鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

小森収『短編ミステリ読みかえ史』第116回のハーラン・エリスン評に対する批判

 半年も前の記事にいまさら文句を付けるのもうざったらしい真似ですが、しかし『愛なんてセックスの書き間違い』がめでたく刊行され、『危険なヴィジョン』完全版がこれまためでたく刊行される運びとなり、ハーラン・エリスンがにわかに盛り上がりを見せ始めたいまだからこそ、批判すべきものは批判しておこうと思い立ちました。

 問題にしたいのは次の記事です。

www.webmysteries.jp

 『短編ミステリ読みかえ史』とは、ミステリ評論家の小森収東京創元社のwebマガジン《Wedミステリーズ!》で連載している企画で、海外短篇ミステリの歴史を追いながら毎回様々な作家や作品を紹介していくものです。短篇ミステリが好きな身としてはこの企画の趣旨は非常に面白く思っていますし、以下でおこなう批判も、企画全体に向けたものではありません。

 ただ、この連載の第116回で語られた内容について、異議を申し上げたいのです。

 

 問題の記事を箇条書きでまとめると、以下のようになります。

  • エリスンはミステリの書き手でもあったことの説明
  • エリスン作品の紹介(「鞭打たれた犬たちのうめき」「ソフト・モンキー」「世界の中心で愛に叫んだけもの」「101号線の決闘」「サンタ・クロース対スパイダー」「プリティ・マギー・マネーアイズ」「「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった」「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」)
  • 作品にはいずれも好意的ではない
  • エリスン作品は《単に本質をはずれた技巧の末路を示しているだけ》にしか見えない
  • エリスンはそのキャラクターで受けたに過ぎない
  • エリスンの名前は『危険なヴィジョン』の編者として残る
  • ゼナ・ヘンダースンの紹介

 最後のヘンダースンについてはここでは言及しません。

 さて、エリスンの熱心なファンでなくとも、ある程度SFに親しんでいる方であれば、取り上げられた作品を見て何かおかしいことに気付くはずです。

 「死の鳥」は?

 エリスンは傑作を多くものしましたが、「死の鳥」が技巧の点でひとつの極地に至っていることは、少なくない方に同意してもらえることと思います。少なくとも、ハーラン・エリスンと云う作家を語る上で取り落としてはいけない作品であることは確かでしょう。これを表題作とした短篇集も出ており、ただでさえ作品数に反して翻訳が少ないエリスンを語るために、これを外す手はありません。

 しかし、記事中では、「死の鳥」には一切、言及されない。同題の短篇集もです。

 なぜ?

 「死の鳥」は冒頭に読者への挑戦とも読める記述があり、事実、まるで読者を試すようにしてパズルのように複雑な構成を取っています。様々な手がかりを拾い集めながら、何が描かれているのかを解き明かす楽しみ――これはミステリにおける犯人当てにも通じるでしょう。ミステリのパズル性が、意図してか偶然にか、SFで発揮された例としても本作は読めるはずです。

 こんな特異な傑作に一切触れることなく、エリスンのことを彼はキャラクターで受けたのだ、編者としての名前が残るのだ、と云う、まるで作品には価値がないかのような書き方で紹介するのは――しかも、SFには馴染みがないひとも多いミステリ読者に対して――、プロの書評家の仕事として、かなりお粗末ではないでしょうか。

 他にも、「死の鳥」とはまた違った手法で技巧を凝らした「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」や、いつもの鮮烈な語りを抑えた切ないファンタジイの佳品「ジェフティは五つ」のような作品を取り上げていません。どうも『世界の中心で愛を叫んだけもの』を中心に作品を紹介しているようですが、『死の鳥』と読み比べればわかるように、あちらは玉石混淆の感があり、作家を論じるに当たって適切なものとは云えないでしょう(序文は、エリスンの当時の思想を知る上で重要なものですが)。

 さらに、エリスンについては長らく初期の犯罪小説を中心に集めた『愛なんてセックスの書き間違い』の刊行が予告されていました。記事公開当時は未刊でしたが、ミステリの流れにおけるエリスンを紹介するのであれば、触れておきたい部分でしょう。『愛なんて~』を直接挙げずとも、50年代から60年代にかけてエリスンがミステリに比重を置いていたこと、あるいは、ミステリ作家としてのエリスンの業績はあまり本邦で紹介されていないことくらいは触れておくのが、順当な「ミステリ史の読みかえし」では?

