積木の形を確かめるようにひとつひとつ取り上げては握りしめていた。砂時計が半分を過ぎる。闇雲に組んでは外してを繰り返していた両手はいつの間にかゆったりとした手つきになって立体物を作りつつある。向かいの両手は最前の落ち着きをなくしている。積木を触っていた手はもはや中空に投げ出されていた。くびれた硝子容器のなかでは山が平らになり、やがてすり鉢状となって時間の経過を示している。色黒の手が震えながらテーブルの中央へ飛んでゆく。向かいの手がつかの間止まる。その空隙のような一瞬に、両者に挟まれた手が積木をコの字の立体へ組み上げている。

4

 ちょうど探偵が推理を話すところだったから、このゲームの参加は見送った。代わりにタイムキーパーを仰せつかって、わたしは右手で開いた文庫本の探偵の推理を拝聴しながらゲームの開始を宣言し、左手で砂時計をひっくり返す。視界の端で谷中と嘉山と植野が一斉に、テーブルのピースを手に取った。かちゃかちゃと鳴る軽い音は素材が木製だからか芯のところに柔らかさがある。三人から少しく離れてその音を聴くのは久しぶりだった。そこにウボンゴがあるならばいつも参加するからだ。わたしはゲームに真剣になれない性分だけれど、ウボンゴは別だった。いや、正確には、真剣にならないことが楽しい唯一のゲームだった。真剣になれば視野が狭くなる。視野は広く、心は気楽に、能うならば、無に。その境地でパーツとパーツは収まるべき場所に収まるのだ。探偵の推理のように。だから推理研に相応しいゲームだ、と云ったのは一回生の頃のあんただっけ、植野? テーブルの対面に坐る彼を横目で見ると、ピースから手を離して眉間に皺を寄せていた。ねえ植野ってば大丈夫、と茶化してやる。きり、と彼の口角が上がった。どうしてウボンゴがサークル活動になるの、と訊ねたときに返されたのと同じ笑みだ。ゲームに参加していたらとても眺める余裕のないその笑みを見られたのは役得だろう。彼は迷いなくピースを組んだ。視線は手許に落とさなかった。彼はまっすぐわたしを見て、云う。「ウボンゴ」。それからまだウボンゴをめざして足掻く後輩ふたりにそれぞれ一瞥をくれて、肩を竦めた。そう、あのとき彼はこうこたえたんだ。「いつかはウボンゴも活動になるさ」。そして、伝統になってゆくのだと。

5

 こんな繰り返しを想像してくれ。正方形と正方形が頂点をつなぎ合わせてグリッドをなし、秩序立てられた景色が果てしない。規則正しいその格子柄を目印にして、立方体が幾つも接着した多様な形状のピースを布の上に散りばめてゆく。――これは駅。これは広場。これは大学。置いてゆくうちに布がぴったりとついているテーブルの天板の微妙な凹凸がわかってくる。ないように思われた果てもテーブルの縁から滝のように垂れ落ちる切れ端として存在すると知れる。――これは部室棟。これはその西館。そうして段々、身近になって、彼らはそのなかにいるのだと想像してほしい。現実はどうであれ構わない。彼らにとっていまこの瞬間、部室の外なんてテーブルの上のウボンゴの並びと大差ない。問題は部室のなかだった。中心は、テーブルの上のウボンゴだった。
「三番」
 彼らのひとりの気怠げな声が部室に響いて埃っぽい大気に消える。
 室内は六畳あろうかと云う正方形。四方の壁はところどころに罅の走ったコンクリートの表面を剥き出しにして、天井近くに細長く取られた明かり窓から差し込む午後の陽が北側の壁一面に貼られたポスターと歴代会員の名簿と誰のものとも知れない署名の落書きを菱形にかたどっている。反対に明かり窓の真下の暗い陰で壁を埋めるのは古びて撓んで崩れかけた木製の書架だ。棚が本を収めているのか、本が棚を支えているのかわからない。最前に番号を唱えて手許の砂時計をひっくり返した彼女は名を桐島と云って、その本棚を背に坐っていた。彼女の眼前のテーブルで、ウボンゴは佳境を迎えている。
「三番」
 そう繰り返してピースを手に取った三人のウボンガーは桐島と合わせて四角いテーブルを取り囲み、桐島から見て左手が嘉山、そのまま時計回りに植野、嘉山と云う。各々のスタンスはまるで違った。谷中はピースをあらかじめ身につけた手順通りに組み合わせ――パターンなんだよ、パターン――反対に彼の正面、嘉山は闇雲にピースをぶつけ続ける。――こうか、あれか、そうか、そうだ! 分厚く光沢のないクロスの上で蠢く六つの手。着実ゆえに迅速な谷中と拙速ゆえに緩慢な嘉山に挟まれて、桐島の対面、植野はピースのかたちをひとつひとつ確かめるばかりで組む様子もなく、挙句にはピースから手を離す。
「ねえ、植野ってば大丈夫」
 たまらず桐島は声をかける。それを聞いて谷中は胸を焦がす――先輩じゃなくてぼくを見てください、桐島さん。けれども谷中のウボンゴは完成しない。当然だ。彼はピースを取り間違えている。それに気づいて慌てはじめてももう遅い。植野は瞼を押し上げてピースを持ち上げ、解答を知っているかのように滑らかに、コの字の立体を組み上げた。
「ウボンゴ」
 喘ぎながら谷中は頭を掻く。黙々と組んでいた嘉山が彼の絶望も知らないまま彼を追い抜く。砂時計が無慈悲に時を刻む。滑り落ち続ける砂を陽が照らし、容器のプラスチックに反射する。ゲームは終わろうとしている。植野は対照的な両脇のふたりを見やって肩を竦める。桐島が植野に頬笑む。その頬笑みを植野は何度も見てきた。これまでも。おそらくはこれからも。そうしてゲームは繰り返される。植野の両の掌に包まれる、部室棟と似た立体の、そのなかの部屋の、そのなかのテーブルで。植野は思う。
 ――そんな繰り返しを想像してくれ。

元記事

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創作「象と絞首刑」

 名探偵の話です。最後に残ったものが勝者だ。

象と絞首刑

指し手たちがその場を去っても、
時が彼らを消滅させても、
儀式が終わらぬことは確かだろう。
――ホルヘ・ルイス・ボルヘス象棋」(鼓直訳)


 小父さんが死んだ。高名な推理作家だった小父さんの死を多くのひとが悼み、幾つかの雑誌では特集が組まれた。大手の出版社ではすでに、全集の編纂が始まっていると云う。語ることのできる限りどれだけ老いようともわたしは作家であり続けるだろう――いつか自信に満ちてそう述べた小父さんにとっては不本意であろう、それは早すぎる死だった。難しい名前の薬を医者はあげつらったが、結論は要するに事故による中毒死だ。若い頃は医者だった小父さんは誰よりも自分の診断を信じていたから、その過信ゆえの誤りと思われた。当然の帰結と云うこともできる。あるいは、偶然の理不尽だろうか。小父さんは兄弟もなく、親もすでに亡くし、結婚もしないで子供ももうけなかったから、葬儀は極近しい友人や関係者のあいだで密やかにおこなわれた。初夏の雨が涼しい午後だった。わたしは父の代わりに参列した。本来、誰よりもその場に並ぶべき、小父さんのいちばんの友人だった父もまた、すでにこの世になかった。神父の説教を聞きながら、なんて孤独な死だろうとわたしは思った。墓碑銘は故人の意向でこう刻まれた。
 ――アンソニー・ブレア 一九〇三―一九五〇 名探偵の記録者
 エドワード・オーウェンアメリカのシャーロック・ホームズ。そしてわたしの父である彼の、小父さんは記録者だった。小父さんは最期まで主役になることを拒み、エドワードの記録者であることに一生を捧げようとした。その献身を思い、小父さんの書斎の鍵つきの抽斗から見つかったこの手記――小説として発表されたのではない私的な手記を、だから公表するつもりはない。小父さんはそれを望まないだろう。
 手記は父と小父さんの出会いから別れまでを短く記述したものだ。したがって、小父さんにとって最後のエドワード・オーウェンの記録と云うこともでき、ついに公で語られることのなかった小父さん自身の物語と云うこともできる。いずれにせよ、内容を考慮すれば表沙汰にできるものではない。ほんの短い時間だったけれど、小父さんはわたしの世話をしてくれた。作家業で築き上げた遺産の大部分は報われない犯罪被害者の支援に使われるものの、血の繋がりのないわたしにも、生きてゆくのに不自由しないだけのお金を遺してくれもした。だから小父さんを裏切るわけにはいかない。ただでさえ小父さんは、自らの死によって不本意にも筆を断たれたのだから。
 とは云え。この手記を燃やしたり、破り捨てようとも思わない。私的な日記を周到に処分し続けた小父さんの、これは唯一と云って良い、小説にすることを想定していない告白の書だから。原稿はタイプライターで清書されておらず、その筆跡には小父さんらしい几帳面さと、それでいて熱に浮かされたような勢いがうかがえる。
 鍵を付けてしまっていたと云うことは、誰かに読まれるのを避けたかったのだろう。一方でその書きぶりは、誰かに自分の見てきたこと、おこなってきたことを伝えようとしているようでもある。以上を踏まえてわたしはこの手記を、屋敷のどこかに隠しておこうと考えた。いまわたしが書いているこの前書きと合わせて、いつか誰かが発見するその日までしまっておくつもりだ。場所は、そう――かつて父の書斎でもあった小父さんの書斎に。そこにいつか収められるだろうアンソニー・ブレア全集、その最終巻の函はどうだろうか。父の集めた蔵書のなかの、小父さんが著した本のなかに、最後の物語として紛れ込ませて……。
 小父さんの許に転がり込んでから一ヶ月経った頃、いま思えばこの手記を書き終えた時期だったろう夜に、小父さんは食事の席でわたしに云った。
 ――言葉だけが最後に残るんだ。
 小父さんが唯一無二の親友について書き続けた、それが理由なのだ。ならばわたしもそれを信じよう。わたしがこの屋敷を去っても、みんなが小父さんのことを忘れても、書かれた物語は残り続け、この手記もどこかで読者を待ち続けるのだと。
 いつかこの手記を読むあなたに向けて、父について、小父さんについて、詳しく説明するような前置きは止す。書かれていることを素直に読んでもらえばそれで良い。あるいはあなたが名探偵となって、裏の作為を読みと取ってもらってもかまわない。どうであれ、書かれたものが全てだ。生き残った言葉がなんだったのかを考えるのはあなたの自由である。
 一九五〇年
  ボストン、マサチューセッツ



