鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/02/05~02/11 カルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』ほか

有栖川有栖『長い廊下がある家』『妃は船を沈める』(光文社文庫

「いい心掛けだ。力余って尻餅を搗くようなスイングは見ていて気持ちがいいからな。もっと大きなものをひっくり返してくれ。有栖川有栖ならできるだろ。マジックじゃなくて、イリュージョンが見たい」

――「長い廊下がある家」

「なんて不思議な推理でしょう」目が虚ろだった。「砂の上に築かれた楼閣なのに、ちゃんと建っているように見える。建つわけないのに。あなたは、どこからでも、どうやってでも、解いてしまうんですね」

――「残酷な揺り籠」

 連続して読んだので、まとめて感想を述べる。『白い兎が逃げる』同様、光文社文庫の新装版で読んだ。と云っても、内容としてはあとがきも解説も旧版から再録しており、変化と云えば巻末の著作リストと表紙くらいのようだ。けれども表紙の変化と云うのは馬鹿にならない。帽子や靴、手袋と云った小道具が前面に出される落ち着いたトーンの表紙は〝モノから語る〟と云う探偵小説のある種の技法を思い起こさせる。探偵は残されたモノ――死体、現場の証拠、繰り出される証言――から、過去に何が起こったのかを推理するのだ。モノは事件の痕跡であるがゆえに過去へと接近するための手がかりであり、ゆえに探偵小説はモノから語られる。この点を踏まえているのかどうか、いずれにせよ小道具から構成された一連の新装版表紙はぼくにとって探偵小説の真ん中を象徴するものであったし、それは同時に、有栖川有栖と云う作家をも象徴する。なんとなくミステリが読みたいな、と思ったとき、彼の小説は必ず期待に応える――大好き、と云うほどでもないのについ読んでしまうのは、そのまっすぐさゆえだ。
 もっとも、まっすぐであることは陳腐であることを意味しない。歴史家ではなくあくまでも犯罪学者である火村が殺人者と正面から対決する「ロジカル・デスゲーム」において、事件は火村の目の前で、火村自身を当事者として進行するし、あるいは「猿の左手」において重要な手がかりとなるのは事件と直接的な関係のない短篇小説の読解だ。小説家は新たな趣向を試みては手堅くまとめ上げる。もっともその挑戦を支えているのは、マンネリを脱すると云う撤退的な意志ではなく、思いついたことを実践してみたいと云う素朴な好奇心ではないか。そしてそれもまたこの作家の、まっすぐさと云うべきだろう。この点において、アイデアの実践が画的なインパクトをもたらし、見えていた景色が文字通りがらりと反転してしまう「長い廊下がある家」を、個人的にはもっとも面白く読んだ。ただ事実を説明しているだけであるのに妙な不気味さを与えるタイトル――『妃』の解説でも触れられているが、有栖川有栖はタイトルがうまい――や、かなり無理やりな舞台装置を《神よ、地の底でさまよう者を救いたまえ》と云う祈りによって作品の象徴に落とし込んでしまうあたりも流石のわざだ。
 けれども一方で、そうしたまっすぐさがもたらす残酷――人間をモノへとおとしめてしまう残酷を、有栖川有栖は自覚している。そのバランス感覚はときとして説教臭いと感じないではないが、たとえば作中で地震を起こす「残酷な揺り籠」において、そうした自覚はじつに良く発揮されていると思う。

 

カルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』(みすず書房

歴史家たちは(そして、様式こそ異なれ、詩人たちも)万人の生の一部をなしているものを職業としている。わたしたちがこの世に存在するということのプロット〔筋立て〕をなしている、真実のものと虚偽のものと偽って真実であると見せかけているものとの絡み合いを解きほぐすというのが、それである。

 藤原辰史先生の講義を受けていることはここでも何度か書いているが、そこで紹介されたいくつもの歴史書のなかで紹介されたのがカルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』だった。同時期、たぶんそれよりすこし前だったと思うが、同じく講義で紹介された『記録を残さなかった男の歴史』を読みながら、探偵小説における探偵の仕事は、手がかりから過去に起きたことを起ち上げると云う点で歴史家に漸近するのではないか*1、と云う旨のツイートをしたらフォロワーからギンズブルグを薦められた。そんなわけでギンズブルグを読みたいな、と思っていたところに、『糸と痕跡』と云うどんぴしゃりなタイトルを見つけて手に取った次第だ。何が「どんぴしゃり」か。今年のはじめに読んだ『ラインズ』で、ティム・インゴルドが分類していたふたつのラインこそ、それ自体が独立した線としての〝糸〟と、表面に残された線としての〝軌跡〟すなわち痕跡だったからだ。線はこのようにして延びて、絡み合う。ぼくが手繰るのは、そのような糸だ。
 そしてギンズブルグが本書で論じるのは、そのような糸――《わたしたちが現実の迷宮のなかに入っていくのを手助けしてくれる物語の糸》――と、残された痕跡との関係である。

 ギリシア神話によると、テセウスアリアドネーから一本の糸を贈られたという。その糸でテセウスは迷宮に入っていき、ミノタウロスを見つけて殺す。しかし、テセウスが迷宮をさまよいながら残した痕跡については、神話は語っていない。

 正直なところ、本書を読んでその関係を把握できたとはまったく云えない。文学作品から過去を探ること、あるいは物語的な叙述と歴史叙述との関係を論じる本書自体、引用には慎重にならざるを得ず、結果としてその文体は磨りガラスを何枚も重ね合わせながらそれでもなにがしかを見定めようとするようなもどかしさと複雑さがある。読めば読むほどそのガラスには指紋がべたべた貼り付いて、過去はますます遠ざかるような気がする――。具体的な仮想敵や論争の文脈、実践のあり方をまるで把握しないまま読む本ではなかったと反省させられた。それでも最後まで読んだのは、くねくねと折れ曲がりながら文献と文献のあいだを往還して織り上げてゆく、著者の筆致が読んでいるうち、面白くなってきたからだ。数頁ほどは声に出しさえした。
 ――それはたぶん、これがぼくの文体と近いからではないか。
 歴史学についてなにがしか読むたび思い知らされるのは、何枚もの磨りガラスを隔てたその叙述はいかにも曖昧で、実のところわれわれにとって、過去とはひどく不確かなものであると云うことだ。けれどもそれを云うならば、あらゆる学問がそうである。われわれが手にできる確かな手がかりのなんと少ないことだろう。しかし「ほとんど」不可能であることは、「まったく」不可能であることを意味しない。真実とはなんであるのかと云う問いをいたずらに相対主義へとうっちゃることなく、真実を記そうとする営みに巻きこんでゆくこと。ギンズブルグの思想も実践もまだまだわからないと感じるが、とりあえず読み続けようと思った。この手応えはそう、ちょうど昨年、『生きていること』を読んだときのそれと通じている。こちらのほうが断然、手探りだけれど。

