鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

何回目かの眠れない夜

 実家、と云っても賃貸なのだけれど、年内に引っ越すと云う。既存の家に移り住むのか、新しく土地を買って建てるのかはまだわからないが、実家を離れることは決定したらしい。同居していた祖父母は何年も前に亡くなって、息子ふたりが曲がりなりにもそれぞれ社会人と大学生になったいま、両親ふたりで住むにはいささか手広すぎるらしい。祖父母が亡くなったときぼくは泣かなかったけれど、実家が実家でなくなることはたまらなく悲しくて泣きそうになっている。物心ついた頃から住んでいる家だった。賃貸と云う概念を知る前からそこで暮らしていたから、子供部屋には小さな頃つくった画鋲の穴や玩具をぶつけた凹みやセロハンテープを剥がした痕がいたるところに残っていた。大学に入学して京都に住むようになってからは父親の書斎に改造されたけれど、それら過去の痕跡が塗り替えられたわけではなく、むしろ痕跡は積み重なっていった。これが場所の記憶と云うものか、と思う。リビングで父が座る所定の位置にいつもできている絨毯の皺とか、パソコンを使うときはそこでと決められているダイニングのたぶん十年以上動かされていないテーブルのフローリングへのめり込みとか、そこにあることはわかっていても取り出す気がおきないまま五年が経過した冷蔵庫の裏に落っこちたレシートとか、そう云うものは微妙に形を変えつつもずっと降り積もってゆくばかりだと思っていたから、そう云うものがもうなくなってしまうのだと思うと悲しい。けれど思えばそう云うものはずっとなくなり続けていて、たとえば小学校の頃から祖父母が亡くなるまでずっと家に帰るたび、思いドアを片手で開けて部屋の中に誰がいるのかも確認しないまま声を張り上げて云い続けた「ただいま」は日中の家で誰も待っていなくなってからは云うこともなくなって、こたつに潜って宿題を解きながら再放送される『相棒』や『科捜研の女』を見ていたあの平日に午後はもう二度とない。それらが輝かしいものだったとは思わないけれど、もう二度とない、と云うことを考えるにつけ、たまらない感情に襲われる。そう云うとき、ぼくは眠ることができなくて、実家でも、正月休みも明けて実家から下宿に帰ってきてからも、ぼくは夜明け近くまで眠ることができないでいる。
 実家では、休学明けてからの進路についても話した。なんとなく院進すると周囲には云い続けてきたし、休学する際も外部院進へ向けて勉強するためなどと教授に云っていたけれど、年末にかけてその気持ちはすっかり萎えていた。ずっと一回生のような、興味を持った分野の本をペラペラ捲るのは楽しいけれど、その分野に分け入って研究してゆく自分をどうしても想像できない。多くの大学生がそのための態度を身につけるべき4回生を、ぼくはコロナ禍と、コロナ禍に対してろくに対策を立てない研究室へのストレスで潰してしまった。これから院進するにしても、それは就職活動からの逃避以上のものではないだろうと思った。では就職するのか? これも苦痛だ。就活のためのサイトや広告には胸焼けして吐き気を覚える。すべての言葉が空疎に目の前を過ぎていった。止まってしまった自分以外のすべてがあまりに素早く動いていって、その流れに戻ることができない。一回生の頃からお世話になっていたサークルの先輩たちは大学を卒業し、就職してゆく。ぼくはいつの間にか上回生になっていて、けれどいつまでも「期待の新鋭」でしかない。何か手応えのあるものをぼくは残していなかった。ずっとサークルの下回生の気分で、進路と云うものをすべて遠ざけたいのが正直な気持ちだ。
 結局、苦し紛れに思いついた公務員試験と云う進路をとることになった。自身も公務員だった母親はすっかり乗り気で、ぼくが和歌山県林業を担当する県庁職員になると云う将来設計を既定路線として話すようになった。いつの間にそう云うことになったんだろう。公務員が楽な仕事と云うイメージはとっくに時代錯誤らしいが、やりたい仕事もないなかで、公務員をしていた母親のようになることは、悪くない選択かも知れないとは思った。けれどきょう、教養試験の問題集を買ってきて、これに手をつけてしまえばひとつの選択肢を握ることになるのだと思って怖くなった。もちろん、今年受験するならいまから手をつけても遅すぎるくらいだ。受験するにしても遅すぎる、と云うことが、またぼくの胃を締めつけて、肩にのしかかる。今夜も眠れそうにない。目安は1日8~10時間の勉強だそうだ。
 しかしもし、院進をやめて就職するならば、サークルは今年いっぱいで卒業することになる。ぼくは何も残せていない。何か残さなければならない。そう思ってミステリーズ新人賞と鮎川哲也賞の応募を決めたけれど、何を考えても、何を書いても、ものになりそうにはなかった。ミステリーズ用の短篇は、プロットまで考えて、書き出しに手をつけたときにすべてゴミ箱へ棄てたくなった。昨年取り組んでいた『文体の舵を取れ』や『文章練習』の甲斐も空しく、文章はどんどん下手くそになっているとしか思えない。時間を無駄にしている、と云う焦りが募る。残り時間は少ない。けれど、なんの残り時間が?
 一回生の頃に書いた犯人当て「鴉はいまどこを飛ぶか」を最近、読み返す機会があった。素朴なぶんだけ、いまよりずっと伸び伸びとしていて、ミステリ小説としての技巧も凝らされていた。もうこんな小説は二度と書けないのだろうか、と思う。もうあそこには二度と戻ることができない。発表したのは夏合宿の夜だった。あの夜、いつかこんな夜を迎えるとは思いもしなかった。いまひとつ距離を掴めなかった同期たちが作品を褒めてくれて、同期同士で会話を弾ませて、なんとなくこのままずっと、何年もこんな夜が続くのだと思った。どこかの宿の大部屋で、あるいは大学のBOXで、先輩や、後輩も一緒になって、夜更けまでミステリの話で無邪気に盛り上がる、そんな眠れない夜が、いつまでも、繰り返し、変わることなく。