 出来事それ自体はなんら必然ではなかった。それを運命と呼ばしむるのは、出来事以外の要素である。ハーバード大学で開かれた寮対抗のチェス大会、その数ある試合のひとつに過ぎなかったエドワード・オーウェンとハンバート・クィンの一局は、のちにふたりがふたたびニューヨークで出会ったことで、運命の一局となる――わたしがその証人となったことも含めて、仕組まれたような歴史の展開だった。
 わたしとオーウェンが親しく付き合うようになったきっかけも、その一局である。わたしは記録係兼審判として、オーウェンとクィンの試合を見届けた。あの日の棋譜を見返すたび、わたしはその試合を昨日のことのように思い出せる。日付さえ正確に記録されている――二七/四/一九二二。借り切った教室の陽の当たる窓際で、机を挟んで座るふたりは、鏡に映したようによく似ていた。触れれば切れそうに鋭い目つきと鼻筋。不健康に痩せて飛び出した顎。上背のある躰に針金を通したような四肢は、しかし膂力を感じさせる。それまでわたしを含めた三人とも、互いに面識がなかったと思う。左手同士で握手のみ交わして会話もなく、粛々と試合が始まった。わたしの見る限り、ふたりの実力は拮抗していた。基礎的な研究の蓄積と云う意味では、クィンの方が一段上だったかも知れない。先手の彼は序盤に着実な攻めを展開し、後手のオーウェンは陣形を整えるのもままならなかった。戦局が変わるのは中盤、オーウェンが読みの鋭い一手をぶつけてからだ。相手の手筋を読んだうえで、次の手を誘導する巧妙な一手だった。この誘いに乗ったクィンはしかしこれまた巧妙に攻撃を躱す。かくして盤面はダイナミックな読み合いと誘い合い――操り合いのゲームと化した。この切り結びを制したのは、傷を負ってでも懐に相手を招き入れて囲い込んだオーウェンだ。白の投了が宣言されると、彼らはもう一度手を取り合った。ここでも言葉は交わされなかった。けれども烈しい試合と力強い握手は、どんな言葉より雄弁だった。名勝負と云うには振り返ると粗の多い、熱情のぶつかり合いと云った印象だが、わたしにとって、そしてふたりにとって、忘れられない一局である。ある批評家によれば、この一局の展開はふたりの運命を予め告げていると云う。三十年後のニューヨークで両者とも名探偵として再会する彼らの、鍔迫り合いでありながら協力し合う関係を象徴する、神の采配と呼ぶほかない偶然だ、と。わたしはむしろこう思う――ここでこのような勝負を演じてしまったからこそ、ふたりはニューヨークで相見えたのだ、と。
 とは云えそれは、もう少しあとの話だ。
 試合を終え、クィンは教室を出た。オーウェンは立ち上がらなかった。次の試合が始まる、と云ってわたしが退出を促すと、彼は唇を舐めた。
 ――ぼくの完全な勝利とは云えない。きみの思う通りね。
 わたしは驚いた。彼の云う通り、勝負は完全に決着してはいなかった。白にはまだ勝ち筋があった。針の穴に糸を通すように細い、しかしうまくゆけば形勢を逆転する手が。クィンもその手に向けて準備を進めていたはずなのだ。オーウェンはその勝ち筋を見抜いただけでなく、わたしがそれに気付いていることまで気付いていた。それでもね、とオーウェンは続けた。それでもぼくの勝ちだよ。
 ――あの差し方を見たかい。彼は決して賭に出ない。僅かな勝ち筋に頼るより、潔く負けを選んだのさ。
 計算に入れるべきは駒の動きだけじゃないんだ、相手の人間も見抜かなくてはね。オーウェンはそう云ってわたしの胸を指で突く。彼の瞳の深い青に、わたしはそのとき気が付いた。透き通るようなそれは眩い知性を閃かせ、けれども深海のような昏さを湛えている。思わずわたしは名乗っていた。生まれはビルマだろう、と彼は云った。――棋譜の日付表記は英国式。活動的には見えないのに、浅黒い肌。外交官の息子と推理するが、どうだい?
 柔らかな陽射しが室内の灯よりも明るくその顔を照らし、オーウェンは眼を細めた。わたしは頷いた。彼は莞爾として笑った。やつれたような彼の表情がくしゃくしゃに崩れると、存外に愛嬌があると知れた。草木の輪郭も朧気な暖かい春の日……。
 あれからもう三十年経つ。
 ――ぼくはオーウェン。生まれも育ちもボストンだ。
 相手の代わりに試合を検討しようか、と云って彼はわたしを誘った。ぼくと同じくらいに読みが冴えたやつをはじめて見たよ、と褒めてくれもした。夜まで酒を酌み交わした。オーウェンは大会を棄権した。もとより退屈しのぎだったからね、と。
 そうしてわたしと彼は友人になった。彼にとっては最初の友人だったはずだ。しかしこの出会いについては、すでに別の場所で何度も書いてきた。これ以上の詳細は語るまい。
 オーウェンは英才集まるハーバードの学び舎でもひときわ冴える優秀な学生だった。と同時に――穏当な表現で云えば――相当な変わり者でもあった。曲がりなりにも史学徒であるはずだが、彼が研究するのは専ら犯罪の歴史だった。殺人事件の報道記事や裁判の記録を嬉々として読みふけり、良識ある教授連から不評を買った。ハーバードでも犯罪科学を専門的に学ぶことができない以上、とオーウェンは云い訳するように語ったものだ。最も人間を研究し、血濡れている学問は、歴史だからね。専門以外にも興味の幅は広く、生物学徒でも触ろうとしない毒蜘蛛や、医学生のわたしでも嫌悪を催す頭蓋骨の標本を蒐集し、寮の自室をおぞましい博物館に変えてしまった。オーウェン曰く〝驚異〟のコレクションと彼のひと好きのしない性格がたまりかねてルームメイトは何度も入れ替わり、いつしかわたしがそこに収まっていた。寮の最上階、屋根裏の天井が低く圧迫するその部屋は、彼の脳の反映だった。悪趣味な標本箱や危険な毒の硝子壜が無造作に並ぶ横では物理学や抽象数学の研究書が整然と積み上げられ、けれどもその背表紙がすっかり陽に焼けている。読めれば良いのさ、とオーウェンは唇を尖らせた。彼にとって自室の蒐集品は誰かに見せるためのものではなく、自分が情報を得るための――つまり〝読む〟ためのものだった。暗号や数式の走り書きが散乱した床、ニューイングランド一帯の都市の地図や古今の犯罪者のポートレートが貼られた壁と天井。視界を埋め尽くす情報は、全て殺人捜査と云う緋色の研究へと繋がっていた。
 行く末は犯罪学者か、警視総監か、それともきみ自身がひと殺しにでもなるつもりか? からかい半ば、心配半ばにわたしが訊いたとき、彼は答えた。
 ――探偵さ。
 ぼくはね、ブレア。シャーロック・ホームズになろうと思うのさ。
 その宣言をよく憶えている。出し抜けに挙げられた探偵小説の主人公の名を、わたしは冗談だと思わなかった。その答えをずっと予感さえしていた。月明かりの冴えた深更、古ぼけた椅子に膝を立てて座るオーウェンの顔が消灯した室内にぼんやりと浮かぶ。出会いの日の陽光注ぐ彼と同じ人間とは思えなかった。
 ――この世は因果と云う名の無数の糸が織りなすテクストだ。そこに混じった血染めの糸を、ぼくは見つけ出す。シャーロック・ホームズを現実に呼び出すんだ。
 なぜ、とわたしは云う。なぜ? と彼は鸚鵡返しする。
 ――ぼくにはそれができるからだよ。
 雲が月をよぎり、光が途切れ、彼の顔は溶暗する。闇のなかで、わたしたちふたりの息づかいだけが聞こえた。ふたたび月光が差したとき、わたしは口走っていた。ならば、わたしがワトスンになるよ。わたしがきみのことを書き記そう。きみを歴史に残してみせよう。
 きみをシャーロック・ホームズにしてみせるよ。
 彼の表情は、愛嬌ある笑顔に戻っていた。――そうだね、きみはちょうど医者だからね。
 その夜から、学生寮の一室は、即席のベイカー街二二一Bとなった。学生の依頼を引き受けようと提案したのはわたしだ。と云うか、進んで依頼人を斡旋した。彼が予想して渋ったように、持ち込まれる謎はいずれも、殺人とは比べものにならないささやかなものばかりだった。密室で遂行されたカンニング、取り違えられた恋文と論文、屑籠から解き明かされた教授会の醜聞、寮から失踪したフットボール選手――。わたしの手引きで法医学研究室の遺体保管所に忍び込んで勝手に解剖したり、金を手に入れるために学生主催のポーカーゲームをイカサマで荒らし回ったりもした。いずれもオーウェンの旺盛な好奇心を満たしてくれはしなかったが、けれどもいま思えば、オーウェンが最も活き活きとして事件に取り組んでいたのはこの頃ではなかったか。わたしも彼も若かった。知性は常に渇きを覚え、些細な謎が砂漠の一滴のように映った。時間の裁量も自由に効いて、わたしたちはいつも一緒にいた。彼の行動ひとつひとつを、おそらく本人も自覚していない癖まで全てわたしは見ることができた。ひとり考えごとをするときに喫む煙草の吸殻が車輪の輻のように並べられた灰皿も、揉み上げの毛の立ち方とその日の天気の偶然では片付けられない相関も。後者を指摘したとき、オーウェンは湿気と気候の知識を披露し、髪の毛の天気予報を説明してみせ、基礎的な知識だと云ってのけた。それから呆れ半ばに、わたしをこう評した。
 ――ぼくは観察し、推理している。きみはただ見ているだけだ。きみは決して馬鹿じゃない。叡智をもっと有意義に使いたまえよ。
 気安いからかいもそこには含まれていたのだろう。わたしには褒め言葉だった。わたしにできることは、目の前のものを記録することである。そこから結論を引き出すのは彼の仕事だ。その仕事をまたわたしが記録する。役割はこうして分担される。あるいはこう表現しても良いだろう。真実の断片、とオーウェンがしばしば喩える様々な手がかりを彼が熱心に集めるように、わたしはオーウェンの断片を蒐集していた。
 書き上げた記録は事件ごとにまとめて幾つかの出版社に売り込んだが、作家が学生であるだけでなく、犯罪をほとんど扱っていないとあっては業界も相手をしなかった。当時の原稿は学生新聞の埋め草として幾つか引き取られたことがある程度だ。わたしは周囲の過小評価に憤る気持ちでオーウェンの活躍を記録し続けた。しかし現在、学生時代のオーウェンの話として知られている作品はそれから十年以上経って、あらためて書き直した原稿である。若かりし頃の文章はあまりひとに読ませたいものではない。けれども熱心なオーウェンの愛好家たちのあいだでは、学内に限って流通した当時の新聞が高額で取り引きされていると聞く。小説としての質よりも、初期の稀少な作品であると云うだけで高い価値が与えられると云うわけだ。長い時間を経ることの重要性が、このことから実感される。
 書けば残るのだ。書きさえすれば。
 わたしが医学校を卒業してからも、わたしはオーウェンと付き合い続けた。ニューヨークの病院に勤めを得たわたしのアパートに、大学を中退したオーウェンは着いてきた。学ぶべきことは学んだからねと彼はとぼけたけれど、指導教授と仲違いした挙句に数々の問題行動を告発され、大学を追放されたとわたしは知っていた。その〝問題行動〟とやらの幾つかを率先して協力したわたしとしては、快く彼を同居人として歓迎した。学生寮の屋根裏部屋はマンハッタンの一室にそっくり移された。一方的に世話になるつもりはないさ、と意気込んでオーウェンはついに探偵事務所を開いたが、看板も出さず、広告も打たず、一般的な調査依頼を拒絶する事務所に現われる依頼人はいなかった。わたしが勤めに出ているあいだ、オーウェンがその事務所で何をしていたのかは知らない。わたしはすでに学生ではなかった。反対に未だ学生気分の抜けないオーウェンは、客の来ない事務所も休業にして、ブライアント・パークの図書館に終日籠もっていたと云う。退屈のあまり薬物に手を出そうとした彼の頬を拍ってから――そんなところまでホームズを真似てどうするのか――わたしは病院の同僚や学生時代の依頼者たちから仕事を紹介し始めた。学生時代のささやかな冒険とは違って深刻である割に生臭いそれらの依頼は、かえってオーウェンの興を削いだらしい。金と情欲に塗れた愛憎は、同時に軽薄でもあった。これがぼくの求めていた緋色の糸か――オーウェンは夜毎、そう嘆いた。仕方がなかったかも知れない。そこはヴィクトリア朝の霧煙るロンドンではなく、けばけばしく排気の匂い立つ新世紀のマンハッタンだった。新米医師としてわたしが多忙だったこともあり――加えて、職場に人生で初めての恋人もできた――この頃の事件でわたしが小説にしたものは極端に少ない。
 状況が変わったのは、一九二八年の冬。わたしが担当していた患者のひとりが、閉ざされた病室内で突然の死を遂げた。状況からして不幸な病変と見なされたそれが、のちに「《靴の中の病院》事件」と知られることになる殺人事件の始まりだった。恋人のヘレンをアパートに招いた夜、わたしがほんの雑談としてその死を話したとき、部屋の隅で聞き耳を立てていたオーウェンは、伝聞だけから患者の症状と死後の診断に矛盾を発見した。
 ――ブレア、きみの専門は生者だ。この疑問に気付かないのにも無理はない。ここからは、そう、人間が死んでからは、ぼくの領分だよ。
 遺体はすでに埋葬され、オーウェンの推理が確かめられることはなかったが、同じベッドに入った患者がすぐに亡くなったとき、わたしは真っ先にオーウェンへ相談した。冒険の再開だ。わたしはオーウェンの指示を受け、埋葬される前に遺体を調べた。法医学研究室に忍び込んだいつかの夜のように。遺体からは毒が検出された。彼に電話をかけた。合い言葉は決めていた。電話口に彼が出るなり、わたしはその言葉を告げた――緋色の糸。病院内に殺人者がいることは、確実となった。
 そこから始まるわたしとオーウェンの捜査は、すでに一冊の小説として上梓している。それはオーウェンの名が警察と世間に知られた最初の事件であり、わたしにとっても作家として最初の一冊となった。当時、広告に載った文言を引用すれば――次々と患者が亡くなる呪いのベッド。近代的な病院で蠢く怪人の影。警察の捜査と、別に動く名探偵、両者の諍いと協力。そして、片方だけ失われた革靴からオーウェンが導く、鮮やかな推理と驚くべき真相――。扇情的な文言は、事件が現実の出来事であることを忘れさせた。かくしてオーウェンは名探偵として、華々しくデビューを飾る。
 ――マンハッタンのシャーロック・ホームズ
 新聞に踊る見出しをさして、オーウェンが満足げに笑ったことを、それが久しぶりに見た友の心からの笑顔だったことを、よく憶えている。けれども一方でわたしは、あの事件と本のことを、あまり思い出したくはない。至らない箇所だらけだった。何より事件はわたしにとって苦い真相だった。オーウェンが犯人として名指したのは、看護師のヘレン――わたしの初めての恋人だった。
 ――わたしを慈愛に満ちた聖母のようだとあなたは云いましたね、アンソニー
 わたしが好きだった、彼女の笑顔を思い出す。次なる殺人――わたしを殺そうとしていたところを取り押さえられた彼女の、蒼白の表情を思い出す。面会の場で彼女が見せた、一種の満足感を覗かせる自嘲めいた笑いを思い出す。それらの顔はいまでも憶えている。彼女はオーウェンがひとつの死に疑問を抱くまで、しばしば病態の急変を装って、患者を殺害してきた。誰にもばれないはずだった。誰も不幸にしないはずだったのだ。
 ――助かる見込もなくゆっくりと死を引きのばされるだけの彼らを、わたしは救っていたのに。あなたがあの探偵なんかを巻きこむから、彼が殺人を確信したから、疑われないために、まったく別の殺人鬼をでっち上げなければならなかった……。
 わたしが彼女を殺人鬼にしたと云うのか?
 面会を終えてのち、わたしの肩をオーウェンが叩いた。――これも記録したまえよ、ブレア。言葉にするんだ。全て吐き出せ。言葉だけが最後に残るのだから。
 ――最後に残れば、それが勝者だ。あの女も、あの事件も、きみが言葉にすれば、その言葉が残る。そうなれば、きみの勝ちだ。
 そうして冬ざれた街路をふたりで歩いたことは、『靴の中の病院』には書いていない。事件までオーウェンディレッタント崩れの情けない生活を送っていたことも、犯人を悟ったときわたしにだけ見せた悔恨の表情も書いていない。わたしはオーウェンの云う通り、無数の死のなかに紛れ、死を死で隠す殺人者を言葉によって打ち倒し、言葉によって残すためにあれを書いた。その中でエドワード・オーウェンは、死の暗い霧を払う勇敢な英雄として描かれた。
 事件をきっかけにわたしは勤め先を辞めた。東海岸一帯の病院を転々とするようになり、一躍有名になったオーウェンの冒険にも付き合えるようになった。彼の冒険を記録した物語は出版社に残らず売れ、読者にも売れ続けた。世界的な不況によって急速に暗がりへ転げ落ちてゆく時勢にあって、わたしたちはむしろひとつの黄金時代を迎えたのだ。オーウェンの活躍譚としていまも名高く評判が良い作品は、ほとんどこの時期に集中している。ニューヨークの摩天楼で起きた、窓の外に犯人が飛んでいったとしか思えない密室殺人。シカゴの高架鉄道で透明人間のような殺人者に次々と襲われる通勤客。ボストンで起きた事件では、痴情の縺れの産物に見える女性の死体がベッドに寝転がっていた――ただし、百貨店の家具売り場で。市庁舎のオフィスの内装が何もかも壁側に向けられ、床の中央に衣服が裏返しになった死体が現われた事件などは、オーウェンは押しつけがましいまでの珍奇な状況に鼻白んでいたが、わたしはとくにお気に入りの一件である。いずれもホームズ譚とは対照的に、グロテスクなイメージに欠ける近代的な舞台の殺人劇だが、かえってそれがオーウェンを、新たな時代のホームズであらしめた――マンハッタンから飛び出した、〝ニューイングランドシャーロック・ホームズ〟として。虫眼鏡片手に現場を這いずり回る泥臭さとは無縁の、理詰めで犯人を追い詰める、新時代の名探偵。彼の手に掛かれば被害者の腕に巻かれた時計から犯人のアリバイを破り、現場から持ち去られた薬の壜から予想だにしない人物を告発した。些細な手がかりから引き出された緋色の糸から、蜘蛛の巣のように事件全体に張りめぐらされた因果の糸を解きほぐす。実に論理的だ、と捜査を共にしたある刑事は感嘆した。悪魔的なまでに……。その言葉を受けて頬笑むオーウェン……。
 ――きみの小説でのぼくは、いやに気障ったらしいね。
 ハーバード大での講演を終え、名探偵の〝実演〟としてセールスマン絡みの事件を解決してみせたオーウェンは、その晩に宿でわたしを詰った。お陰で慣れない振る舞いを期待される羽目になった、と冗談めかしながらも責める。なんだい、悪魔的な笑いって。学生時代のきみはあんな気取り屋に映っていたよ、とわたしは云い返した。小説として書くために、多少の誇張は含んでいるけれどね。オーウェン吹き出した。
 ――きみはぼくの、何を見てきたと云うんだ?
 わたしは思った。
 全てを。
 もちろん口にはしなかった。代わりにわたしは肩を竦めて、気障っぽい名探偵が失恋を経て、大人しくなる物語でも書こうか、と提案した。彼は唇を歪めて拒絶した。
 結果的にその提案は一年ほどのちに実現する。舞台は東海岸から離れて西の町の湖畔、一九三二年の事件だったが、オーウェン自身に発表を許されるまで十年近くかかった。長い時を経てようやく発表した際、読者から何通かの抗議を受け取ったことが物語の性質を表している。オーウェンがそんな女を愛するなんて、とそれらは失望していた。なるほど彼女の職業だけ見れば特異だったろう。その女性の名は、作中では仮にアリスとした。本名を記すのは止す。サーカスの象使いの娘だった。
 ――アリスと云ったか。彼女は賢いよ、きみ以上にね。ともすると、ぼく以上に。
 サーカスの興業中にステージの裏で転がった絞殺死体、そして数千人の観客と云う容疑者を前にして、オーウェンが最初に述べた感想はそれだけだった。初対面の人間をオーウェンが褒めることは珍しい。最初は云っていることの意味がわからず、犯人であることを遠回しに伝えているのかとさえ思った。
 アリスは仄かに赤みがかったブロンドの、サーカスの道化師姿を愛らしく仕立て直した衣装も相俟って派手な印象を与える女だったが、その顔かたちをよく見れば、華奢な骨格に丸みを帯びた頬と色の薄い肌にぽつりと乗せられたような両の瞳が、思索に耽る深窓の令嬢を思わせて神秘的だった。その眼で見つめられると、心の奥を指でつつかれるような落ち着きのなさを感じ、それでいて、そのまま身を委ねて彼女の掌に心を預けてしまっても良いような気がした。わたしは初対面で抱いたその印象を数秒してすぐになくしたが、オーウェンは心掴まれて離れられなくなったのかも知れない。
 ――彼女は象を愛している。人間の代わりではなく、象と云う動物として。人間以外を心から愛することができるひとを初めて見たよ。
 彼の口から愛が語られるのは、いかなるかたちであれそれが初めてだったように思う。オーウェンに安っぽい動物愛護精神を発揮させないでくれ、と訴える読者からの苦情は的外れと云うほかない。象を愛していたのはアリスであって、オーウェンが惹かれたのは象を愛していたアリスである。惹かれたと云う表現も完璧とは云えないだろう。そこにある感情が恋愛に準ずるものだったかさえ定かでない。しかしどうであれ彼は事件の捜査もおざなりにして、小さな町で殺人の噂が破裂しそうなほど膨らみ上がった数日間、アリスの語る象の話に耳を傾けていた。トラックに乗せられた獣臭い檻と檻のあいだを縫うように歩くふたりにどのような交流が生まれたのか、わたしは知らない。褒められたことではないと思いながらも記録のために会話を立ち聞きしていたが、内容は象に終始していた。ふたりのあいだにだけ成立する了解があったとしか考えられない。直截訊ねたこともあった。
 ――人間たちから緋色の糸を引き抜き続けているとね、倦んでくるよ。
 彼は自嘲めかして云った。だから動物に癒されるのか、とさらに訊くとかぶりを振る。オーウェンは言葉を選びながら、時間をかけて返事した。
 ――ぼくは彼女の眼差しに感心したのさ、人間を織物とみなして、繊維にほどいていくこととは対照的な、生物をひとつの総体とみなし、ひっくるめて愛する……、そう云うものの見方だよ。
 ひとしきり説明してから、彼はまたかぶりを振った。――きみに話しても詮ないことさ。ぼくも少しばかり疲れたんだろうと思う。事件が解決したら休むよ。
 それから続けざまに、殺人者をあっさりと指摘した。