*1:もっとも、それでも両者が一致しないところにミステリをミステリたらしめるものがある、と思っている

読書日記:2024/01/19~02/03 J・D・サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』ほか

J・D・サリンジャーナイン・ストーリーズ』(柴田元幸訳,河出書房新社

まずやったのは、鉛筆で十点あまりスケッチを作ることだった。紙を取りに講師室へ下りてゆく代わりに、自分の便箋を両面とも使って描いた。それが済むと、長い、ほとんど終わりのない手紙を書いた。

――「ド・ドーミエ゠スミスの青の時代」

 訳者あとがきで柴田元幸は本書の翻訳作業について「訳している」ではなく「聴いている」と表現している。そのあとでミルハウザーとのサリンジャー語りを思い起こしながら云うことには、「サリンジャーは耳がいい」。なるほど、その筆致は音の響きを的確に捉えているだけでなく、交わされる声と声の微妙なすれ違いや、云いたいこととと話されていることとの引き裂かれるようなずれをも聴き取っているかのようだ。サリンジャーは――そして、訳者も――耳を澄ましている。そう思った。けれどもそれは、落ち着いていることを意味しない。むしろ、いまにも千切れてばらばらになりそうな世界に対し、ひたすらにその声を聴き取ろうとすることで、かろうじて繋ぎとめようとしている、そんな緊張が全篇に漲っている。ただの会話が、ずれた言葉が、どうしてこんなにも痛ましいのだろう。われわれは心の底から通じあうことなど決してない。他者と、世界とのあいだにはつねに拭いきれない違和が存在して、誰も彼もが裏切られて傷つきながら、この痛みは誰とも共有できない。本書に収められた短篇はどれも、亀裂の走ったガラスのような鋭利で透きとおった痛切さに満ちている。
 けれども同時に、それゆえに、本書は、伝えると云うことの究極的な――、なんと云えば良いのか、尊さ、をも掴み取っているのだと思う。語ること。聴くこと。言葉を交わすこと。言葉は事物を捉えるためにはあまりにも不完全であり、思いは決して伝わらない。けれどもそれでもわれわれは、言葉によってでしか伝えることができない。いかにも陳腐な表現だけれど、それはもうほとんど祈りのようなもので、ぼくはそこに懸ける小説の書きぶりに読んでいてひたすら圧倒された。戦争体験と云う極限的な痛みを扱った「エズメに、愛と悲惨を込めて」において、とりわけそれは顕著だ。張り詰めた神経がわずかでも緩めば呑みこまれ、引き裂かれるような緊張のなか、一通の手紙を読むことによって彼は救われる。いや、それは救いのさらに一歩手前、かろうじて掴み取られた一縷の光だろう。小説の幕切れ、これが小説であると同時に手紙であることを思い出すとき、作者が手紙を通して語りかけるとき――、そのとき、語り手が語ったこと、語らなかったこと、語り得ないこと、エズメたちと出会ったこと、交わした言葉、過ぎ去った時間、手紙が遅れたこと、それでも届いたこと、時計、「神よ、人生は地獄です」、ハローハローハローハローハロー、そして、エズメが結婚すること。その一切が押し寄せる。言葉が届く、と云うことについて書くことを、これほどまでに短く、精緻で、深く達成した小説を、ぼくはちょっと思いつかない。読んでしばらく、ずっとこの小説のことを考えていた。

ねえエズメ、人間ほんとに眠くなれるならね、いつだって望みはあるのさ、もう一度機――き・の・う・ば・ん・ぜ・んの人間に戻る望みが

 ところでこの部分、よく知られた新潮の野崎訳と比較したところ、柴田訳のほうが断然、鮮やかな印象を残した。個人的に、あんまり相性の良い翻訳家ではないのだけれど、こう云うところを見せつけられると、やっぱり名翻訳家だな、と思う。あと、現代的な言葉で訳されるがゆえに、野崎訳はすでに古びてしまっている感がある。その時代ごとに、新しい言葉で読み直されるべき小説なのかもしれない。ずっと読まずにいたものを新訳文庫化を機にようやく手に取ったわけだけれど、このタイミングで読んで良かった、と思った。

 

 この表紙、いったいなんの絵だろうと思っていたけれど、ここに貼りつけていくらか遠くから見て気づいた。抽象化されているけれど、これ、――横顔か。

ケヴィン・リンチ『時間の中の都市』(東京大学大谷幸夫研究室訳,鹿島出版会

いたるところに時間のサインがある。

 ケヴィン・リンチは別の本――『廃棄の文化誌』――でも読書会をしているが、こちらのほうを先に読み終えてしまった。その読書会で聞いたところでは、都市計画の分野において、リンチはかなり尊敬されているらしい。わりと観念的なことをかたる『廃棄』のほうではピンとこなかったけれど、それは本書で理解できた。明晰で、具体的なのだ。地に足が着いている、とでも云おうか。都市論と云うといくらでも抽象的なことを云えるなか――もちろん、それはそれで楽しい――リンチは最初にいくつかの都市の事例を取り上げながら、具体的な観察と明晰な議論に基づいて、都市の姿を、そのあり得べき未来をさぐる。実践の段に至っては根本的な制度・文化の見直しを図るのでどうにも非現実的で難しいところはあるが、云っていることは基本、真っ当だ。いかなる開発も空間だけの問題ではないこと。そこには時間が流れており、むしろ時間によって都市が造られていること。過去をどのように記憶し、未来をいかにして示すか。人びとの内面的な時間と、時計によって規定される外部の時間をいかに調停するか。とりわけ、時計の針や俯瞰的な地図によっては記述できない内的な時空間と云う考え方や、絶えず変化し続ける世界と切り結ぶと云う生のあり方はインゴルドを彷彿とさせて面白い。内容そのもの以上に、スタイルはまるで異なっているのに、住まうことについて考えるなかで、同じような結論に達していることが興味深いのだ。これもまた、インゴルドふうに云えば、線を延ばすこと、だろうか?