 国内ではミステリ作家として認識されていなかったエリスンを、せっかく『短編ミステリ読みかえ史』と云う題のもとで扱うのですから、これまでの歴史認識を改めるようなエリスン紹介をしてもらいたかった。だのに、記事内ではエリスン作品についてSFとして評価するばかりで、いちハーラン・エリスンを敬愛する身からしても、いちミステリファンの身からしても、たいへんがっかりさせられました。

 いまからでも遅くないですから、『死の鳥』と『愛なんてセックスの書き間違い』を踏まえた上で、もう一度エリスンについて論じてもらえれば、こちらの失望は幾分マシとなるのですが……。

 

 とは云え、いまさら論じ直したところで、有意義なものになるとも思えないのが、いっそう残念なところです。以下、もう少し細かく、小森収によるエリスン評を見てみましょう。

 はじめに、「鞭打たれた犬たちのうめき」について。都市の暴力に巻き込まれた果てに主人公は新たなる神の現出を目撃します。それに対して小森収は、

 初読時もそうでしたが、むき出しの暴力にさらされた都会の孤独と恐怖は、肌に迫るものがあります。ただし、十代の私が、なぜ、こういう結末になるのだろうと、訝しく思ったことは確かで、今回読み返しても、結末は釈然としません。共同幻想としても、それなら、なぜ、それがメンバーの安心と安全を保障するのかが分からない。本当に超越的な何かがあるのなら、ずいぶん安易で都合のいい超越者ではないでしょうか? それに、冒頭の殺人を見守る人々の心の中が一様だと言われて、はいそうですかと納得するほど、もう子どもでは、私もありませんからね。

 最後の嫌みたらしい一文が苛立ちを誘いますが、まあそこはそれ。こちらも批判するのにですます調をでおこなっているのですから、嫌らしさはどっちもどっちです。

 まず確認しなければならないのは、エリスンが描いているのはリアルな都市のスケッチではなく、無関心と暴力が錯綜する現代都市のカリカチュアだと云うことです。実際は遙かに複雑な力学が働いている都市から、無関心と暴力の構図を抜き出して叩きつける。過剰なまでに饒舌な文体、強烈なリフレインが、その異様さを煽ります。この抽出に「実際はこうじゃないから駄目」で返すのはいささか本質を外しているでしょう。私たちの中には、大なり小なり、暴力的な側面、冷酷な側面がある、そこを増幅して見せたのが本作なのですから。

 なぜそう云えるのか、と云う問いには、過剰だから、と答えることになると思います。過剰に書くのであれば、過剰に書くだけの理由があるはずです。いたずらにスタイルを批判する前に立ち止まって、それでもなぜこのスタイルを用いたのだろう、と考えるのが誠実な読書ではないでしょうか。《単に本質をはずれた技巧の末路を示しているだけ》と云ってしまう前に、小説のスタイルの追及について、考えるべきことがあるはずです(これは小森収に対してだけでなく、文体に対して比較的無頓着なことが多いミステリの書き手・読み手に向けたことばでもあります)。

 そしてもう一つ。この結末で現出する神を、エリスンが肯定的に描いていたとは思えません。小森収の云うように、確かに、ここで書かれていることはおかしい。現代の都市で、防犯錠なしで眠ることなどできるわけがない。しかし新たな神によって安全がもたらされるのだと云う。だとするとこの神は、都市の安全を守るどころか危険に晒す、気の狂った存在なのではないか? 都市で新たに創造されたのは秩序ではなく神話であり、それはあくまでも虚構に過ぎない。この気持ちの悪さ、危うさまで含めて、本作は都市の戯画として面白く読めるのです。

 私も、はじめからこのように読んでいたわけではありません。最初に読んだときはわけがわからず、しかしそのどす黒い暴力性と想像以上の奥行きに惹かれて繰り返し読む内、すとんと自分の中で腑に落ちた考えです。とても読み巧者とは云えない自分にとって、その過程で「死の鳥」は補助線として不可欠でした。どう補助線としてはたらくかは言及しません。読めばわかると思います。

 やや話は戻りますが、「死の鳥」はエリスンの思想を知るためにも重要な作品です。これを取り上げないのは、返す返すも残念でなりません。

 

 次に、「ソフト・モンキー」。黒人の老女が強盗に追われるクライム・サスペンスの傑作です。エドガー賞受賞作。これについて小森収は、

ここには、暴力と隣り合わせにニューヨークの底辺で生きる危うさが、確かに描かれてはいます。しかし「鞭打たれた犬たちのうめき」にあった、ひりひりするような恐怖はありません。そもそも、彼女の口封じを狙う男たちの行動に、いささか無理がある。殺しては、間違いだったと気づくのくり返しだったのでしょうか。だとしたら、ずいぶん愚かではないでしょうか。まあ、この結末では、少々ほのぼのとなってしまう(そのこと自体は、必ずしも悪いとは思いません)のは、無理のないところでしょう。

 ひりひりするような恐怖感では「鞭打たれた犬たちのうめき」に及ばないことは事実でしょう。しかし、その後の評がおかしい。前述しましたが、エリスンの描く都市は、そのいち側面を増幅させて提示したものです。それに、私はとてもじゃないですが、黒人の老女が虫けらのように殺されていく激烈な黒人差別社会の描き方に対して「無理がある」とは云えません。