 その翌朝が、町で過ごした最後となった。前日のうちにオーウェンがサーカスの座長と地元警察に結論を伝え、夜が明ける頃には絞首台が完成していた。何十年も昔に建築機材として使われたきり、町外れの操車場で朽ちるのを待つばかりだったクレーン搭載の車輌を汽車が引っ張ってきて、象の檻も近くまで運ばれた。本日限りのショーでございます、と座長は集まった市民へ声高に挨拶した。お客様のなかに殺人者がひとりとしていなかったことを喜ばねばなりません。
 ――皆様を巻き込んで町を騒がせた殺人を犯したのは、驚くなかれ、こちらの象だったのです。それでは名探偵のオーウェン氏より、解決への経緯を説明していただきましょう。
 オーウェンの説明は手短だった。いつもの長たらしい前置きも、厳密な条件の確認もなく、状況からして殺せるのは象だけだった、と結論まで飛躍した。舞台裏に忍び込んだモーリス氏の大きなネクタイを、象の鼻が引っ張ったのです。馬鹿げた結論に聴衆は戸惑い、やがて哄笑を経由して、象への嫌悪と畏れに落ち着いた。殺人者は裁かれなければならない、と高らかに座長が宣言して、象は首に太い縄を巻き上げられ、クレーンで引き摺られるように吊られた。処刑の実行は洗練とはほど遠く、縄は三回巻き直される羽目になった。一連の見世物をわたしは見届けた。アリスはその場にいなかった。オーウェンもいつの間にか姿を消していて、わたしは辺りを捜した。ホテルまで戻ると彼はベッドに横たわっていた。窓の向こうには象を吊すために首を高く伸ばしたクレーンが見えた。動物園でなくサーカスで事件が起きたのが不味かった、とオーウェンは呟いた。――最初から騒ぎになりすぎたし、座長も町の連中も進んで騒ぎ立てた。事件は事故に過ぎないんだ。けれども象を犯人として、吊し上げなければならなかった……。アリスは、と訊ねると、もう会わないだろう、と返された。あとで彼女はサーカスを辞めたと知った。わたしたちが町を離れる列車のひとつ前、西を目指す列車に乗ったと云う。
 それからいまに至るまで、わたしはアリスを二度と見ていない。
 彼女を追いかけたわけではないが、オーウェンとわたしはそれ以来、より西の方角――合衆国全土に出向くことが多くなった。〝ニューイングランドシャーロック・ホームズ〟はさらに〝アメリカのシャーロック・ホームズ〟になったのだ。
 一九三〇年代は暗い時代だった。長い不況は出口が見えず、住まいを奪われた家族が大陸をさまよい、ヨーロッパの縺れ合う緊張の糸がしばしば新聞で報じられた。オーウェンからはかつてのような奇妙な謎への興味や好奇心、眩しいまでの才気が薄れつつあり、いつかの高架鉄道や市庁舎のような事件には見向きもしなくなった。彼は自らの手繰るべき緋色の糸をその手に掴んで確かめるようにして、かつては忌避した生臭い事件へ積極的に、じっくり取り組んだ。真相を明かすに留まらず、裁判にまで関わったことも何度かある。近年のオーウェンの活躍には人間的な深みが窺える、と云ってどこかの書評家が知ったような口をきいた。わたしにはむしろオーウェンと云う名探偵が、ただの市民へと矮小化されてゆく恐怖を覚えた。わたしがハリウッドの仕事を引き受けたことには、その恐れを乗り越える意図もある。それに加え、オーウェンの活躍の記録は記録として、徐々に書かれる頻度が落ちていたそれとは別にわたしはオーウェンを――とりわけ学生時代のようなオーウェンを――主役に据える、オリジナルの探偵小説も書くようになっていた。不況の煽りを受けるのは誰でも同じであり、医者の雇用もなかった時期に糊塗のため書いたことがきっかけだ。それが思いのほか読者に受け容れられ、オーウェンからも――興味がなさそうであったが――許可を得てからは、わたしは専業の小説家となった。合衆国を股にかけるためにもいつか必要な選択ではあったのだ。オーウェンの大陸全土に渡る活躍も相俟って、ペーパーバックは飛ぶように売れた。軽率な仕事をしている自覚はあった。それでも、あの頃のオーウェン、出会った頃のオーウェンを書くことは楽しかった。
 やがてわたしは映画やラジオドラマの脚本も引き受けるようになり、ついにハリウッドへ拠点を移す。オーウェンは夜毎タイプライターを打鍵するわたしを呆れたような眼で見つめながらも、関係を拒絶することはなく、わたしに連れ添って西海岸へ移住した。華々しい世界の裏にある暗部に興味を引かれたのかも知れない。けれども何より、もうわたしたちは互いに離れることを想像できなくなっていたのだと思う。わたしが小説家として有名でいるためには彼が必要であったし、彼が名探偵として信頼されるためにはわたしの記録が不可欠だった。彼はわたしの生み出すオーウェン像を、意識的になぞりながら、同時に突き放そうとした。二律背反に絡めとられそうになりながら、その不満をオーウェンはわたしに向けた。
 ――ぼくが存在しなければ、きみはいまここにいないだろうに。
 そう云われるたび、わたしは頬笑んでこう思った。
 わたしが書かなければ、きみは存在さえしないんだよ、エドワード。
 もちろんそんな会話はあり得なかった。彼を名前で呼んだこともない。
 出した結論が正反対だったとしても、わたしもオーウェンも当時、次に進むべき道をそれぞれに悩んでいたのだと思う。オーウェンにとっての進むべき道を――あるいは、ひとつの行き止まりを決定づけたのは、《重ねられた緋文字》とわたしが名付けた事件だ。町の名誉のためにその地名は伏せるが、伝統と自然が生き残る、古き良き移住者たちの町だとかつてわたしは描写している。季節は秋。町の広場に植えられた楓の燃え立つような赤がわたしたちを迎えた。時は一九三九年。様々なものが終わりへ向けて動き出していた。
 その事件もまた、終わりかけていた。事件はひとりの死者を出すだけで幕を閉じるはずだった。そもそも事件にすらならなかっただろう。殺人の連鎖が始まったのは、オーウェンがやって来てしまったからだ。ハーバード大でわたしたちの同級生――とは云え、彼とオーウェンのあいだに交流はなかったが――だった、自身の故郷であるその町で医者をしていた男がわたしを通じてオーウェンに、名士の急逝について調べるよう依頼したことがきっかけだった。重い事件を休みなく幾つも片付けて神経を磨り減らしていたオーウェンは養生も兼ねて町を訪れた。テレビやラジオ、小説のなかの存在である名探偵の来訪に町は沸いた。わたしの友人だった医者が殺されたとき、列車が町に着いてから半日も経っていなかった。まるでオーウェンの到着を待っていたかのように――事実、殺人者は彼を待っていたのだ。殺人現場に記された被害者の血による赤い文字が、連続殺人事件の幕開けを告げていた。
 ――血は何のために流された血か?
 町に生き残っていたのは十八世紀からの伝統と豊かな自然だけではない。二百年に近い短くも濃い歴史のなかでは、前近代的な迷信も、血と噂で結びつけられた共同体も過去の遺物になってはいなかった。オーウェンは小さな町の複雑な力学に翻弄されながら、やがて彼もそのなかに組み入れられてしまったことを知る。ほとんどが町の住民で構成された検死審問は法の制度が事態を秩序立てるどころか、事件の展開をいっそう混乱させた。わたしは記録者として以前にオーウェンの助手として、事件の整理に努めたが、明らかになった利害関係をひっくり返すように新たな事件が起きた。何のために真実を明かそうとしているのか、もうぼくにはわからなくなったよ、とオーウェンは嘆いた。けれどね、と続ける。
 ――もう二度と、象を吊し上げたくないんだよ、ブレア。
 彼の悲壮な決意を裏切るように、真相は単純なものだった。全ては滑稽でさえある。しかし矛盾するようだが、ここにその真相を十全に記述することは不可能だ。関わっている人間が多すぎた。最後に殺人者として告発された人間だけでも五人。偽装や偽証を含めれば十人が犯罪者として裁かれることになった。
 不条理なことに、彼らは誰も複数人を殺害していない。各々がひとりだけを殺し、それまでの死の連鎖に加えていったのだ。単なる便乗であることもあれば、家族が殺された復讐であることもあったが、いずれにせよ、犯人たちは示し合わせることなくそれぞれの利となるように行動し、連続殺人鬼を仕立て上げた。警察の捜査や検死審問の展開、あるいはオーウェンの推理が次の殺人を導き、わたしの記録による整理が彼らの背中を押した。自分や親しい人間に容疑を向けられたくない者が証拠や証言を偽った。ひとつひとつの犯罪を詳らかにするオーウェンの解説は煩雑に過ぎ、傍で聞いていたわたしでさえ、小説として構成し直す際に何らかの誤解やミスが生じて版を重ねるたびに修正している。
 講堂で殺人者たちを前に長々と告発するオーウェンには、十数年前の華々しさはなく、象の事件のような投げやりな態度もなく、近年のしめやかな雰囲気もなく、ひたすら強い怒りだけがあった。
 ――そもそもぼくも、ここで告発する資格なんてありはしないんだ。
 オーウェンは自分を責めるように云った。彼はある意味で、事件の引き金だった。彼が町を訪れた理由である名士の死は、何ら人為的なものではなかったのだ。オーウェンの小説のファンだった殺人者のひとりが、医者をまったく私的な理由で殺した。それが最初だ。名士の死に疑いを持っていた医者を、名探偵が訪ねるタイミングで殺害すれば、本来の動機を隠すことができる。オーウェンは自身の存在によって自身を錯覚させられたのだ。その後もオーウェンの介入が、新たな殺人への布石となった。自分を利用した犯人への怒りは、利用された自分への怒りでもある。
 長い、長い、大伽藍のような推理を、オーウェンはこう云って締めくくった。
 ――最後に、ぼくをきみたち犯人に加えさせてくれよ。
 この事件のあとオーウェンは、探偵であることを〝引退〟する。個人、組織を問わず依頼を退け、警察からの助力の要請さえ拒み、ボストンの生家に帰った。シャーロック・ホームズであることに耐えられなくなった、と彼は云った。どれだけ事件の第三者を気取ろうと、探偵役を買って出た時点で純然たる観察者であることはあり得ない。彼はアメリカのシャーロック・ホームズであり続けることの責任を、もう負いたがらなかった。
 彼はわたしの許を離れてゆく。
 ――きみに物語にされることにも、厭気が差したんだ。現実のぼくはフィクションじゃない。だのにいつの間にか、フィクションのなかのぼくが現実のぼくを煩わせ始めた。あの気障ったらしい過去の亡霊を背負わされるのはもう勘弁だ。ぼくがエドワード・オーウェンとして事件に関われば、死ぬ必要のないひとが死ぬ。吊される必要のない者が吊される。傷つく必要のないひとが傷つく。
 彼は自分の言葉で自分を傷つけ、追い詰めているようだった。
 ――ねえ、ブレア、人間は因果の糸の綾織りなんかじゃない。彼らはみんな、生きているんだよ。
 引き留めようとするわたしに彼はまくし立てた。
 ――きみがぼくをモデルにした小説を書くことは辞めさせるつもりはないよ、きみも活計が必要だろうからね。そう、きみも生きているんだ。そして、ぼくも生きている。ぼくはずっと、自分で自分をばらばらにしているような気がしてならなかったよ。しかしね、しかしだよ、ブレア……
 きみもまた書くことの責任から逃れられはしないんだ、とオーウェンはほくそ笑んだ。――『これは何のために流された血』だったかな? 皮肉だね。あれはきみが書いた病院の小説の、きみが書き直した結末の、終わりの終わりに出てきた一節さ。忘れたとは云わせないぜ。
 わたしは言葉もなかった。非難を甘んじて受け止めながら、列車に乗る彼を見送ったわたしの顔は、ひどく醜いものだったに違いない。哀しさか、怒りか、悔しさか、そのとき何がわたしの胸に去来したのか、未だに分析することができない。
 わたしはどこかで間違えたのだろうか?
 わたしはわたし自身を語ることが苦手であることを、それで思い知った。だからわたしはこの場面も小説に書かなかった。オーウェンの物語を書き続けるためにも、書くことができなかったと云う面もある。結末が書き換えられた『重ねられた緋文字』はよく売れた。しかしオーウェンものならなんでも売れたのだ。長年のファンだと云う書評家は、こんなにもひどい仕打ちを受けたオーウェンが挫折することなく次の物語に顔を見せてくれるかどうか憂えた。その書評の見出しにはこうある。
 ――これは袋小路への道標だ!
 書評家の言など笑い飛ばせば良いと付き合いのある編集者が励まして来たが、わたしは笑うことができなかった。その通り。彼は袋小路に嵌まってしまったのだ。その袋小路まで追い込んだ人間には、わたしも含まれている。
 読者の不安を晴らすためと云いながら、わたしはオーウェンを書き続けた。もう陰鬱な作品は書かなかった。オーウェンは必要以上に気障ったらしく、過剰なまでに華々しく、決して歳を取ることがないまま、論理の申し子として紙面で躍り、フィルムを駆け抜け、ラジオで高らかに謳った。
 折しも世界大戦の火蓋が切って落とされた頃だ。アメリカも間もなく参戦し、ドラマの脚本に要請されることが言外の条件を含めて増え出して、わたしはそれらのどんな注文にもオーウェンを従わせた。フィクションのなかのオーウェンは下書き、脚本、演出、フィルム、次々と媒体を挟むことでオーウェンではなくなってゆき、だから思い切って自由にオーウェンを書くことができた。映画でオーウェンを演じる俳優はエドワードの知性を感じさせないただ目鼻立ちが整っているだけの退屈な男だった。ラジオの声優は抜けるように快く響く声の持ち主だったが、消え入るような語尾が耽美ではあるものの明瞭でない。いずれも本物のオーウェンではなく、彼らにロマンスの興趣溢れた恋をさせても、日本やドイツの国民を嘲笑わせても、わたしは心が痛まなかった。それはもはやオーウェンと云う英雄が表象されているだけの物語であって、わたしの物語ではなかったからだ。
 戦争のあいだ、わたしは可能な限り忙しく働きながら、隠遁したオーウェンのように自分自身を消し去り、一方でオーウェンと云う存在をフィクションのうちに残そうとした。映画やラジオドラマにあたってはわたしの役を、若くて美しく、物語の進行を阻まない程度に聡明――であると同時に、オーウェンよりも賢くはなく、場合によっては観客や聴取者よりも愚かな――〝都合の良い〟女性に設定した。ヘレンやアリスと似ても似つかない彼女はオーウェンと甘やかなラブロマンスから賑やかなコメディまで繰り広げる。放送局やスタジオの制作者たちは進んでその提案を採用した。あなたは賢すぎますからね、とお世辞混じりに云ったのは、ハリウッドのどこかの助監督だったか。そうしてわたしはわたしを消した。もとよりラジオや映画では、記述する者は存在し得ない。
 わたしが仕事に殺されているあいだ、オーウェンとは何度か手紙のやり取りをした。彼から届いた一通目には暗い調子で近況が綴られ、図書館で本を読み耽ると云ういつかと同じような静かな毎日の報告に、とても静かとは云えない戦況への不安と怒りが散りばめられていた。ぼくよりも若い青年たちがたくさん死んでいるよ、と彼は、まるで驚くべき手がかりを発見したかのようにインクを滲ませて書く。
 ――映画館ではぼくではないぼくが殺人犯を追いかけていた。かなり脚色されているが、あれはシカゴのループの事件だったね。ぼくがあの犯人を捕まえたところで、どれだけの命を救えたか疑問だ。あの透明人間氏が決まって狙った若者は、あそこで命を落とさなくても、南洋でいまにも死んでいるのかも知れない。
 ヨーロッパでは酷たらしい殺戮が繰り広げられていると聞く。アメリカでさえ、日系人を収容所に押し込んでいる。オーウェンが探偵として目の前の死を云々したところで、戦争を前にすれば何の意味があるだろう。わたしはオーウェンの不安が理解できた。しかし、とわたしは返事で書いた。しかし、ひとはいつか死んでしまう。わたしたちは常に黒々とした死の影に覆われていて、だからこそ、目の前の死を分析して解きほぐしてゆく探偵が必要なんじゃないか。
 きみにはシャーロック・ホームズでいてもらいたかったよ。
 そう書いた最後の一行だけを削除して、わたしは手紙を速達で送った。彼がオーウェンものの映画を見てくれたことが嬉しかった。それを嫌う素振りを見せていないことはさらに喜ばしいことだった。わたしや読者にとってだけでなく、彼にとっても、あの頃の冒険の数々は、輝かしい記憶であるのに違いない。
 手紙の往復は半年に一度届くかどうかのペースでゆっくりと続いた。どちらからともなくわたしたちはいまを語ることをやめ、学生時代の消灯を過ぎた夜中のように薬や病を巡る解剖学的な考察を展開し、探偵小説の文学的主題を論じた。それが懐かしいあまりに学生時代を回想し、どうしていままで語っていなかったのか不思議なことだが、出会う前、ふたりとも少年だった頃のことにまで話は及んだ。オーウェンは家の庭について、いまとなっては世話をする者もない雑草生い茂る廃園の在りし日を瑞々しく語った。
 ――犬を飼っていたんだ。ゴールデンレトリバーの、名前は《ホームズ》。父親が名付けたんだ。オリヴァー・ウェンデル・ホームズに因むから、シャーロック・ホームズのことではないよ。
 けれどもオーウェンコナン・ドイルの小説を書店で見たとき、犬の名の由来はシャーロックの方だと思い込んだ。それがきっかけだ。いままで話してこなかった理由がわかるだろう、と書くオーウェンの筆致は穏やかだった。犬のホームズが死んだとき、オーウェンはホームズを生き返らせようと思った。小説のホームズのように。自分にはそれができると思った。
 ――そして、ぼくはホームズになったと云うわけだ。
 理屈になっていなかった。だからこそ、わたしには信じられた。彼の神がかった推理の根源にあるものが、そのような連想と符合であることに、わたしはむしろ納得した。同時に、だからこそ袋小路に陥ったのだ、とも。
 アメリカがかつてない規模の兵器を日本にふたつ落とした夏、手紙は途切れた。最後の手紙に彼はこう書いた。叫ぶように荒れた筆致だった。
 ――われわれに生き残るべき資格はあるか?
 ある、とわたしは信じたかった。われわれは生き残ってしまったのだ。
 わたしにはするべき仕事があった。自分と自分のなかのオーウェンを磨り減らすようにして物語を量産する仕事は、プロパガンダとして撃つべき相手が枢軸国から共産主義体勢に変わったとき、ここには果てがないと察して逃亡した。どれだけ人気であろうと、三年も同じラジオドラマを続けていればアイディアも文章も質が落ちてゆく。機械的に作品をでっち上げる中で、自分の感覚が変調を来していることに気が付いた。眼前のオーウェンがなんとも醜悪な男に見えたとき、これが引き際だと悟った。ハリウッドを離れ、ニューヨークの出版社で書下ろしの長篇の契約を取り付けた。何を書くつもりだい、と訊ねられ、わたしは不敵に答えた。
 オーウェン最後の事件だよ。
 そう、いい加減、引き際だった。
 題材は探すまでもない。一九四九年のニューヨーク、マンハッタンでは、ある殺人事件が話題になっていた。新聞の見出しで《赤の女王》と名付けられたその由来は、被害者が揃って赤色の紐で絞め殺されていたからだと云う。逆に云えばその一点以外、ニューヨークと云う大きな括りの中で三つの絞殺を結びつけるものはなかった。被害者の性別や年齢、身分、人種もバラバラで、殺害された場所や日時にも共通点がない。けれども三人の死者の首に巻き付いているのは、揃って赤色なのだ。恐怖をいたずらに煽る特集記事を読みながら、それはむしろ緋色なのではないか、とわたしは思った。
 懐かしい男と出会ったのも、その頃のことだ。オーウェンとの冒険を通じて知り合った刑事たちから、ニューヨーク市警に腕利きの警部が着任したことをわたしは聞かされていた。長いあいだフランスに在住し、戦前はパリ警視庁でその名を轟かせたと云う彼は、あのハンバート・クィンだった。ナチス・ドイツ占領下のパリも果敢に生き抜いた彼は故郷に戻り、新たな活躍の場を見つけたと云うわけだ。わたしとクィンは学生時代も交流がほとんどなく、顔を合わせたのは例のチェスの一試合くらいだったが、大西洋を挟んであの時のようにオーウェンと鏡映しの探偵遍歴を見せた彼をわたしが市警まで訪ねたとき、彼もわたしのことを憶えていた。
 ――きみたちが大学でおかしなことをしているのも、その後本当に小説のような探偵となったことも聞いていたよ。忘れるわけがないだろう。
 と云ってクィンは樽のように膨らんだ腹を叩いた。デスクで指示を飛ばすばかりの日々だと太ってしまっていけないね、と彼は胴間声で笑う。オーウェンとは対照的に、彼は捜査者として随分と幸せな道を辿っていたらしい。オーウェンはどうしている、きみの小説が本当なら、まだ元気にやっているようじゃないか――。屈託もなさそうに訊ねる彼に、わたしはその場ではぐらかした。わたし自身も、オーウェンが何をしているのか、ひと伝手にしか聞いていなかった。オーウェンはいっそう頑なに、屋敷で引き籠もっているらしい――、それが真実だとしても、軽率に話せることではない。
 しかし《赤の女王》の事件は、オーウェンを引き摺り出すのにこれ以上ない事件だ。わたしがするべき仕事――書くべき〝最後の事件〟は、もう一度だけ彼と向き合うための小説でもあった。緋色の紐で絞め殺された人間が三人となってから十日後、四人目の犠牲者は誰か、と云う煽りとともに新聞が《赤の女王》を取り上げ、警察がついに何らかの動きを示さざるを得なくなり、クィンがオーウェンへの仲介を求めてわたしの許を訪れたとき、だからわたしは覚悟して全てを語った。これから彼にもう一度だけ探偵になってもらおう、と云う提案と共に。クィンは複雑な表情をしながら耳を傾けたが、最後のわたしの提案には賛同した。自分からライヘンバッハの滝に飛びこんだ探偵を、わたしたちで引き上げてやろう、と彼は頷いてわたしの手を取った。ここにオーウェンを求めている人間がいる。そう実感したとき、最後の手紙の叫びを思い出した。
 ――生き残るべき資格はあるか?
 あるのだ、友よ。きみは探偵なのだから。
 オーウェンの住む家はボストンの中心部、コモンの公園を近くに臨む、彼の話していた通りゆったりと広い裏庭を有する邸宅だった。くすんだ煉瓦塀に囲まれて侵入を拒み、棄て置かれたような木々が野放図に繁っている。公共の場であるコモンの庭と対照的に、個人の勝手が通る空間だった。訪ねたときオーウェンは留守だったが、どこにいるのかは見当がついた。バック・ベイの公共図書館。閲覧室で雑多な――しかし細く緋色の線で関連する――本に埋もれた男が見つかった。数年間合わせなかった顔には皺が彫り込まれて幾分老けて見えたが、青く澄んだ瞳は変わらない知性を感じさせた。声をかけたわたしに、オーウェンはまるで一日ぶりに会う友人に云うような脈絡のなさで、少し歩こう、と云った。話はそこで聞く、と。