 

ティム・インゴルド『応答、しつづけよ。』(奥野克巳訳,亜紀書房

生きている世界では永遠に続くものはありませんが、だからこそ、生は無限に続いていくのです。

 曲がりなりにも研究書の体裁を取っていたほかの著作に較べると、いくぶん素直に読めるエッセイ集である。けれども全篇にはインゴルドの思想が満ちていて、本書は彼の思想の、ある種の実践篇なのだとわかる。もとより専門家による学術研究よりも個人個人にとっての生きる実践としての知を重んじる以上、こうなるのは必然だったのかもしれない。
 表題にある「応答(correspndence)」とは、『生きていること』では「呼応」とも訳されていたインゴルド独自の概念であり、周りの事物と切り結んで《私たち自身の介入、問い、反応でそれらに答えるという意味》だ。それは《あらかじめ定められた目的の実現に向かう、定められた一連のステップではありません。むしろ、続ける、そして続けられる手段、すなわち過去を認識し、現在の状況に敏感に反応し、未来の可能性に思索的に開かれた生を他者――人間と非人間のすべての――とともに生きる手段なのです》。線を引く。粘土をこねる。地面を歩く。言葉を交わす。そうしてわたしたちはなんらかの呼びかけをして、相手が、事物が、それに応える。その答えにまた応じるように、呼びかけがおこなわれる。「応答」は決して終わることのない相互的な生成変化のプロセスであり、インゴルドはそれを「文通」に喩える。と云うか、応答(correspondence)とは文通(correspondence)なのだ。

 文通では、すべての介入が返答を招き、すべての返答が今度は介入となるので、そのプロセスには、結論をもたらすような本質的なものは何もありません。生それ自体と同じように、衝動とは継続することなのです。

 このような文通が終わるとすれば、一方の怠惰や無視、暴力的な打ち切りによってだ。逆に云えば、そのような断絶に抗うために、文通はおこなわれる。コロナ禍初期、一週間先の未来さえ見えなくなっていた頃、飛浩隆がエッセイで書いていたことをぼくは思い出した。*1

いま、一丁の切れ味のよい鋏が世界地図をなめらかに切り離しつつあります。国も都市も孤島になる。その中で死と疲弊が跋扈する。
 […]
 ですが――その不確実性の中で、ひとつ約束をしませんか。半年経ったらこの手紙を読み返してほしいのです。そして半年後のようすを私に手紙で教えてほしいのです。そうしたら私もその半年後に手紙を送るでしょう。手紙が一往復するたびに、私たちは一年を生き延びたことを知る。あなたの手紙を待つことで私は日々を生きる励みを得る。

 あるいは、人と人同士でなくとも良い。それはあくまで、世界と関わり続けると云うことだから。そう云えば、漫画家のつくみずはこんなことをツイートしていた。*2 

料理はレシピに頼りすぎず適当にやると物質から直に反応が返ってきて嬉しい気がする DIYも 自分が世界に何かをしようとする度に物性や構造を通してリアクションが返ってくる 孤独を埋めてくれるものは必ずしも人間ではなかった

 「適当にやる」と云うけれど、レシピに頼らないと云う意味で、これはどちらかと云えば「即興でやる」と云うことだ。定められた一連のプロセスを再現するのではなく、その場その場で呼びかけ、リアクション(応答)をもらうこと。その嬉しさ。
 両者は相手が人かそうでないかの違いはあるにせよ、「応答」による励ましと云う点で、おそらく云っていることは同じだ。呼びかける。応える。それはたやすく孤独を埋めてくれ、絶望しない理由になる。とりわけこんな、《一丁の切れ味のよい鋏が世界地図をなめらかに切り離し》つつある時代にあっては。
 インゴルドは云う。

気づかいと自発性をふたたび結びつけようとするのは、たんなるノスタルジーだと言う人がいるかもしれません。しかし私はそうは思いません。私は本書を、どうすればこれができるのかの例として、またそれを達成する上で書かれた応答が発揮する力を証明するものとして示します。それは、過去に戻ることではなく、過去がふたたび未来への道を手探りできるようにすることに関わるからです。地球上の生を存続させ、繁栄させるためには、私たちは周囲の世界に注意を払い、完成と判断力を持って返答することを学ぶ必要があります。かつて手紙を書く際にそうしていたように、人やモノに応答することが、それぞれが自分流でありながら同時に他者を尊重することも忘れない仕方で、生が存続する道を開くのです。

 応答し続ける(correspndences)とは、まさしく持続可能性の問題なのだ。もっともインゴルドの場合、この言葉がしばしば仄めかすような人類の存続を想定していない。あらゆる生物はいつか死ぬし、どんな種族も滅ぶだろう。けれども生は終わらない、終わらせない――応答することによって。悲観的なのか楽観的なのか。現に気候変動で苦しみ、搾取され、抑圧を強いられている人びとに対してはあんまりな思想ではないかとも思うけれど――じっさい、インゴルドの思想は「健康で文化的」であることを前提に置いているきらいがある*3――少なくともいま、ここで、ぼくが生きることを絶望しない理由にはなる。まだ、それだけでじゅうぶんだ、と思う。それがぼくなりの応答であり、ともかくもこれから手紙を書くのは、ぼくのほうなのだから。

追記:同じく最近、本書を読んだと云う巨大健造さんからの提案で、ブログ上で文通をすることになった。詳しくは以下の記事から。ぼくのほうからも手紙を受けつけているので、ぼくと文通したい、してもいいと云う方はご連絡ください。

washibane.hatenablog.com

*1:SFM特集:コロナ禍のいま⑤ 飛浩隆「半年後への手紙」」(https://www.hayakawabooks.com/n/nfae03b7dd6b7

*2:2023年12月4日のツイート(https://twitter.com/lililjiliijili/status/1731401626110628097

*3:たとえば手書きを推奨し、その足で歩くことを薦めるとき、インゴルドは身体障害者のことを念頭に置いているだろうか?