 加えて、結末に対する「ほのぼの」と云う形容も、決して間違っているとは云いませんが、いささか見当外れだと感じます。暴力と悪意が渦巻く都市で、与えられた思いやりをアニーは拒んで、人形の坊やを抱きしめる。この歪な愛の光景は――「鞭打たれた犬たちのうめき」が幻視したような奇妙な超越者に頼ることなく、おのれでおのれを守り、救う、このアニーの姿は、いっそ神々しく映ります。

 

 「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」や「プリティー・マギー・マネーアイズ」についても、問題があります。あのタイポグラフィックな表現がこんにちではいささか古びて見えるのは確かに事実でしょう。しかし、それでもなお古びない文章技巧を見ることなく、表面を雑になぞり、中心の構図を見て腐すのは考えものです。アマチュアブロガーならまだしも、プロの書評家の仕事とは思えません。

 一応、小森収は「世界の中心で愛を叫んだけもの」にこう云っています。

しかしながら、私には、この小説の示すヴィジョンが、よく分からない。愛と憎悪、暴力と平和といったものは、相反しないとか、ともに在るといった程度のことで良ければ、それは問題がないのですが、それなら、そう言ってしまった方が早い。私がエリスンのSFを読んで行きつくのは、大山鳴動鼠一匹。もっとも、その大山鳴動ぶりが面白いというだけでいいのなら、問題はありません。

 好意的に解釈すれば、「文体が好きなひとなら問題ない」となるでしょうか。小森収エリスンの文体がそんなに好きではないのでしょう。それでも取り上げなければならない事情があったのならば、その内心の苦悩をお察しします(が、だからと云ってお粗末な評論を書いて良い理由にはなりません)。

 しかしそれでも、「大山鳴動して鼠一匹」と云う評価は酷い。エリスンが描くテーマはその技巧の複雑さに反して確かにナイーヴですが、そのナイーヴなまでの情念があの複雑な技巧で描かれるからこそ肺腑を突くのです。テーマに対してスタイルの必然性がわからない、と感じても、それでもなぜそう書いたのか、一歩進めて考えれば、見えてくるものもあるでしょう。わからない、と云って批判するのは誰にだってできます。

 と云うか、これは思いきりミステリに返ってきてしまう批判であることをわかっているのでしょうか。明かされてみればシンプルな構図も、複雑な論理や因果の絡み合いの果てに、それらがひとつの像を結ぶからこそ衝撃を与える――そんなミステリは少なくないはずです。ミステリやSFに限らず、シンプルな言葉を、しかしそれでは語り尽くせないと思ったからこそ技巧を尽くして語り上げる、それは小説のひとつの在り方であると思います。テーマと技巧についての《それなら、そう言ってしまった方が早い》と云う言葉は、ミステリ評論家として、ひいては小説を論じることを仕事にしている人間として「あり得ない」と云っておきましょう。

 

 エリスン評の最後に、小森収はこう述べます。

遠目から眺めただけにすぎない私の感想です。

 自分にとってSF作家エリスンが手に余るのであれば、ミステリとの関わりを取り上げるなどして、自分に近づける方法はあったはずです。遠くからしか眺められないのならば、遠くから眺めるなりに語れることもあったでしょう。粗末な評論を書くくらいならば、黙っていて欲しかった。遠くにあるものを遠くから眺めているだけなのに、本質を外れたことをのたまい、《遠くから眺めただけにすぎない》と云い訳じみて終わらせる、それはあまりにも不誠実です。

 

 私は、ハーラン・エリスンと云う作家が大好きです。その破天荒なキャラクターだけでなく、彼の小説が、彼の文体が大好きです。

 そんなファンの存在を無視して、そのキャラクター性によって評価されたとし、エリスンの名前は『危険なヴィジョン』の編纂者として残る――と云ってしまうのは、作家に対しても、ファンに対しても、ファンのみならずエリスンを評価する人びとに対しても、随分と馬鹿にした態度でしょう。作家のカリスマ性だけで伝説になれるほど、SFは甘いジャンルではありません。

 

 小森収と云う評論家への信頼が、この書評で一気に消えました。

 

 小森収は2019年に東京創元社から刊行が開始されると云う海外ミステリ短篇アンソロジーの編者を務めるそうです。企画そのものは非常に楽しみであり、選ばれた作品に罪はありませんが、大好きな作家に対してプロの書評家としての姿勢を疑うような評論を書いてしまった方が江戸川乱歩と肩を並べるのか――悲しいかな、エリスンにも通じるアンソロジー編纂と云う仕事で、です――と、いまから複雑な感情を抱えることになりました。

 

(敬称は全て略しました)