 ――クィンか。
 オーウェンもあのチェスを憶えていた。懐かしい名前だ、と眼を細める。依頼について話そうとしたわたしを彼は制した。――《赤の女王》とやらのことだろう。ボストンの中心部を渡る緑の街路、その木々の隙間からちらちらと注ぐ夏の陽を浴びて歩きながら、オーウェンは傍の川を見るばかりでこちらに顔を向けない。
 ――関わりたくないね。
 すげない拒絶だった。
 ――そもそも新聞が盛り上げているだけだ、連続殺人かどうかもわからない。同じような失敗を繰り返すつもりはないんだ。クィンはきっと優秀な捜査官なんだろう。彼に任せておけばいいさ。素人が出る幕じゃない。
 ぼくを主役にしたいのなら許可は要らないよ、クィンたちを最後にひとりの探偵として置き換えれば済む話さ――オーウェンの道化たもの云いが嘆かわしかった。二十年前の彼は刑事から素人と云われると口角を上げて、諮問探偵と云う職業がまだ世にないだけですよ、と反論したものだ。警察の官僚機構を手厳しく非難しては、彼らは所詮ぼくの頭脳の手脚に過ぎないと不遜な表情を浮べていた日々がもう遠い。
 事件の方からきみを呼んでいるとしてもか、とわたしは彼の背中に向かって云った。凶器に使われた紐は緋色だ。犯人はきみの物語を読んで、緋色の糸を用いることできみを挑発していると考えられないか――報道を眼に入れたときから、考えていた仮説だった。オーウェンは呆れたように吐息する。
 ――それが真実だとして、なおさらぼくは関わるべきじゃないだろう。ぼくは客観的な捜査者になることができないじゃないか。
 ならなくてもいい、とわたしは云った。これはチェスゲームだ。きみが盤面の一方に座るんだよ、オーウェン。客観的な観察者であることはあり得ずとも、ひとりのプレイヤーになることはできるはずだ。
 ――そうやって生きているものを駒のように扱うのか? 人間を論理に絡めとって、因果のなかに引き裂いて? 云ったはずだ、ぼくはそんな責任を取りたくない。
 きみにはそれができる。きみにはできたはずだ。きみにしかできないことだ。
 ――ぼくは小説のキャラクターじゃない。生きているんだ。
 わかっている。けれどね、オーウェン――わたしは声を荒げた。死者たちもまた、生きていたんだ。通りかかったひとびとが戸惑いと好奇の眼を向けてくる。構わなかった。
 《赤の女王》の最初の被害者は二十歳の若い女だ。大学で史学を専攻しながら小説も書いていたらしい。アパートの机には書きかけの原稿がタイプライターに挟まっているままだったそうだ。大学と図書館とアパートで完結した世界で想像と知性を育んでいる娘だよ、オーウェン。わたしたちの若い頃と同じだ。わたしたちは彼女のような子供を持っていてもおかしくない。彼女は論文も創作も、何ひとつ満足に完成させられないまま殺されたんだよ。ふたり目はハーレムの黒人だ。南北戦争の頃から生きているようなアメリカの生き証人、積み重ねたその年齢が自ずと相手に敬意を持たせる、誰からも好かれた男の最期としては、あまりに理不尽じゃないか。町では憎悪と興奮が渦巻いているよ。
 ひと息に喋る。声が真剣に聞こえることを祈りながら。
 彼の三人目の犠牲者は、日系二世の少年だった。家族ごと収容されていたマンザナールからようやく解放されて、新天地で生き始めようとしていたところだったんだ。アメリカが彼にあんな仕打ちをしてもなお、彼はアメリカが祖国だと云っていたんだぞ。オーウェンオーウェン、きみが事件に関わろうとしないなら、解決のために動こうとしないならそれでも構わない。しかし、きみにはそれができることを忘れるな。
 ――わざわざ説明されなくても、知っているさ。ニュースは見ているんだ。
 なら、立て。いや、安楽椅子に座っていてもいい。知恵を貸すんだ。
 ――事件かもわからないうちから、なぜそこまで頼る?
 もう前回の事件から半月経つ。次の犠牲者が近い。誰かが死ぬんだよ。
 オーウェンは足を止めた。首だけをこちらに向ける。木々が風に吹かれるたび、隙間から差す陽が複雑に揺れて彼の顔を撫でた。醒めた顔だった。彼は瞼を閉じ、あたりの音や声に耳を澄ませるようだった。
 ――ロウアー・マンハッタンだ。そこの中国系か、ヒスパニック。
 え?
 ――人種も場所もバラバラだ。バラバラすぎる。だから、次に事件が起きるとしたら、そう云う組み合わせになるんじゃないかと思う。
 早口でそう云って、彼は立ち去った。
 一週間後、ロウアー・イースト・サイドのチャイナタウンで壮年の女性が緋色のベルトで殺される。
 ふたたびボストンまで訪ねてきたわたしを、オーウェンは拒絶しなかった。
 オーウェンの自宅は学生時代の寮を拡張したように書籍と蒐集品に溢れていたが、あの頃の雑然として無頓着な印象はなく、全ては壁一面を埋める硝子棚や何列も並んで床を占める書架に整然と収められていた。掃除の行き届いた部屋は紙とインクの匂いに満ちているものの塵っぽくはなく、わたしはつい、深く呼吸した。
 ――日本人と中国人はアジア系として括っているものだと思ったが……、民族ごとに細かく分けているのか。あるいはチャイナタウンで殺したからたまたま中国系だっただけか? 問題は場所か?
 オーウェンはぶつぶつと呟きながらわたしを家の最も奥まで案内し、庭に臨んだ部屋でおそらくそこが所定の位置なのだろうクッションがくたびれた椅子に膝を立てて座った。今度は反対に押し黙り、煙草を何本も吹かし始める。灰皿に吸殻を輻のように並べる癖は変わっていなかった。協力してくれるのか、とわたしは確認した。捜査に関わるわけじゃない、と彼は云った。
 ――素人にできることは高が知れている。象退治の英雄として祭り上げられるのも勘弁してほしい。ぼくは新聞を読んだ素人が事件の真相について空想を逞しくするように、ここで情報を得て推理する。さしずめ盤面の指揮者だ。ぼくにはそれができるときみは云ったな。やってみせようじゃないか。その代わり、きみはぼくの手脚になれ。いままで散々、きみは読者の眼としてぼくを見てきたじゃないか。今度はきみがぼくの眼の代わりだ。
 苦笑を堪えられなかった。彼の云うのは最近わたしが書いた、病気に臥せって動けないオーウェンの指示のもとわたしが捜査をする短篇と似たような話だった。
 ――ぼくが関わっていることはクィンたち以外には、可能な限り伏せて欲しい。ぼくは最初から関わっていないようなふりをしてくれ。犯人がぼくを挑発していたとして、それに載ってやる必要はない。一方的に犯人からの情報を得てやろう。
 まるで犯人がひとりだけのようなもの云いに、わたしは疑問を持った。便乗殺人や模倣殺人の可能性はないのか。
 ――紐は赤と云うには暗い、緋色が使われていることを警察は漏らしていない。それに、きみが先日送りつけてきた資料によれば、絞め殺した犯人の体格は似たような者らしいじゃないか。利き手もおそらく左。生憎と左利きの中背は、ニューヨークにごまんといるだろうけどね。
 それから問答が続いた。懐かしい感覚だった。飛躍する彼の思考に、わたしが横槍を入れて細部を検討する。そうして明らかになった細部から、星座のように点と点を結びつけ、オーウェンが新たな飛躍を示す。これまで寮の一室で、アパートのダイニングで、列車のコンパートメントで、ホテルの寝室で、幾度となく繰り返された会話。何らかの連鎖、死のなかに死を隠す意図、純然たる偶然、場所と被害者の属性から浮かび上がるメッセージ――様々に仮説を挙げては検討し、議論は夜更けまで及んだ。冲天した月が廃園をくまなく照らす頃、ルールの特定を優先することに議論は落ち着いた。犯人が辿っている糸を見つけよう、とオーウェンは云った。
 ――奴が握っている緋色の糸を、逆からたぐり寄せてやるのさ。
 そうしてルールの検討が始まって、ひと段落着いたときには夜が明けていた。
 ――犯人は被害者を無作為に選んでいるはずがない。相手は自然現象じゃない、人間の意志ある行動なんだ。場合によっては本人も自覚していない法則があるはずだ。いまのところは……、全てがバラバラ、と云うこと以外にわからないが。
 わたしが去る間際、オーウェンは伸びた髭を左手で撫でながら云った。首を傾げ、困惑しきりの様子で、次の殺人を推測する。
 ――法則がないことが法則なのだとすれば、次はいままで被害者が出ていない地区だ。絞り込めないがね。けれども、ニューヨークの多様な人種を全て殺すつもりなら、次こそヒスパニックが狙われる蓋然性が高いだろう。
 次の殺人は間を置かずに十日後、再びロウアー・マンハッタンの、今度こそヒスパニックだった。オーウェンは、土地は偏っていて構わないのか、と頻りに首を捻った。ニューヨークの幾つかの地図を引っ張り出し、机に貼ってピンを刺してゆく。ピンとピンのあいだに糸を張って、歪な五角形を作る。糸を張り替え、今度は星。三角の組み合わせ。四角のヴァリエーション。それからオーウェンは苦しい表情を浮べ、けれども不安を振り払うようにかぶりを二度三度と振って、手を拍った。
 ――よし。始めよう。
 いまやその存在が確かなものとなった《赤の女王》とオーウェンの対決は、そのようにして幕を開けた。
 わたしは進んで彼の眼となり、耳となり、手脚となった。クィンを介して捜査機密を得てはオーウェンに伝え、オーウェンの指示した事項をクィンに伝えて調べさせる。ふたりはわたしを挟んで手を握った。いつかのチェスの試合のように。
 ――いつかまた、こんな風に手を取るような予感がしていたよ。
 クィンは感慨深そうに云ったものだ。
 被害者の細かな情報、現場の正確な位置や死体の様子をわたしは報告した。オーウェン自身は新聞の記事や過去の同様の事件、犯罪学の論文を参照し、書斎にはニューヨークの古地図から精密な排水管の配置図まで広げていた。得られる情報をかき集め、自室に籠もって思考を巡らせる彼の背中に、あの寮の部屋に抱いた印象を思い出した――脳。彼は純たる思考になろうとしていた。かつておそれたような自身の解体を進んでおこない、人間や社会を情報の塊へと分解する。わたしやメディアを介することで、彼はその向こうに人間がいると意識することなく、抽象的な思考に没頭できた。わたしたちは毎夜議論した。手許の灰皿に並ぶ吸殻の輻は、そうして何周も何周も、積み重なっていった。
 もちろん、《赤の女王》は待っていてくれはしなかった。オーウェンは五角形に第六の頂点ができるとすればどこか、殺されるとすれば誰か、幾つかの候補を挙げたが、すでにパニックで破裂寸前となっているニューヨークにおいて迂闊に不確実な情報は出せない、とクィンは先手の予防策を渋った。外出は危険です、どうか家にいて――市警としてはそれ以上に有効な警告ができないと云う。二週間後に起きた第六の死が挙げた仮説のひとつをなぞる結果を示すと、オーウェンは唇の皮が剥けるほどに歯を噛み締めた。仮説は当たったと云うわたしの慰めに、喜べると思うかい、と絞り出すようにして云う。
 ――時どき、厭になるよ。朝方になって睡魔が頭に靄をかけるとね、もう少し犠牲者が出れば、と云う思考が脳裡をよぎるのさ。
 けれども現実には、《赤の女王》の推理は、次々とひとが死ぬことで、徐々に精度を上げていった。幾つかの仮説を行き来するように七人目、八人目と被害者を出す《赤の女王》を、複数の仮説をひとつにまとめて昇華する新しい仮説で追いかけるオーウェン。可能性が絞られるとクィンら警察も動き始め、特定の街区や通りに警備を固める。しかし《赤の女王》はその厳重な警戒態勢をすり抜けるように、路地の裏やビルの陰で緋色の紐を絞めた。それでも殺人鬼の包囲網は、確実に狭くなっていた。
 九人目の被害者が出たとき、オーウェンはわたしの入室さえ拒み、丸々二日間、部屋から出てこなかった。僅かに明けられた扉から地図や紙の支給を求められた。食事を与えてやっては扉を乱暴に閉じられた。わたしは待った。扉に背を預け、廊下の床に座り込み、ノートを抱えてペンを走らせ、自分の仕事をこなした。静かだった。ニューヨークでは日々、《赤の女王》への恐怖に触発されて、いっそうの死者が出ていると云うのに、わたしたちは扉を挟んでそれぞれの作業に没頭していた。辺りを見れば、掃除されていたはずの廊下は埃が目立ち、硝子棚や本棚の中身はあれこれと持ち出されて雑然としている。あの頃の彼が戻ってきた。そう思った。物語の書き出しを書いては棄てた。何度か試してみた後に、わたしもまたあの頃に戻ることにした――最後の事件の始まりは、最初の出会いでなければ、と。
 ――ふたりのチェスの差し手の出会いは偶然によるものと誰もが信じた。
 そう書いたときに背中が弾かれ、わたしは廊下に転がった。開いた扉の向こうにオーウェンが、すでに明るくなった外の光を背にして立ち、いつかの――あの日の愛嬌ある笑みを浮べた。
 ――二七丁目だ。
 ユダヤ人が死ぬ、と彼は予告した。
 オーウェンの考えた規則性はある意味で複雑なものだった。被害者が殺された地点を原点とする極座標を置き、被害者の年齢から角度を、性別と人種、民族から距離を算出する。こうして与えられた地点の周辺、半径数百メートルが次の殺人の候補地となり、街区の住所が日付を定め、これまでの被害者と属性が被らないように次の被害者が選ばれる。だからユダヤ人だ、とオーウェンは云った。統計上、次に殺されるのはユダヤ人と踏んで間違いない、と彼は困憊した様子で云った。簡潔ではないな、とわたしが苦言を呈すると、これを簡潔だと思うような犯人が相手だ、といなされた。
 ――人間のあらゆる属性を数字にする。恐ろしい奴さ。
 皮肉なものだ。現実は、本当に皮肉なものだと云わなければならない。
 オーウェンの推理をクィンは受け容れ、マンハッタンの二七丁目一帯を厳重に警備した。告知をせずとも緊迫した空気が市民全員を呑み込み、出歩く者はほとんどいなくなった。海底のように静寂が満ちた街路に、秋の風が吹く。少しでも怪しい動きを見せる者がいれば拘束された。わたしはニューヨークの住まいに戻り、オーウェンも五年ぶりにボストンを離れ、共に警察の連絡を待っていた。
 ――何かおかしい。
 陽が沈み切った頃、オーウェンが立ち上がった。紙とペン、それから地図を、と要求する。手帳に挟んでいた街路図を渡すと、オーウェンは、違う、と叫んだ。
 ――違っていた。計算が間違っている。完璧に製図された地図でも、地球は平面じゃないんだ。その微妙な誤差を計算していなかった。三〇〇メートルは候補地の幅を持たせるための余裕じゃない。ただの計算ミスだ!
 彼はわたしの本棚から地理の研究書を取り出し、わたしのタイプ原稿の裏を用紙に、計算を始めた。一時間も。不意に彼は悲鳴を上げる。いや、悲鳴のように聞こえただけだ。彼はひとつの数字を叫んだ――二六!
 オーウェンはわたしに命じて警察へ連絡させようとする。けれどもわたしが受話器を握ったその瞬間、警察の方から電話が掛かってきた。クィンではない。分署の平巡査だった。謝り続ける相手を窘めて、簡潔な報告を聞いた。
 ――十人目です。
 どこで。
 ――二七丁目と云ったのはあなたですよ。
 電話口の報せに耳を澄ましていたオーウェンは、馬鹿な、と呟いた。そんなはずはない。修正された仮説はこれまでの九回をぴったり説明できている。だから二六のはずだ。ぼくの推理は間違っていたんだぞ? 膝から崩れ落ちた彼はそのまま蹲り、躰を震わせた。
 ――クィンか。
 呼び鈴が鳴る。玄関にはニューヨーク市警の腕利き警部が立っている。中折れ帽を脱いで胸に当て、神妙な顔つきをしている。申し訳ない、とクィンは開口一番、謝罪する。力及ばず、新たな犠牲者を出してしまった。
 ――クィンだな。
 オーウェンは跳ねるように立ち上がって、コートを脱ぎかけていたクィンに飛びつく。ポケットをまさぐる。ふたりはしばらく揉み合う。
 ――道理でルールが見つからないわけだ。道理で仮説が絞られてくるわけだ。《赤の女王》が参照していたのは、ぼくの仮説そのものだ。
 クィンに突き飛ばされたオーウェンがかろうじて右手に掴んでいるのは、緋色の束だった。緋色のネクタイ。緋色の靴紐。緋色のコード。
 ――これは証拠品で……。
 ――違うだろう、《赤の女王》。
 オーウェンは空いた左手で吊していた銃を抜き、クィンを狙う。
 ――三人目まではなんのルールもなかったんだろう。あるいはいつかの村みたいに、発端の幾つかは事件でさえなかったかも知れない。だのにお前は事件を仕立て上げ、ブレアと接触し、ぼくを引きずり出したんだ。あのチェスゲームの再現か? 探偵としての嫉妬か? 動機はどうであれ、ぼくを嘲るための計画だったことは間違いない。お前はブレアからぼくの抱えている幾つかの仮説を聞く。お前はそれに則って、ただし仮説がすぐに定まらないよう殺しを続ける。そうと知らずにぼくは仮説を束ねて、無理やり法則をひねり出し、次の殺人指示をお前に送っていたわけだ。ぼくはお前に操られていたのさ。
 ――逆だ。
 クィンもリボルバーを抜いた。
 ――オーウェン。きみの推理が、おれを操っていた。
 ――そうとも。ぼくたちは互いに互いを操っていた。《赤の女王》はぼく自身でもある。人間のあらゆる属性を数字にしていたのは、このぼくなんだ。
 ――きみの推理は捜査関係者なら何人か知っていた。なぜおれだと?
 ――警備の包囲網を破れるような人間は限られる。透明人間でないのなら、盲点を自分から作り出せる立場だけだ。何より、ぼくが関わっていることを知っているのは、クィン、きみだけだった。思い出すね、クィン。ぼくは黒、きみは白。きみが先手で、ぼくらは中盤からずっと、互いに互いの手を読み合った。しかし今回もきみの負けだ。ぼくが土壇場で仮説を変更するとは思いもしなかったらしいね。お陰で、仮説になんて意味がないと思い至った。極座標? 原点? お笑いぐさだな。どんな殺人鬼でもそんな複雑なことを考えるわけがない。ぼくは自分で自分を縛っていたんだ。
 ――おれと同じだな。
 クィンは声を上げて笑う。樽のような腹が醜く揺れる。
 ――パリで高まる名声を、おれは維持しようとした。奇怪な殺人やら残忍な連続殺人やらが、そうそう何度も起きて堪るものか。追い詰められた。パリ警視庁の優秀な刑事クィンが、刑事クィンであるために、どうすれば良いかおれは考えたよ。自作自演を考えつくまで、時間はかからなかった。
 ――そうやって殺人の快楽を知ったか。
 ――紋切り型の精神分析はやめてくれ。きみならわかるはずだ。自分で自分を袋小路に追い込むようなあの感覚が。それでもやめられない苦しみが。だからこれは共同作業なんだよ。きみもまた、自分をエドワード・オーウェンにするために、犠牲を払ってきたんだろう?
 ――何を云っている?
 ――とぼけるなよ。
 クィンの眼がわたしを向いた気がした。
 ――まあ、良い。きみの云う通り、このゲームはおれの負けだ。ゆくゆくは引き分けを、ふたりで協力して解決する結末を、期待していたんだがね。敗者は大人しく、投了するとしよう。
 ――そうだ。そのまま銃を下ろせ。
 しかしクィンは、銃を下ろさなかった。代わりに銃口をこめかみにあてる。
 ――よせ!
 ――きみの記憶は間違っているよ、オーウェン。あのチェスは白と黒じゃない。きみは確かに白だったが、わたしは黒じゃなかった。あの日を正確に憶えていたら、こんなに犠牲者を出さずに済んだかも知れない。
 オーウェンが声にならない叫びを上げた。引き金が引かれた。その直前、銃声に紛れながらもクィンは、確かにこう云っていた――おれは、赤だ。わたしは急速に命を失ってゆくクィンに駆け寄り、リボルバーを左手から離した。
 ――どう云うことだ。
 オーウェンはまた、蹲って呟いていた。――奇怪な殺人やら残忍な連続殺人やらが、そうそう何度も起きて堪るものか……。クィンの言葉を繰り返し、咀嚼する。
 ――どう云うことだ。ブレア。
 オーウェン、とわたしは彼の名を呼んだ。
 ――ぼくの推理を知ることができる人間が、もうひとりいた……。
 《赤の女王》はクィンだ。
 ――ぼくの推理がランダムな殺人から法則をでっち上げたに過ぎないのなら、あんなにもぴったりと計算に合う仮説が出てくるのは変だ。ぼくにそれを唱えさせるよう、議論を誘導した者がいる。資料の数字を改竄した者がいる。ぼくと犯人との唯一の接点であることを良いことに、ふたりとも同時に操った者が……。
 オーウェン、きみは自分の推理に囚われている。
 ――あの公園で。きみはまくし立てながら《赤の女王》を彼と呼んだな。女王を?
 云い間違いだよ。
 ――この事件はゲームの続きだ。本当に続きだった。これは運命なんかじゃない。きみが、盤面を仕立てた。あのときの盤面をなぞるように……。
 ひとがひとを、そこまで操ることができるとでも?
 ――きみはぼくの人生を、ずっと操っていたんじゃないのか?
 オーウェン……。
 ――ぼくの名を呼ぶな。ぼくはオーウェンじゃない。きみのエドワード・オーウェンじゃないんだ!
 わたしは拳銃を抜き、まだ自分の喋る言葉に躰が追いついていないらしい彼の額に銃口を当て、引き金を引いた。倒れ込む彼を支え、クィンの死体の近くに寄せる。オーウェンの左手の銃を取り上げ、自分の銃を握らせた。云ったはずだよ――わたしは死体に向けてひとり呟く。云ったはずだよ、オーウェン
 きみをシャーロック・ホームズにしてみせると。
 結末はここだと決めていた。クィンにはあらかじめここを訪ねるよう云っておいた。ここまでタイミング良く進むとは思わなかったが。部屋は防音設備が行き届いている。ニューヨークの出版社で長篇の仕事を引き受け、エドワード・オーウェン最後の事件のプロットを編んだときから、万全の準備を整えていたのだ。二発の銃声の時間差が聞かれたはずはない。当初は悲鳴や会話が漏れることを案じての準備だったが、万が一を考えておいて正解だったようだ。
 揉み合った末の相撃ち、と云う状況を整えると、わたしは警察に通報した。どうすれば警察を丸め込めるかは心得ている。クィンの紹介で、警察内部からは信頼も得られていた。大丈夫。うまくいくはずだ。