往復書簡:2024/01/31

巨大さんへ*1

 お手紙、どうも。 
 乗代雄介『旅する練習』はぜったいに読もうと思いながら、いくらかのたじろぎによってまだ読めていない小説です。たじろいでいるうちに文庫化してしまいました。なぜたじろいでいるのかと云えば、これまでに読んだ乗代作品――『皆のあらばしり』『本物の読書家』『最高の任務』の三冊ですでに圧倒されたうえで、まだ自分がうまく受け止められていないと感じるからです。彼が熱心に取り上げるサリンジャーについてはついこのあいだはじめて『ナイン・ストーリーズ』を読んだばかりと云う体たらくですし、彼の書くこと/読むことのスタンスには強い共感を覚えながらもそこに一致することを躊躇わせる繊細な凄みがあります。とは云えこれはたぶん、ぼくがいくらか臆病で慎重になってしまったと云うことなのでしょう。いまはじめて小川哲やリチャード・パワーズと出会ったとして、かつてのように素直に受け止め、熱狂することはできないはずです。これは成長でしょうか? それとも退化でしょうか? いずれにせよぼくはずでに、乗代雄介にとってのサリンジャーのような作家に出会ってしまっているのであり、もう線は引かれはじめているわけです。もしも乗代雄介といまいちど向き合うなら、ぼくはいま延ばしているこの線からはじめて、そこへと引いていかなければなりません。書くことと生きることの一致、と云うぼくのしばしば口にする考えは乗代作品から引いてきたことですが、一方でぼくは目下、彼とは違う経路を――少なくとも、明示的に書かれている線とは違う線を――なぞって、その言葉を自分なりの言葉にしようとしています。たとえばインゴルドを読むことはその実践のひとつであり、そこへと繋がり、同時にそこから延びてゆく都市論や庭園論、歴史書を読むこともその一環です。それにまた、落書きしたり、線描したりすることも。
 以前は散歩しながら出会った街角の風景を撮り、写真を見ながらじっくりとスケッチしていましたが、最近は線を引くことそれ自体へ関心が移ってしまいました。スケッチはもっと練習すればもっと精緻な絵を描けるはずですが、その先に目指すものはきっと描く楽しみではあっても線を引く楽しみではないような気がしたからです。どう云うことか。昨年中之島美術館で佐伯祐三の大規模な回顧展がありましたが、初めは風景を描いていた絵が時代を経るにつれどんどん正確であることをやめ、次第にキャンバス上で引かれたいくつもの絵の具の線へとほどけてゆく過程にぼくは驚かされました。それは見たものを描くことから描くことで見るほうへの変遷なのだと思います。この変化は短期間で起こりました。そして、佐伯は最晩年、病床に就いてからも新たな作風の展望を開きつつあった……。インゴルドふうに云えば、始まりも終わりもない、過程それ自体としての線。
 これと同じような線を、ぼくは昨年、京都の国立近代美術館でも目にしました。同美術館で60年代におこなわれていた「現代美術の動向」展を振り返る『Re:スタートライン――現代美術の動向展シリーズにみる美術館とアーティストの共感関係』の入り口近く、すなわち初期の作品群――手によって描かれた抽象画の数々に。ぼくはそこで紹介されていた作家たち――山口長男や宮脇愛子、田中敦子など――の思想的背景や、学術的な文脈も知りません。けれども思うに、彼ら彼女らが目指したのは、最終的に示されるキャンバスの抽象的な構成ではなく、むしろ具体的な線描――目の前にいくつもの線を引いてゆくこと、その過程、その運動ではないでしょうか? 潮流も、芸術家自身もいまだ若いなかで描かれたのは、具象ではなかったかもしれませんが、具体的な素材による具体的な線だった。おそらくはまるで見当外れだろうその確信はやがて、ぼくにインゴルドを、そしてパウル・クレーを思い出させ、いつも画面をじっくり見ながらなるべく正確にスケッチしようとする自分自身を反省させ、いつもより長かった年末年始の休みをきっかけに、実践をすっかり転向させるに至りました。とは云えこれは、スイッチのオン/オフみたいに切り換わったと云うのではなくて、引かれ続ける線がこんがらがりながら先を模索する、その過程の一部に過ぎないのでしょうけれども。
 何の話をしてるんでしたっけ?
 まあ、たぶん、スケッチも続けることには続けます。実を云うと公開していないだけでこっそり続けています(twitterで見かけた風景写真を模写することが多く、あまり表に出すのは躊躇われるのです)。それに、散歩も。町をいっぽいっぽ歩きながら、知らない通りへ曲がり、知らない家々が次々と現われ、その風景はぼくが一歩踏み出すごとに変化しつづけている。そこに散らばる無数の生活の痕跡に、ぼくはいつも満たされるような、圧倒されるような気分になります。かさぶたのように家の壁を覆うトタン板のパッチワーク。その場しのぎで即興的に張りめぐらされた軒下の配線。ちょっとした段差を登るために無造作に置かれたコンクリートブロックと、そのこぼれたふち。道路に大きくはみ出したプランターから伸びる蔦が屋根まで這いのぼっているさま。これらひとつひとつ、その部分部分が、そこで営まれている生の意図せざる記録であり、われわれはみな、そのようにしてすでに書いているのでしょう。巨大さんの仰る意味とはおそらく微妙に違っていると思いますが――そちらはもっと指向性のある、好きなものや大切なことの集積であるように思います――踊りや音楽の素養のないぼくにとっては、こうした微細なことどもに「記憶に拠る生の技芸」が見出されます。ある場所に住むと云うことは、そのような記憶を生みだし、刻みこみながら、その記憶のなかに生きると云うことなのかもしれません。――なんだか書いていてこんがらがってきました。ぼくはこの手紙を、なるべく即興的に書こうとしています。じっくり考えすぎると、返事もできなくなりそうなので。読みにくければごめんなさい。
 こうした町の記憶について書いていると思い出すのは、アンソニー・ドーアの短篇「一一三号村」です。ある場所について記憶の話であり、場所それ自体が持つ記憶の話であったと、記憶しています。微細な記憶の集積が、巨大な広がりを生みだす、そんな短篇でした。これに対して同じ技法を用いながらも、長篇『すべての見えない光』は町全体をひとつの模型に閉じ込めて箱庭にしてしまうようなところがありました。けれども一方でぼくは、微細なことの記憶は微細なことによってこそ書かれるのであって、長篇小説を書くことはむしろ、あのような模型づくりにあたるのではないか――そう考えはじめています。小説は、とくにその技巧を考えるとき、究極的には模型づくりになってしまう。少なくともぼくの書こうとしている探偵小説のような、ひどく人工的なジャンルにおいては。であるならば、模型から脱することではなく、模型によって何ができるかを考えてみたい。
 何やらひとりよがりで取り留めのない結びになってしまいましたが、巨大さんはこのあたり、どうお考えになるでしょうか。そもそも『すべ見え』はお読みになっていますでしょうか。そうでなくとも、以前話した際に仰られていた「一一三号村」の凄さについて、あらためてお聴きできれば嬉しく思います。
 それでは、また。いやな寒さがつづき、流行病も猛威をふるっておりますが、くれぐれもご自愛くださいませ。

追伸:この手紙を書き終えてから、巨大さんの仰る「記憶に拠る生の技芸」について、だんだんとわかってきた気がします。明示的にせよ暗示的にせよ、なにがしかが伝わること、それによって変ってゆくこと。インゴルドの云う「応答」にも通じることに思われます。
 ぼくの云う生の痕跡とはこれと反対に「生の技芸に拠る記憶」なのかもしれません。

*1:と、いきなりはじまったこの往復書簡、と云うか、文通の経緯は巨大さんのブログを参照のこと。いまのところ、巨大さんによる多面指しみたいになりそうですが、鷲羽と文通をしたいと云うかたはご連絡ください。お手紙お送りします。あるいはあなたから送ってもらっても構いません。

読書日記:2023/12/22~2024/01/11 ティム・インゴルド『ラインズ』ほか

 大変な年明けになった。地震、事故、火災。至るところで人びとが、理不尽によって傷つき、命を落としている。世界が音を立てて壊れてゆくような気がする。もうとっくに腐り始めているのかもしれないが。
 私生活においても、熱が出るわ、肺に穴が開くわ、身体的に苦しい出来事が続いた。現在はどちらも回復しており、やっと落ち着いてブログを書けるまでになっている。ご心配をおかけいたしました。

恩田陸『象と耳鳴り』

「街は生き物です。いや、もっというと、都市というのは化け物ですね」

 昨年末に前川淳『空想の補助線:幾何学、折り紙、ときどき宇宙』(みすず書房を読んだ。天文台のエンジニアであり、折り紙作家・研究家としても知られる著者によるエッセイ集で、たいへん面白く読んだ。感想は書きそびれてしまったけれど、いずれまたどこかで語る機会があるだろう。それで、折り紙と云えば――、と連想した。推理小説を折り紙に喩える解説があったはずだ、と。けれども具体的な作品名が出てこず、twitterで情報を募ったところ挙げてもらったのが本書だった。ずばり当たりだ。すばらしい。何かと悪化したtwitterだけれど、情報収集インフラとしてはいまだ強力なところがある。いや、以前からの基盤がまだ壊れていないだけ、と云うべきか。いずれにせよありがたい。実家に帰省してから、早速再読した。
 当該解説は西澤保彦によるもので、パズラーにおけるロジックを折り紙に喩えている。推理は謎を解体すると同時に構築する。それは折鶴を一手ずつ展開してゆくようなものであり、最後には呆気ないほど薄っぺらな一枚の紙が残るとしても、幾何学模様の折り目が折り紙の不思議を思い起こさせる。それは「一枚の折り紙がハサミの切れ目も入れられることなく鮮やかに鶴などに姿を変えてしまう不思議」だ。西澤自身によるものではなく、出典不明の喩えらしいが、推理小説における謎の解体と構築の不思議を巧みに捉えた良い喩えだと思う。
 とは云え本書の場合、謎の解体はあまり重視されない。多くの短篇において謎は謎として姿を現さず、日常のなかの一瞬の亀裂として眼前をよぎる程度で、たいていの場合探偵役を務める関根多佳雄によってそこから謎が見出され、推理はそこからぐるり、世界を裏返すかのように展開される。ふと湧き上がる記憶からまるで違った様相が浮かび上がる「曜変天目の夜」、一枚の風景写真に見出された人間心理の深淵から人類規模のヴィジョンをも覗く「ニューメキシコの月」、幻惑の記憶が合理的な絵解きの果てに奇妙にもいっそう幻惑の光景を起ち上げる「廃園」――。云うなればそれは、そもそも世界が折り畳まれたものであることを明らかにするかのような眼差しだ。あとに残るのは、真っ白で薄っぺらな折り紙ではないのか? 人類が滅んでもなおのこる真っ白な荒野。あるいは、人類をも超越してしまった何ものかの地平。本書の白眉「ニューメキシコの月」や、末尾の異色作「魔術師」が行き着くのは、そのような果てである。
 ハリイ・ケメルマンの古典的傑作「九マイルは遠すぎる」について、むかしサークルの同期が、あれは夢が現実になる話ではないか、と指摘していたことをよく憶えている。この指摘はぼくの知る限りで、どんな「九マイル」論よりも正しくあの作品を捉えている。推理とは言葉と理屈の遊びであり、この意味において、本書の解説で西澤が氷川透を引いて云うように、ロジックとはレトリックである。そして推理は推理である限り空想であり、夢だ。「九マイル」の驚きとは、その夢が現実になってしまう驚きに起因している。もちろんこの驚きとは、一枚の紙からどんなものでも折り上げられてしまう不思議と通じているだろう。けれども本書の場合、この夢は夢のまま留め置かれる。多佳雄たちの推理が確かめられることはめったになく、真実はもやもやと夢のままであり、ゆえにこそ、ひとつの世界像を起ち上げるまでに至る。それでいて理屈は理屈であって、荒唐無稽な妄想ではない。ともすると陰謀論的な誇大妄想へ接近するこの夢としての推理に本書の危うい魅力があり、緊張がある。だとすれば集中でもささやかな、それでいてもっとも大胆な仮説を展開す「幻想」の小説――「象と耳鳴り」が本書の表題作であることも当然と云うものだ(もっとも、作者はバリンジャーに因んでいると云うし、実際これはひとつの暗合、ミステリ読者を惹きつけてやまない偶然の一致に過ぎないのだろうけれども)。

 