 

 そして実際、うまくいった。現にわたしは自分の家で、この手記を書いている。元はオーウェンの屋敷だ。彼の死後、家具ごと競売にかけられているところを買い取った。蔵書の幾らかは彼が晩年に足繁く通った公共図書館へ寄付したが、誰も引き取り手がいない、あの血腥い資料や毒のコレクションは大部分が残されている。
 オーウェン最後の事件は、その劇的な結末、そして題材からすぐ評判になり、発売からいままで途切れることなくニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストに載り続けている。オーウェンをあのようなかたちで退場させたことに多少の批判はあったが、現実のオーウェンが死んでしまった以上、仕方がないことだ。もちろん、過去の事件を新たに書くことはできるし、何ごともなかったかのように生き返らせてしまっても良い。全ては作者であるわたしの自由である。
 そう、わたしが書かなければ、きみは存在することさえないんだ。
 ――きみはぼくの人生を、ずっと操っていたんじゃないのか?
 ならばクィンと同様に、わたしもこう答えることになる――きみの存在が、わたしを操っていたのだ、と。
 きみがシャーロック・ホームズにならなければ、わたしはきみをライヘンバッハの滝まで連れて行かなかっただろう。わたしはきみに、本当に、ホームズになってほしかった。わたしはきみが好きだった。本当だ。信じてほしい。
 きみは、わたしが好きだったきみを、段々と嫌いになっていったようだが。
 しかしきみが云う程には、わたしはきみを操ってきたわけではない。ただ、幾つかの事件でわたしが引き金を引いただけだ。学生時代は事件を斡旋してやるだけに留めたし、本格的な〝デビュー〟である病院の事件では、歪んだ慈愛心に溺れていた恋人と――わたしはとっくに犯人が彼女だとわかっていた――きみを引き合わせただけだ。追い詰められていると感じた彼女は、勝手に罪を重ねた。その姿はいささか無様で、わたしとしてはあまり思い出したくはない。彼女を愛していたのは本当だった。最愛のひとを文句の付けようのない名犯人に仕立てられなかったことは、返す返すも苦い思い出だ。
 あの奇妙な事件、複雑な密室の数々も、わたしが直接発生させたわけではない。謎をより魅力的にするために、現場に細工を施した程度だ。因果の糸を適切に引っ張るだけで、犯罪は驚くほど奇妙な様相を呈する。オーウェン、それはきみが教えてくれたことではないか?
 いちばん苦労したのは、あの村の事件だ。ファンから届いた手紙に丁寧な返事をしてやって、『靴の中の病院』で犯人が、殺人を殺人で隠そうとした点に注意を向けさせることから細工は始まった。殺人を連鎖させるアイディアはわれながら秀逸だ。各々を殺人に駆りたてるよう利害関係を整理してやった。直接唆したことさえある。その殺人者は、次に殺された……。まあ、いささか煩雑になりすぎたきらいはあるが。きみには、わたしの予想以上に苦労を強いてしまったね。
 とは云え、全てが制御下にあったわけではない。きみはわたしが象を操ったとでも云うのか? わたしは神ではない。座長と町長を焚きつけるくらいの介入はしたが、あれはわたしの制御をほとんど離れた例だった。結果として、非常にユニークで、印象深い経過を辿った。
 わたしがすべてを掌中に収めていたのは《赤の女王》の件ぐらいだろう。クィンに頼んでふたつ目の現場を取材させてもらったとき、彼の言動と現場の証拠からすぐに彼が犯人だとわかった。あとはわたしが以前から構想していたアイディアを断片的にクィンへ刷り込み、クィンのなかで計画が完成するのを待つだけだ。きみと犯人を同時に操作できる立場は、存外楽しかった。もっと同じようなことをやっておけば良かったと思う。あのチェスの試合になぞらえることはちょっとした遊びに過ぎなかったが、最後にはきみも気付いてくれたようで嬉しい。素晴らしい作品には、やはりディテールを理解する読者が必要だ。
 もちろん、細部まで完璧に計画できたわけでもなければ、完全に制御できたわけでもない。それが現実である。しかしそのような不備は、小説のなかで修正した。『赤の女王』は正確に、あの日の棋譜をなぞっているはずだ。想定外の事態や欠陥に対する同様の修正はこれまでにも施してきた。きみの推理が水も漏らさぬものであり得たのは小説のなかだけだ。しかし、最後に残るのは書かれた方である。
 言葉が最後に残る。物語は読み継がれ、現実に起きたことは消え去る。
 最後に残ったものが、勝者だ。
 歴史は勝者が語るものではないかも知れないが、最後に歴史として語られたものは、勝者であるとわたしは信じる。その歴史がどれだけ書き直され、修正され、改竄されたものであろうと、それが真実だ。エドワード・オーウェンとは、わたしが語ってきたエドワード・オーウェンであり、これから読まれ、語られるエドワード・オーウェンである。わたしがこの手記を残し、しかし誰にも読ませず抽斗に隠す理由も同じだ。わたしはわたしが勝者であることを、言葉にしておかなければならなかった。オーウェンの生涯を大まかにまとめることになったのはその結果である。
 全てきみのためなんだ。きみを〝エドワード・オーウェン〟にするために、わたしは歴史を作った。
 とは云えひとつ、きみの生涯で書き漏らしていた――もとい、わたしが知らず、書くことができなかった点がある。きみには子供がいたのだね? アリスの娘だと云う彼女は、書類を引っさげて一ヶ月前にわたしを訪ねてきた。母を亡くした彼女の面倒を見ることを、わたしは快く引き受けている。いちばんの友がこの世に遺した最大の財産だ。目鼻立ちは母親と近いが、きみとよく似た瞳をしている。深く澄んだ青は、こちらを見透かすように聡明で、底知れず昏い。わたしが魅せられた瞳そっくりだ。
 あの子はこれを書いているいま、庭で本を読んでいる。屋敷を引き取ってから綺麗に造園した庭だ。春の柔らかな陽を浴びて、少女はいささか眠たげだ。彼女は面識のない、血のつながりもないわたしのことを、小父さんと呼んで慕ってくれる。最近は料理や家事を買って出てくれるようになった。世話をしてくれるだけじゃなく、普段から父さんの本を読ませてくれるお礼だ、と云って。彼女は瞳を輝かせながら父の活躍を読み耽り、犯罪や科学の研究書――とくに毒物にご執心のようだ――を興味深そうに繰る。在りし日のエドワード・オーウェンのように。加えて時折、父親顔負けの鋭い推理を発揮することもある。彼女の成長をいまから記録するべきだろうと思い始めた。この手記はその決意表明でもある。
 オーウェンは失敗してしまった。それはきみの失敗であり、わたしの失敗でもあった。きみはいつしかホームズであることを拒み、袋小路に突き進んだ。あんな過ちは繰り返させるまい。この溌剌として聡明な少女なら、もっと伸び伸びとやれるはずだ。
 だから、記録しよう。少女の行動、言葉、そのひとつひとつを蒐集し、物語としてまとめてゆく。彼女が父の道を進むなら、わたしが役に立つときが来るだろう。
 大丈夫。今度はうまくいくはずだ。
  一九五〇年
   ボストン、マサチューセッツ