京極夏彦『文庫版 狂骨の夢

「中禅寺――とか申したな。小賢しいことを善く知っておる。口先もそれだけ立てば真実になろうぞ。まるで言葉の曼荼羅じゃ」

 読書会の課題本。順番こそ前後したけれど、これで百鬼夜行シリーズの初期五作品を読んだことになる。『魍魎の匣』から次には進まず、数年後に『絡新婦の理』から遡るようにして読んでいった理由はいろいろとあるが、結果としてはこの順に読んで正解だったようだ。と云うのも第三作となる本書は、前半が非常にかったるいからである。順番通りに読んでいれば挫折していたことだろう。ぼくは小説にあまりエンターテイメントを求めるたちではないが、それにしたって限度がある。もとより京極文体とは相性が悪いのだ。やたらに多い改行、その度に乱されるテンポ、これにはこれでリズムがあるのだろうとは思うがどうにもそれに乗り切れない。ストロークではなくドットを一ピクセルずつ置くような書きぶりながら恰好だけ勢いが出ているのも好かない。要するに、文章の身体感覚が合わないのだ。このあたり、相性が悪いからこそ興味深いと云う域にさえ達している。
 とは云え本書の前半は、ろくなイベントも発生しないまま三回ほど似たような話が角度を変えてくり返されるので非常につらかった。小説は冒頭、ふたつの語りが混じり合ったような夢と記憶の告白から幕を開ける。それから、奇妙な殺人の告白。そして今度は、フロイト講義を挟んでこれまた奇妙な亡霊殺しの告白――。起こったことと云えば唯一、不思議な話をする女性が少なくともひとりはいるらしいと云うことぐらいだ。ようやく面白く読めてくるのは、不謹慎な話だけれど現に死体が転がってからで、それでもふわふわと掴み所のない印象は否めない。死体そのものは目撃されないからだ。本書における事件とはほぼすべて告白であり、記録であり、伝聞であり、要するに、言葉による構築物である。
 けれどもこのシリーズにおいては、言葉こそ眼目である。
 そして云うまでもなく、小説とは言葉による造形物だ。もちろん、まじないも。文化も。科学も。
 ゆえに京極堂による「言葉の曼荼羅」が描き出される後半の憑きもの落としの段になると、書きぶりは堂に入って、小説は俄然面白くなる。と云うか、ここにいたってようやく事件は全貌を現すのだ。物語の規模を風呂敷に喩えて、その展開を「広げる」、収拾を「畳む」と表現するが、本書の場合、むしろ前半において風呂敷はこんがらがったかたちで折り畳まれ、後半になってどんどん広げられてゆく。まさかな、とは思っていたが、神話級の話まで出されると乾いた笑いが出る――その発想を笑うことができない歪な現代に対しても。
 困難は分割せよ、と云う。本書の場合、くり返し甦ってくる死者や混じり合う記憶、黄金の髑髏と云った謎を解決するにあたって、事件は途方もない規模まで拡大され、分解されてゆく。そうして広げられた「言葉の曼荼羅」においては、神話の時間も土地の歴史も個人の記憶も水平に並べられ、その茫漠とした言葉の海を、鈍く光る髑髏がひとつ、ぷかぷか浮かんで転がってゆく。あれは玉突きだね。いいや、キャッチボールか。違う、フットボールだ――!*1 そんなゲームの勝者となるのではなく、ゲーム自体に、ボールそのものに、素朴な言葉で痛烈な一撃をお見舞いする「彼女」こそ、この小説の主役だったのだろうと思う。その瞬間は、驚くほど爽やかで快い。
 本書を読んでいて思いだしたのは、ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』だった。どちらも複雑怪奇な謎に対して、同じくらい複雑怪奇な真相が明かされる。それ以外に贅肉はほとんどないソリッドな構成を採っているのに、骨組みが複雑すぎるために全体が膨らんでいる。それこそまさしく骸骨の、妖怪のような異形である。

 

ティム・インゴルド『ラインズ:線の文化史』

人々が思いのままにそのあとを追いかけ、つかまえられるようなたくさんの緩やかなラインの端っこを、私は残すことができただろうか。私の望みは蓋を閉じることではなく、蓋をこじ開けることだ。この本の終わりには来たのかもしれない。でもそれは私たちがラインの終点に到達したことを意味するわけではない。ラインは生命のように終わりのないものなのだから。重要なのは終着点などではない。それは人生も同じだ。面白いことはすべて、道の途中で起こる。あなたがどこにいようと、そこからどこかもっと先に行けるのだから。

 去年からスケッチを始めたのは、インゴルドの思想に触れたことも理由のひとつである。生きることは線を引くようなものだ。それも、フリーハンドの、揺らぎながら、その軌跡を記しつづけるようなラインを。紙の上をひっかくこと。生きた痕跡を残すこと。そこにある始点も終点も、しょせんは見かけのことであり、本当に面白いことは線が延びてゆくそのあいだにある。線を引く、その瞬間に。そのようなことを考えながら、ときに折れ曲がったりこんがらがったりしつつ、これからもどんどん線を延ばしたいと思う。
 と云うわけで、今年はインゴルドの著書をもっと読むつもりだ。手始めに、インゴルドが線について本格的に論じた、こちらを。副題通りの文化史と云うよりも、ここで提案されているのは線の人類学、線の哲学とでも云うべき、大きな構想であって、ひとつの研究領域でさえあるとインゴルドは云う。主として論じられる「線」は三つ挙げられるだろう。記された線としての記述。糸と軌跡。それから、メッシュワーク。これらが線の名のもとに絡まり合い、ときに駄洒落としか思えない飛躍によって結びつけられる。糸から布を編むように、あるいは撚られた糸をほどくように、わかるようでわからないその議論は掴み所がなく、けれどもそれゆえについ追いかけたくなる。その線はどこまでも延びてゆく。書くことから描くことへ、それから、住まうことへ。生は何かに収まろうとせず、自分と関係する無数のラインに沿って世界を貫く道を糸のように延ばしていく。
 とは云えその議論には正直、いまひとつ乗れないところもかなりあって、たとえば記述と楽譜を分けるものは何か、と云う問いから展開される、メディアを消滅させた大胆な言語観は記号を線描へ融解させるかのようで刺激的だけれども、あまりに根拠薄弱で、考察も曖昧なところがある。何より転換点を印刷技術に持ってきているのがだいぶ胡乱で、このために印刷全般、タイプライターも悪しき近代として否定することになっているのはいただけない。いずれにしたってわれわれは印刷するし、打鍵するのだから、論じるべきはその否定ではなく、そのような営為にも見られる「線」性ではないだろうか? インゴルド自身、セルトーを引きながら「線」が途絶えることはないと見ているのだ。書くことの、生きることの、不可逆的な変化を見つめることなく昔に帰れと云うのなら、それは人類学者の仕事ではない。おじさんのたわごとである。
 もちろん、インゴルドの言葉はおじさんのたわごとでは終わらない。糸と軌跡と云う線の分類は、双方向的な変換と云う仕組みも含めて魅力的な図式であるし、そこから展開される場所論――世界に線を引くこと=地図を描くことについて対比される「居住」と「占拠」は、生態学から都市論までいろいろと線を延ばせるすぐれた枠組みだ。直線を近代なるもの、男性的で、帝国主義的なものの象徴とする見立ても、ダニエル・リベスキンドのドローイングを参照しながらその直線がばらばらになったことをポストモダン的状況に準えることまで含め、じゅうぶんに広い射程を持っているように思う。インゴルドはときおり仮想敵のことばかり相手にしすぎて、その考察の射程のせっかくの広さ、どこまでも延ばせるはずの線を自分から狭くしているようであるのがもったいないけれど――タイプライター嫌いはその筆頭だ――それでも面白くてたまらないのは、載せているエンジンはやはり強力だからだ。いや、そんな侵略的な喩えは相応しくないかもしれない。われわれはここから歩いて進むのだから。末尾ではインゴルドも、あとはお前が線を延ばせ、と云う半ば無責任で半ば頼もしい励ましを送っている。私の望みは蓋を閉じることではなく、蓋をこじ開けることだとインゴルドは云う。そしてその目論見は、すでに果たされた。あとはどこに進んでも良い。とりあえず次は都市論のほうへ、ケヴィン・リンチ、それからセルトーと、線を延ばしてみようかと思う。