『九尾の猫』読書会レジュメ

 一年前、所属しているサークルでエラリイ・クイーン『九尾の猫』の読書会をおこなった。我ながら気合いの入った文章だと思うし、それなりに褒めてもらえたので調子に乗ってここに公開する。久しぶりに読み返したら「けっこううまくやってんじゃん」と思ったと云うのもある。最近ブログが更新できていないからと云うのもある。『九尾の猫』論としてはすでに各所で論じられている話題の表面をなぞったに過ぎないけれど、サークルの読書会としては十分すぎるのではないだろうか。
 もちろんここで書かれている読解について様々に反論はあるだろうし、いまでは自分でも考えが変わっている箇所もある。しかし加筆はせず、修正はサークル内に向けた一部の記述に留めた。面倒臭いし、そもそも、議論はここから始まるのだ。実際の読書会でも、様々な反論や意見をいただいた。ありがたいことです。

 当然ながら、読了者を相手に想定しているので、ネタバラシをしています。ご注意ください。

エラリイ・クイーン『九尾の猫』読書会(2020/4/23)

犠牲者はその死を悼む人々を残していった。殺人者は数値を残した。死亡後、大きな数に加えられることは、匿名性という川に溶け入ることを意味する。死後、たがいに競い合う国家や民族の記憶に組み込まれ、自分がふくまれる数値の一部となることは、個性を犠牲にすることにほかならない。それは、ひとりひとりの人間がかけがえのない存在であるところからはじまる歴史に切り捨てられることだ。歴史は複雑きわまる。それはわれわれみんなが持っているものであり、みんなが共有できるものだ。正確な数値が得られたとしても、われわれは気をつけなければならない。正確な数値だけでは不十分なのだ。
――ティモシー・スナイダー『ブラッドランド:ヒトラースターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房

長期的に見ると、多くの人々は仕事や職場を変え、外面的な友人や関心を変化させたり拡大したりして、世帯の大きさも変え、所得も上がったり下がったりして、嗜好でさえかなり変わります。ひと言で言えば、人々は単に存在するのではなく、生きるのです。
――ジェイン・ジェイコブズアメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会

「伯母さんのところの雄猫は死んだのかね?」
「はい」
「九つの命が一度に消えたわけだ。人間には一つしかない」
――ドロシー・L・セイヤーズ『殺人は広告する』(東京創元社

この読書会について

 今回の読書会では、『九尾の猫』について、担当者がどう読んだのかを、幾つかトピックを取り上げつつ語ろうと思う。そうして語られてゆく道筋は、『九尾の猫』を「読む」ことから、大きく外れることはないだろう。「傑作」と云う評価や、ジャンル内での定位は、あくまで読んだ後の作業である。
 表記について以下の点に注意されたい。