*1:『六の宮の姫君』のほうが先のはずだから、意識していないことはないと思うのだが、どうだろうか

感想をどう書くか/なぜ書くか/何を書くか:あるいは、君たちはどう生きるか

 2024年がはじまりました。今年もよろしくお願いします。
 昨年末、周囲でブログがたくさん稼働している音が響いていたので、ここはひとつ、ブログを継続的に書く――感想を書き続けるために個人的に考えてきたことを公開しようかと思います。数ヶ月前、ミステリ研内で発表したものです。めちゃくちゃ説教臭いですが、伝えるか伝えないか、だったら、せめて言葉を残しておこうと思った次第。みなさんのブログ更新の一助になれば幸いです。

0. はじめに

「ご隠居、ご隠居!」
「なんじゃ、お前さんか。どうしたんじゃ藪から棒に」
「いえね、きょうはちょっと、ご隠居に教わりたいことがありましてね」
「ほう、珍しいこともあるもんじゃなあ。いつもはワシが何を話してもまたはじまったとばかりに呆れておるのに」
「それはご隠居の話がつまらないからですよう。でも今回は、そのご隠居のお喋りなところに助けてもらいたくって」
「ふむう、確かにワシは聞かれてもいないことをペラペラ喋るがな」
「はい、ご隠居は普段から、誰に聞かせるでもなく小説の感想を書き散らしてるじゃないですか。実はあっしも最近、小説を読みはじめましてね。だけどご隠居みたいに、感想をまとめることができないんでさあ」
「なるほど。それでワシに教えを乞いたいわけじゃな?」
「そうでさあ」
「しかしワシの感想の書き方なんて我流もいいところじゃ。それでもかまわんかの?」
「そんなこと最初からわかってますよう。そもそもあっしらがこうして召喚された理由のひとつは、感想ハウツーを後輩に伝えようとして、だけどあまりに我流なものだから、問答形式で相対化するためでしょう?」
「うむ、よくわかっておるな。ソクラテスの昔から、こうした記述の多層化と相対化は活用されておる。かつては柳田國男折口信夫も用いた手法じゃ」
「だからご隠居、ご隠居の考える書き方でかまわないから、ここはひとつ、一席ぶってくだせえ」
「よしきた。これをどこまで参考にするかはお前さん次第じゃ。究極的には、書くことはお前さんの手でおこなわれることじゃからのう。まあ、ゆっくりしていくがよかろう」

1. なぜ書くのか

「して、お前さんはいったい、なんのために感想を書くのかの?」
「ハテ……、そう云うものだからとしか」
「もちろん、目的なんてなくとも感想は書いても良い。書けるなら書けるだけ書く。それがいちばんじゃ。しかしどうやって書くかの前になんのために書くのかをわかっておけば、感想をまとめる方針も立ちやすいじゃろ? ワシの考えでは、感想を書く目的は大きくわけて三つある。【自分以外の読者のため】。【作者のため】。そして【自分のため】じゃ。この三つはさらにそれぞれ細かくわけられる。順番に見ていくぞ」

1.1. 自分以外の読者のため

「やっぱり感想は、ひとに伝えるためじゃないですかい?」
「うむ。言葉とは本来的にコミュニケーションのための道具じゃ。その点で、どんな感想もひとに伝えるために書かれると云えるな。しかしここで云うのはもっと卑近に、SNSやブログ、あるいは大学サークルで、読んだ本について語ることをさしておる。」
「あっしの友達にミステリ研の会員がいやすが、読んでいる本の感想を先輩から求められて困ったと云ってやしたね」
「そう云う先輩は実のところ、感想そのものを求めているのではない。感想を通して後輩と交流することを求めておるのじゃ」
「なんだか回りくどいですねえ」
「ミステリ研の人間なのじゃから、ミステリは共通の話題として持ち出しやすいと云う判断なのじゃろう。しかしもちろん、あんまりひとに強いるものでもない。さっきも云った通り、ここでは感想は一種のコミュニケーションツールなのじゃから、コミュニケーションを求める限りは、ほかに適切なツールが見つかればそれを用いても良いはずじゃ。それでもなお感想をひとに求めることがあるとすれば、単なるコミュニケーション以上の目的があると云うことになる。つまりは研究や論評じゃの。とは云えそれはここでは置こう。
 感想を通してコミュニケーションを取るときには、ふたつのパターンがあるのう。【同じ本を読んだひとに向けて】と、【まだその本を読んでいないひとに向けて】じゃ」

1.1.1. 同じ本を読んだひとに向けて

「これはつまり、読書会とかですかい?」
「そうとは限らん。SNSでの感想の云い合い――これがリアルタイム性を増すと「実況」と呼ばれる――や、たまたま同じ本を読んだことがわかって雑談するときも含まれるわい。そうした場をコミュニケーションと捉えるとき、小説そのものはあくまで媒介じゃ。たいていの場合はディテールについて「いいよね」と云い合ったり、悪口をこぼし合ったりする。あるいは違う感想をぶつけながら、互いのひととなりを理解してゆく」
「はあ、なんだか大変なことですねえ」
「そうかな? はっきり云えば、友達と共通の思い出やノリで盛り上がることと大して変わらん。ゆえに軽蔑する読書家も少なくないが、決して否定されるべきものではないと思うぞ。ひとりで黙々と小説を読みつづけられる人間なんてごく稀じゃ。友達と共通の話題で楽しみながら、気がつけばたくさん読んでいた。それも立派な読書じゃと思う」
「でもその場のノリばっかりで、コミュニケーションがかえって犠牲になることもありますよね」
「うむ。作品をミーム的に楽しむばかりではそうなってしまいかねん。それはそれで否定し得ないとワシは思うが、この問答は感想を書くためのものじゃから、一応避けたほうが良いことととして考えておこう(今後もそうして否定・批判する言説や態度が出てくるが、全面的に否定するものではないことを心に留めておいてほしい)。そのためには、先ほど云った「ひととなり」を自覚することが大切じゃ。ある作品をみんなで褒めそやしたり、逆に袋叩きにしたり、ミーム的に盛り上がったりすることはいずれも楽しい。ただ、そこでおこなった振る舞いは、翻ってお前さんの「ひととなり」を作り上げてしまうのじゃ。たとえば、何かにつけふざけたことばかり云うひとは、最初はその場の楽しさを優先したり、あるいはなんらかのカウンターとしてわざとやっていたりしたことであっても、いつの間にか芯からふざけた、何ごとも真剣になることのできない人間になってしまう。そんな現代の悲劇を、われわれはインターネットでたくさん見てきたはずじゃ」
「ご隠居、そう云えばこの問答って何時代なんです?」
「細かいことは訊かぬが花じゃ。これもまたコミュニケーションじゃ」