  • 『九尾の猫』を『九尾』と表記する
  • 作家としてのエラリイ・クイーンは「クイーン」と表記する
  • 探偵役としてのエラリイ・クイーンは「エラリイ」と表記する
  • 引用はすべて『九尾の猫〔新訳版〕』(早川書房、越前敏弥訳)による。頁数の表記もこれに基づく
作者について

 作者の略歴と作品リストについてはN回生E氏が前年に作成したわかりやすいものがあるので、欲しい方は氏に訊いてみよう。『九尾の猫』の位置付けについても新訳版解説で説明されているので、詳しくは述べない。強いて述べたいことがあるとすれば以下の3点。

  • クイーンの作風は徐々に変化していくものであること
    • クイーンの作風の変化に注目すれば『九尾』はひとつのマイルストーンと云える。論理性からの逸脱、エラリイへの揺さぶり、小説としての踏み込みについてひとつの到達点を示した偉大な達成だろう。このあとは、本作でも見られるミステリとしての実験性や図式へのこだわりが前面へ出るようになっていく。
  • クイーンはひとりの人間の名前ではないこと
    • ダネイとリーだけでなく、エラリイ・クイーンの筆名は様々な作家にも名義貸しされている。複数の作家に共有され、小説やラジオ、映画と云った様々なメディアによってつくり出された一種の幻影としての〈エラリイ・クイーン〉は、メディアが作り上げた〈猫〉と対置することができるだろう。
  • ダネイとリーのルーツはユダヤ系であること
    • とくに『十日間の不思議』以降強く現れる宗教的な記述や、本作でも見られるホロコーストへの言及は、このことを踏まえれば無視できなくなるはずだ。

 しかし担当者はこの読書会で、クイーン論を語ろうとは思わない。そもそも、〈国名〉シリーズや〈悲劇〉四部作を読み通していない担当者はクイーンの良い読者ではない。〈後期クイーン的問題〉やら〈大量死理論〉やらもよく知らない。だから、もし以上の点を踏まえて作品を読むとしても、それは作品を読むにあたっての補助線に過ぎない。

プロットについて

 『九尾』のプロット、作品の構成について注目したい点があるとすれば、前作『十日間の不思議』との、前日譚/後日譚と云う関係にとどまらない対応である。

  • エラリイが一度失敗する
  • 犯人によるエラリイの操り
  • エラリイが祭り上げられる
  • 事件関係者の男女にエラリイが振り回される
  • ミッシングリンク(隠された規則性)がポイントになる
  • 宗教的なモチーフや言及

 以上をもって、『九尾』と『十日間』をセットにしなければならない、とする意見に与するつもりはない。しかし、ふたつをつい並べたくなるのは事実だろう。
 ミステリを読んでいると、並置したり、重ねてみたり、連結してみたりしたくなる作品の組み合わせと出会う。その関係は必ずしも、作家間の影響関係や、作品間の引用に限らない。複数の作品を並べ、星座のように結びつけることで、思いがけない構図が浮かび上がり、その構図がそれぞれの星――つまりそれぞれの作品に、新しい読みをもたらしていく。それもひとつの読み方ではあるだろう。
 複数の作品の間に何かしらの因果関係や規則性を見出していくこと、それ自体が、ミステリ的な営みでもある。

演劇性について

 クイーンの作品はしばしば演劇的である。少なくとも、『九尾』を読んだとき、担当者が抱いたイメージは、暗い舞台に積み重なる死体と、出入りする人間、その中心でもがくエラリイの姿だった。なぜそんなイメージを抱いたのか、理由は主に2つ挙げられる。

  • ダイアローグとモノローグ――つまり声が、小説を駆動すること
    • 描写そのものや、プロットの展開よりも、そこで描写される人間たちの声が、物語を牽引している。後半では、台詞以外の記述でもエラリイの心理、あるいは「ニューヨークの心理」とでも云うべきものをを反映した語りがより強く響いてゆく。
  • 概ね、閉じられた場所で物語が展開されること
    • エラリイは多くの場合、部屋で捜査し、推理する。ハードボイルドの探偵小説のように、脚を動かして、街の様々な場所をその目で見ながら捜査していくことはあまりない。あったとしても、ダイジェスト形式で流されてしまう。後半の捕物も、霧に包まれた都会の隅で、むしろ暗く狭く展開されている。

 もっとも、後者については終盤で破られることになる。それは、一箇所の舞台――どう書き込んでも書き割りに過ぎなかった舞台をエラリイが降りて、スポットライトからも離れて、ひとりの人間としてこのリアルで複雑な世界に立つことを意味する。

文体について

 先に述べた通り、『九尾』では様々な声が響いている。可能ならひとつひとつ具体的に取り上げたいが、ここでは序盤の印象的な二箇所を引いておこう。
まず冒頭、〈猫〉がもたらしたものを概説するシーン。

そして、哲学者たちは世界観を持ち出し、窓を開いて時勢の壮大なパノラマを示した。(…)理解すべきは、住民は大混乱に屈したのではなく、それを歓迎したということだ。足もとで字面が揺れて裂けるような惑星では、不安ゆえに正気を保つのはむずかしい。空想こそが避難場所であり、救いだった。
 だが最後に、ニューヨークに住む二十歳のふつうの法学生がおおかたの人々にもわかることばで述べた。「ちょうど前世紀の政治家ダニエル・ウェブスターの話を読んでいたんですよ」学生は言う。「ジョーゼフ・ホワイトという老人が殺害された事件の裁判で、ウェブスターはみごとなストライクを投げたんです。〝ひとつひとつの殺人が見逃されれば、ひとりひとりの命が安全とは言えなくなる〟って。いまのばかげた世の中を見たらなんと言うでしょうね。〈猫〉と呼ばれる化け物が右へ(ライト)左へ(レフト)とつぎつぎ人間を吹っ飛ばして、だれも一塁までたどり着けないんですから。〈猫〉がこの街の人たちをしっかり(ライト)絞め殺していくのはどんな間抜けが見てもわかります。しまいにはエベッツ・フィールドの左翼(レフト)席をいっぱいにするだけのお客すら残って(レフト)いなくなりますよ。こんな話、つまんないですか? それにしても、ドローチャー監督はどうしたんですかね」このジェラルド・エリス・コロドニーという法学生の意見は、ハースト系新聞の記者の街頭インタビューに答えたものだった。これは《ニューヨーカー》と《サタデー・レビュー・オブ・リテラチャー》と《リーダーズ・ダイジェスト》に転載され、〈MGMニュース〉はコロドニー氏を招いてカメラの前でもう一度話をさせた。それを聞いたニューヨークっ子たちはうなずき、まさにそのとおりだと言った。
(11頁)

 様々な言説が冒頭から積み上げられ、果ては哲学者が壮大なパノラマまで展開しながら、着地するのはひとりの学生の素朴な声、不謹慎ながら洒落も散りばめられた率直な意見だ。それまでのしかつめらしい語りは、この洒落と、メディアによる拡散と、ニューヨークっ子たちのうなずきで相対化される。語られる内容より、この知的な笑いがいかにもクイーンらしい。
 続いて、モニカ・マッケルの死について警視が語るシーン。

「仲間はタクシーに乗りはじめたが、モニカがひとり息巻いて、アメリカ流がいいとほんとうに思うなら地下鉄で帰るべきだと言って譲らなかった。ほかの連中に向かって噛みついたのに、ハンガリー人の伯爵がかっとなって――しかもウォッカのコーラ割りをしこたま飲んだあとだったから――百姓どものにおいを嗅ぎたければ国にとどまっていたとか、地面の下へ行くのもどんな意味で下に行くのもまっぴらだとか、そんなことを言い放った。そんなに地下鉄に乗りたければ勝手に乗って帰ればいい、とな。だから、モニカはそうした。
 だから、そうしたんだ」そう言って、警視は唇を湿らせた。
(36、37頁)

 ただの説明なら「だから、モニカはそうした」だけで良い。しかしそこで段落を変えて――おそらくは息継ぎをしたのだろう――もう一度「だから、そうしたんだ」と云う。そうすることで、無機質な事件の無機質な説明は、事件の無機質さに打ちのめされ、もしも彼女がそうしなかったなら――とむなしく仮定を考えつつも、打ち消すようにして説明を続けるクイーン警視の生きた声となる。ついでに、ツイストを効かせつつ段取りよく言葉を連結させていく手際にも目を瞠る。
 『九尾の猫』では全篇で、以上挙げたような、ひねられた言葉、奥行きのある台詞、生きた声が響いている。それらが響き合うことで起ち上がるのは、大都会ニューヨークの相貌だ。

都市について

 探偵小説の祖「モルグ街の殺人」で特筆すべきは、(もちろん密室は重要だが)そこで提示されるのが、複数の外国語と云うすぐれて都市的な謎だったことだろう。
 都市とは複数の声が縦にも横にも並んで響く。だからそれぞれの声の響きがニューヨークを浮かび上がらせるのだし、ニューヨークと云う場所がそれぞれの声を力強く響かせるのだろう。
 しかし、無数の、数多の声が巨大なひとつの声になってしまったら。そこに現れるのは実体のない〈大衆〉の声だ。『九尾』は都市の多様性・複雑性を描くと同時に、それらがひとつの〈大衆〉へ呑み込まれてゆく恐ろしさを描いている。
 もちろん、無数のひとびとから起ち上がる〈大衆〉なるものは、ここで〈猫〉と対置される。

ミッシングリンクについて

 『九尾』がシリアルキラーもの、ミッシングリンクものとして独特なのは、そのルールの性質においてだ。
 たとえば、被害者の選定がランダムだったら。たとえば、木を隠すなら森のなかと云う風に、ひとりを殺すために複数人殺したなら。たとえば、目的を達成するためにやむを得ず複数人殺すことになったなら。『九尾』のルールが持つ異様さはなかっただろう。
 この異様さとは、ルールそのものが持つ理不尽――ルールが存在すると云うこと自体の理不尽である。多様で複雑な無数の人間たちを、彼らの持つそれぞれの人生や、かけがえのない存在、あるいはそれぞれの持つ無二の声を問わず、貫いてしまうルール。犠牲者選定の規則性が明かされたところで、彼らが殺されたことの理由になりはしない。
 序盤、エラリイは〈猫〉をこう評する。

「〈猫〉にとって大事なのは数量です。すべての人間を平等にするのは数ですからね。建国の父祖たちやエイブ・リンカーンもただの人間と変わらない。〈猫〉は人間性というものをあまねく平らにならす。」
(34頁)

 木を隠すなら森、と云う方式は、まだぎりぎり、ひとりの人間を特別視して殺そうと云う意志がある。快楽のための殺人だったなら、被害者に選ばれるのは一種の偶然としてすませることもできる。しかし、『九尾』では厳然としてルールが存在するからこそ、人間は平らにされ、数字にされてしまう。
 同じく序盤、クイーン警視のこの言葉は、図らずも〈猫〉の性質を云い当てている。

「エラリイ、このメリーゴーラウンドにはじめから乗っていた者として言わせてもらうが、この連続殺人ではナチスの遺体焼却場と同じ程度の道理しか通らないんだ」
(48頁)

 「ユダヤ人だから」と云う理由によって無数の命が「処理」されてしまった、その理不尽と同質の理不尽が〈猫〉にはある。出生についての、自分ではどうしようもない性質をルールとして、被害者は殺されたのだから。

エラリイについて

 〈猫〉が人間を平らにしていると評する一方で、エラリイはこうも口にする。

「共通の分母を探してるんです。被害者は種々雑多な人間の集まりだ。でも、そこにはきっと共通した特性、経験、役目が……」
(48頁)

 エラリイもまた、人間を数字にしているのだ。
 実際に殺人を犯すわけではないけれど、ここでの彼の眼差しは、意図せずして〈猫〉と一致してしまう。それぞれが違った人生を生きる人間を人間として見つめず、数字として、図式のなかで捉えてしまうその眼差しは、たやすくカザリスによって操られるうえに、カザリス「夫人」と云う図式に収まった彼女の存在を見落としてしまう。何よりエラリイは、図式に囚われるあまり、アリバイと云う「事実」に気付くことができない。
 これは決して、ただ単にエラリイがすぐれていない、と云うことではない。
 複雑で多様なこの世界にルールを見出し、わかった気になってしまう――これは、チェスタトンならば「狂人」と評する存在だろう。それは神様気取りの眼差しであり、そこには理性=数字しかない。人間はいない。
 終盤、エラリイはこう語る。

「その単純さこそが事実を見えづらくしていたと思います。単純であること、殺害件数が多く、事件が長期に及んだという事態のせいです。そのうえ、殺人が度重なるにつれ、被害者の特徴はしだいにぼやけて混じり合い、ついには、振り返れば均一の死体の山、処理場送りの九頭の牛に見える、そんな事件でした。ベルゼン、ブーヘンヴァルト、アウシュヴィッツ、マイダネクで撮られた強制収容所の死体の公式写真を見るときと、人は同じ反応を示しました。だれがだれだか見分けがつかない。死があるだけです」
(455頁)

 虐殺は人間を数字にするし、死体の山を見る眼差しも、人間を数字として捉えかねない。
 さらにこの場面はこう続く。『九尾』でもっとも重要なくだりと云って良い。

「だが、問題は事実だよ、クイーンくん」かすかな苛立ちとほかの何かが入り混じった声だ。ベーラ・セリグマンのひとり娘がポーランドユダヤ人の医師と結婚し、トレブリンカの収容所で死去したことをエラリイは急に思い出した。それぞれの死を特別なものにするのは愛だ、とエラリイは思った。愛だけかもしれない。
(456頁)

 ここでの「愛」は、広い意味で使われている。人間を尊ぶ心、とでも云おうか。
 人間を数字と見做し、複雑で多様な世界を貫く図式を見出そうとするエラリイの眼差しは、確かに殺人者のそれへと漸近するけれど、そうすることによってようやく掬い上げられるものがあることも事実だろう。重要なのは、そこに「愛」があるのか、だ。
 幕切れ近く、カザリス夫妻の自殺を耳にして壊れかけるエラリイに対して、セリグマンはエラリイの仕事を「昇華」と表現し、この仕事を続けるよう励ましてみせる。「昇華」とは何か? 担当者は、複雑として多様で――混沌とした世界から人間を掬い上げる営み、と読んだ。人間を数字にする眼差しを通して、数字を人間に戻すこと。これは極めて危うく、至難だ。だからこそ可能な人間は限られる。それがエラリイだ。
 しかしエラリイも人間である以上、この眼差しの完璧な運用はできない。完璧を目指せば壊れるだろう。あるいは自らを神だと思い込んでしまうかも知れない。そうならないよう、セリグマンはエラリイに教訓を授けるのだ――「神は唯一にして、ほかに神なし」。
 『九尾の猫』と云う物語のここが到達点である。忘れ難い幕切れだ。
 ここから「名探偵」論を一席ぶつのも面白いが、『九尾』を読むから離れる必要がある以上、いったんおいておこう。

 

名前について

 人間を数字にすると同時に、数字を人間に戻す。この営みは、『九尾の猫』と云う小説そのものの営みでもある。本作では、響き合う複数の声と、「大衆」の暴走ないしそれがもたらす数字とが対置されている。
 また、エピローグの代わりをなすようにして最後に置かれた名前の一覧は、人間が数字にされ、数字が人間に戻される、その交叉点であると言える。並列された名前は、無数の声や無数の人間、無数の人生を平板なリストへ貶めてしまうものであると同時に、数字にされてしまった人間たちについて、彼らが確かに生きていたことを示す最後の砦でもある。
 ひとを名前を呼ぶことは、個人を個人として見做す、もっとも端的な行為であるはずだ。

小説の役割のひとつが人生を鏡に映すことだとすると、登場人物も場所も、実生活と同様に明確なものでなくてはならない――となると、名前が必要になる。
(487頁)

 

落ち穂拾い

 以下、読書会中に触れるつもりはないが、分量の都合で切り捨てたり、自分のなかでまとめきれなかったトピックを幾つか書き残しておく。

a.    パニクる都市

 得体の知れない死の恐怖に怯え、パニックを引き起こし、かと思えば何も解決していないのに沈静化し、けれどそこには相変わらず死の恐怖が根を張って、ひとびとを逃避させる。――9.11を経て、COVID-19のパンデミックが進行中のこんにち、『九尾』における都市像は、まだまだ新しい読みがなされていくだろう。

b.    卓越した筆力

 クイーンはもともと文章の巧い作家だが、『九尾』ではその文体が完成に至っていると思う。声の力強い響きは前述した通り。決して短くない物語を一気呵成に読ませるだけの構成力もあり、たとえば後半の逆転していく攻勢やそこにミスディレクションを仕込む手捌きには目を瞠る。とくに中盤、捜査が暗礁に乗り上げてから、猫暴動が起こり、大波が去ったニューヨークでプロメテウスから神託じみた声が響き、8人目の被害者が現れるまでの一連の流れには惚れ惚れする。

c.    「オッターモール氏の手」

 トマス・バークによる短篇小説。邦訳は『世界推理短編傑作集〈4〉』で読める。夜の都会で起こる連続絞殺事件の話で、クイーンが主催したアンケート企画では短篇ミステリのオールタイムベスト1位に輝いたらしい。クリスティーABC殺人事件』とあわせて『九尾』の元ネタになっていると思われる。

d.    天城一

 探偵小説が人間を数字にしてしまいかねないと云う危うさに、自覚的だったかはわからないが、敏感だった作家。彼は『Yの悲劇』を傑作だと認めたうえで、あの結末を肯定することはナチズムの肯定に繋がるとして、作品を退けている。また、「クィーンのテンペスト」と云う『九尾』論も書いた。『天城一傑作集〈4〉風の時/狼の時』所収。

e.    「大量死と密室」

 法月綸太郎による評論。笠井潔作品とクイーン作品を並置し、相互に参照させながら、両者の小説を読み解いていく。笠井潔ハイデガー柄谷行人もろくに知らないので触れなかった、もとい、触れられなかった。『法月綸太郎ミステリー塾〔日本編〕名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』で読める。

f.    『殺人は広告する』

 冒頭でも引用した、セイヤーズによる長篇小説。引用した部分に深い意味はなく、ただ最近読んでいたら出くわしたこのシーンに面白みを感じたに過ぎないが、メディアの生み出した怪物と云うテーマで両作品を結びつけることもできるだろう。『九尾』で〈猫〉の恐怖が新聞やラジオで煽られる一方、『殺人は広告する』ではばらまかれたナンセンスな言葉が大衆を扇動し、商品が流通していく。また、イギリスの探偵小説でもっともエラリイ・クイーンに近い存在が『殺人は広告する』でも探偵役を務めるピーター・ウィムジイ卿ではないか、と担当者は睨んでいる。エラリイもピーターも都市の階級から遊離した、「探偵役」としか云いようのない存在だ。しかしピーターは貴族階級と云う後ろ盾がある。エラリイには、と云うかアメリカにはそんな階級がない。似て非なる両者を較べることもまた面白いだろう。

g.    メディア

 オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』騒動が言及されていることも見落としたくはない。また、ラジオドラマのヒーローとしても人気だったエラリイ・クイーンのシリーズには、戦時中プロパガンダに加担した作品もあるし、後期の長篇『第八の日』ではプロパガンダ用の脚本を書きすぎたエラリイが病んでしまうところから物語がはじまる。『殺人は広告する』同様、ここにはメディアとミステリの微妙な関係性が見て取れるだろう。また、〈猫〉を生み出し、ひとりひとりの死者を猫の尻尾にくくりつけて「n番目の被害者」としてしまったマスコミも、図式化に嵌まっている、と云うか、誰より率先して図式化を推し進めている存在であることは注意したい。

h.    エラリイが書こうとした小説

 終盤でエラリイが書こうとしていた小説の題材は「群集恐怖症と暗所恐怖症と失敗恐怖症の深い関係性」だったと云う。なぜそれを題材にしようと思ったのか、と云うことからエラリイは自分のミスに気付いていくわけだが、ところでこの小説はどんな小説なのだろう。群れたもの。暗いところ。失敗すること。それらへの恐怖の関係性。――あるいはこの小説とは、『九尾の猫』そのものではないだろうか。

i.    リフレインされる言葉、失敗、死

 『九尾の猫』では、様々な場面でリフレインが使われる。同じ言葉を繰り返し、強調し、微妙にそのニュアンスを変えて響かせるこの技法は、文章レベル以外でも用いられていないだろうか。『十日間の不思議』とあわせれば、エラリイは同じ過ちを繰り返しているが、これは普通に考えて奇妙だ。前作で失敗したエラリイを成功体験によって立ち直らせるのではなく、同じ失敗をさせていっそう追い詰めるとは。しかし、『十日間』では引っかかっていたかも知れない地図の星座や殺人間隔などの図式をエラリイは拒絶しながら、最終的にはふたたび図式に囚われる――この繰り返しを踏むことで、主題のより深い追及を可能にしていると云えるだろう。また、本作では死が何度も繰り返される。ここで、それぞれが異なる「死」であることに注意しなければならない。ところで、カザリス夫妻の子供は、二回死産している。

j.    図式化された読み

 「図式」と云う言葉で『九尾の猫』を読もうとする、この読み方もまた図式化されている。数字には、図式には、抗いがたい引力がある。このレジュメについて、各表題が「~について」で統一されていることに気付いただろうか。これもまた、図式の誘惑だ。結局、人間は何かしらの図式に則ることでしかものを考えられないのかも知れない。しかしそこでひとつの硬直した図式に陥ることは、退屈であるどころか危険であろう。絶えず自分の物差しを作り直さなければならない。……もちろん、われわれは人間なので、無理のない限りでほどほどに。

k.    「名探偵」対「犯人」と云う図式

 名探偵と犯人の図式に基づいてミステリを捉えること。この図式を複雑化したり投げ出したり引きのばしたりするのではなく、この図式そのものを解体しようとする試みとしても、『九尾の猫』は読めるだろう。〈後期クイーン的問題〉や〈操り〉テーマなどを追い切れていない担当者にとって、これは今後の宿題である。

l.    抽象と具体

 最後の方で述べた、数字にすることと数字から戻すことの同居した眼差しを、抽象化と具体化のせめぎ合いと云い換えてみよう。エラリイ・クイーンの小説は――と云うか、すなわちミステリと云うものは――大なり小なり、このせめぎ合いの場と見做すことができる。たとえば、初期の『オランダ靴の謎』は、一見すると『九尾』のような問題意識とは無縁だが、換えのきかない具体的な手掛かりから推理を引き出してゆくことで《ひとりの犯人を指摘する》と云う、パズル的で抽象的な運動が浮かび上がってくる。逆に、後期の問題作『盤面の敵』や『第八の日』では、最終的に物語が描き出したい図式を導くためなら何でも良いかのように手掛かりや推理の具体性が欠けてしまっている(もちろん、このスタンスにこそ作品が放つ強烈な迫力があるのだが)。そもそも推理によって物語を《真相》と云う名の図式へと回収することは、クイーンに限らないミステリ本来の営みであるはずだ。この営みの場であるせめぎ合いにこそミステリの面白さがあり、危うさがあるのではないか。これを踏まえると、『九尾の猫』は、そのせめぎ合いに身をさらし、解決不可能な困難とぶつかりながらも最後にはその失敗をも受け容れてみせると云う点で、クイーンの、ひいてはミステリの、ひとつの到達点と云えるだろう。
 ここで止まっていれば、と思う。ここで引き返していれば、と思う。たらればを考えて、書かれたかも知れない作品を想像することもある。しかし、『九尾の猫』を書いてしまった以上、クイーンは後期の方向へ進まざるを得なかったのかも知れない。――もちろん、以上の想像は、クイーンと云う存在しない作家・ダネイやリーら、クイーンを作り上げた人物に対しての過剰な言及と云うべきだし、恥知らずなふるまいである。
 『九尾の猫』を書いた作家に、何を云うべきか、ぼくはいまだに答えを持っていない。

創作「面接」

あなたの名前を教えてください。

 文子。文子と書いて、あやこ。戸籍はそう登録されているはずだけれど、母はわたしをふみと呼び続けた。父に名前を呼ばれたことは一度もない。近しい友人はわたしをぶんちゃんとかあやとか名付けた。大学では烏丸と呼ばれることがほとんどだ。あやこと呼ばれたのはたった一回。彼にだけだった。一度だけ。彼だけに。唇を震わせながら短く、あやこ、と。

大学では何を専攻しましたか?

 家のリビングの壁の棚には文学全集が収められていた。記憶の限り、母も父もそれを読んだことはなく、作家の名前を口にしたこともない。一種の見栄、嵩張るインテリアとして置かれたそれを読むことができると理解したのは小学校三年生のとき。憶えている。夏の日の午後、母も父も不在の、だからおそらくは平日。わたしは最下段に並んだ文字を文字として読むことができ、読むことができると云うことに驚いた。一冊、取り出し、箱から抜いてページをめくった。読むことができたとはとても云えない。けれどもわたしは、そこに本と云うものがあると知った。そんな原体験とも呼べる記憶に反して、中学でも、高校でも、熱心な読書家だったことはない。本を読むことは習慣になっていたし、同級生に較べればよく読む方で、国語の成績はいつも良かった。それでも、息をするように本を読むようなクラスメートに話を合わせることはできず、国語の教師が朗々と語る読書の悦びもいままで共感できずにいる。その大学のその学部を選んだのも、成績と周囲の推薦に諾々と従ったから。ただ、願書に鉛筆で希望を書きこむとき、あの夏の日のがらんどうの家で読んだ、もう名前も思い出せない作家の文字列を、ほんの一瞬でも思い出さなかったとは云えない。結局わたしは大学で文学を学び、アメリカの小説を論じた。大学を卒業する間際、母はわたしの進路をはじめて褒めた。小説への素朴な憧れを、自分にはそれが読めないのだと云う諦めを、母はわたしに語った。ふみ。母はわたしをそう呼び続けた。ふみ。ねえ、ふみ。あなたはわたしの自慢の娘。ふみ。母はわたしをあやこと呼ばなかった。

学生時代、打ち込んだものはありますか?

 小説を書いたことがある。大学二年生の夏休み、自分はいまありあまる時間を抱えていると思って、しかしどう使えば良いのかわからずに、文学徒だからと云う理由だけでわたしはペンを執った。死んだ父親の書斎を掃除するうちに出生の秘密を知る。確かそんな筋立てだった。落ち着きのない語りと具体性に乏しい描写、私小説もどきの退屈な構成。わたしはその小説を彼にだけ読ませた。面白いねと彼は云った。書店のバックヤードで、わたしたちはふたりきりだった。彼の指が原稿用紙をなめらかにめくる。HBの鉛筆が綴る文字列は作品に不足した自信を喩えるかのように薄い。文字数にして5000字弱。それでもわたしにとっては途方もなく長い旅路だった。面白いねと彼はまた云う。小説が? それとも、この状況が? 給湯室で薬罐が沸騰し、笛の音が聞こえる。わたしは最後の原稿用紙を奪い取る。どうして、と彼は云う。やっぱり、とわたしは云う。恥ずかしいから。彼の手は残された紙束を握る。文字列に皺が寄る。彼は顔を上げる。わたしを見る。薬罐が沸騰している。

学生時代、バイトをしていましたか?

 暮らしていたアパートから交叉点を対角に渡ると大きな書店があり、雑誌や文庫なら生協よりもそこで買っていた。雑誌の棚の隣の柱にバイトを求める張り紙があって、ただし募られていたのは高校への教科書の搬入だったはず。春のはじめ。ちょうどスーパーのレジ係を辞めたばかりだったわたしはこんなに近くでバイト先があったことにようやく気が付き、その場で彼に声を掛ける。わたしは右手に買うつもりの文芸誌を抱えている。小説が好きなんですか、と彼は問う。好きでなければ務まりませんか、と不安を述べる。まさか。彼は笑う。本との付き合い方はいろいろありますからね。簡単な面接がすでにはじまっている。

あなたの名前を教えてください。

 エプロンに付いた名札から、わたしは彼の名前を知る。

あなたを成長させた経験について、具体的に述べてください。

 大学を卒業しても、わたしは就職が決まらなかった。面接を受けるたびにわたしは自分が読書家だったと主張した。小説が大好きだったので文学部に進んだと述べた。本を愛していたので書店でバイトしていたと語った。はい。家の本棚には文学全集がありました。はい。両親も熱心な読書家でした。わたしは御社で刊行されている小説に導かれるようにして育ちました。はい。あやこと名付けたのは母です。嘘をつくことに躊躇いはなかった。それが嘘であることもわたしはよくわからなくなっていた。書店のバイトをしながら、わたしは出版社や印刷業者に断られ続けた。本を読まなくなった。修士論文にかかりきりになった彼は書店に顔を出さなくなった。

あなたの好きなものについて語ってください。

 実家のリビングは庭に面していた。午前中は陽の光が窓に切り取られて綺麗な菱形をカーペットに投げかける。そのカーペットの温かな感触。柔らかな毛先。その先端ひとつひとつがきらめくようだ。最下段に引っかかった光が文学全集の背表紙を照らす。わたしは寝転がって、そのタイトルを、作家の名前を、逆さまに読み上げる。本を手に取るたびにタイトルと作家名を口にする癖を彼に指摘されて、わたしは初めて、目の前の物体を本だと理解したあの夏の日を鮮明に、ひと続きの記憶として思い出す。本好きな家庭だったんだね、と彼は云う。わたしは頷くことができない。わたしの手に持っている本の背表紙を彼はなぞる。タイトルと作家の名を呼ぶ。帰りのバスは空いている。彼はわたしに僅かに近寄る。彼がわたしの手に触れる。わたしの名前が呼ばれる。

質問は以上です。ありがとうございました。お帰りはあちらから。