1.1.2. まだその本を読んでいないひとに向けて

「要するにこれは、プレゼンってやつですね?」
「まあ、そうじゃな。しかし、未読者に感想を云うときは、ひとに薦めるだけとは限らん。ここでは、すでに作品を読んだ者として、その作品がどのようなものであるのか紹介する、云わば道案内の役目を果たすことになる」
「責任重大だ」
「レビューとして感想を発表するのなら、まあ大変じゃの。過度なネタバラシは避けるべきじゃし、道を間違えると案内人の責任問題じゃ。とは云え、うまく案内すればひとの読書の可能性を広げることにもなる意義深い感想じゃな。それにただの雑談であれば、気軽な口コミでも構わん。」
「雑談するときに、相手が読んでいない本のことを話しますかねえ」
「それは話し方次第じゃろう。たとえばそうじゃあなあ……、ワシは最近、『鉄鼠の檻』を読んだ」
「いまさらですか。時代は鵼ですよ、ご隠居」
「せからしかっ。小説はいつ読んでもかまわん。ところでこれは禅寺を舞台にした小説じゃが、テーマとして問うているのはもっと普遍的なこと、すなわち「言葉」じゃ。禅における悟りとは言葉の彼方にある領域であって、『鉄鼠の檻』は言葉では届かないその悟りを、小説と云う言葉によって書こうとしておる。この逆説が面白かった」
「ははあ。そう云えばあっしはこのあいだ、小川哲の『君が手にするはずだった黄金について』を読みやしたよ。作家自身を語り手にした小説で、書くことによっては捉えきれないもの/書くことによって捉えられるもの、みたいな話がされていやした。奇遇ですねえ」
「言葉、あるいは、書くことと云うのは普遍的なテーマじゃのう。小川哲の小説はそのあたり、どう具体的に書いてあるのかの?」
「ええっと、そうですねえ……」
「……とまあこう云うように、互いに互いの言及する本を読んでいなくとも、共通点を探りながら話を拡げていくことは可能じゃ。そうすることによって読書家たちは本を紹介し合ってされ合って、まだ読んでいない本、考えてもみなかった視角を知っていくわけじゃな」
「まあ、あっしは『鉄鼠の檻』を読んでますけどね」
「ほう、ではお前さん、あの小説をどう思う?」
「化けネズミの正体が面白かったですねえ」
「あれは確かに驚かされるのう。しかし妖怪の正体とは得てして、あのようなものなのかもしれぬ。……とまあ、互いに読んだことのある本なら、こうして話を具体的に詰めてゆくわけじゃ」
「なるほど。目的の違いは感想のまとめ方、話題の繋げ方の違いになるわけだ」
「その通り。じゃからこそ、まず自分が何のために感想を喋る/書くのか、考えてみることが必要じゃ。SNSを眺めてみれば、ある小説を面白く読んだと云うこととその小説を薦めると云うことがイコールになってしまった読書家を多く見かける。もちろん前者は後者を含むじゃろう。しかしわれわれは、誰かに薦めるためだけに小説を読んでいるわけではない。目的に応じた文体を採用するべきじゃ。
 ただし、これは単にそれぞれを別ものと考えるべきと云う話ではない。それぞれの目的と適切な文体は相互に影響し合っておる。ひとに薦めるための表現は多くの場合、ネタバラシを避けるためにふわふわしたものになりがちで、それでは小説が具体的にどのようなものか評するために不充分じゃろう。一方でその小説がどのようなものであるか言葉にすることができなければ、ひとに紹介することもままならん。両輪合わせて回すことが必要じゃ。そしてそのためには、まず両輪があると云うことを知らなければならん。ワシがまず目的の分類を試みたのは、そんな意図もあるのじゃ」

1.2. 作者のため

「それでは次の分類【作者のため】を見ていこう。小説には必ず作者がおる。作者不詳の小説もあるが、少なくとも誰かが書いたわけじゃ」
「時代はChatGPTですよ、ご隠居」
「確かに生成AIの発達は著しいものがあるが、それでもAIが自律的に小説を書くのはまだ先じゃろう。執筆自体はAIがおこなったとしても、生成の指示を出したり、生成された文章を編集した者がおるはずじゃ。とは云えこのあたりはややこしい話じゃから避けておこう。ともかく小説には作者がおる。良いな?」
「へえ。ロラン・バルトの「作者の死」は否定するわけですね?」
「何も考えずそんなふうにバルトの名前を出す前に、厳然と存在する作者を考えるべきじゃと、こう云うておる。そもそもお前さんはバルトを読んだことがあるのかの?」
「うっ」
「安心せえ。ワシもこのあたりの学術的議論はよう知らん。けれども感想については、経験的に語れることがある。まず、作者もまた、ふたつのパターンにわけられるのう。【遠くの作者】と【近くの作者】じゃ」

1.2.1. 遠くの作者

「遠くと云うのは時間的・物理的・情報的な距離のことじゃ。すでに死んでいる作者や、会ったことも会うこともない作者のことを云う。こう云う作者を相手するときは、作者のことをあまり考える必要はない」
「めちゃくちゃエゴサする小説家とかいますよ」
「もちろん。じゃから好き勝手云って良いと云うことではない。別にエゴサされなくともこれは同じじゃ。ただ重要なのは、こうした場合、小説はすでに作者の手を離れていると云うことじゃ。小説は編集や校閲、卸しから小売りまでさまざまなひとの手に渡って、お前さんが読むことになる。このとき小説は作者のものではなく、お前さんのものじゃ。作者のことを忖度したところで仕方がない。むしろ、正直な感想を、自分がその小説をどう読んで、どう語ったのかを示すことが、かえって作者のためになることが多いと思うぞ」
「だからと云って、別に作者のために感想を書くことはないですけどねえ」
「じゃからこのとき作者は「遠い」のじゃ。遠くにありすぎて、意識もされないほどに遠い。ただし間違いなくそのひとはどこかに生きておる。あるいは、生きておった。それを尊重したうえではじめて、われわれは作者を死んだ者として扱うことができるのじゃ。つまり、いたずらに作者を意識することなく正直に、自分の読んだところのことを述べるわけじゃな」
「ご隠居の云うことは難しいや」
「まあ、ワシも普段からこんなことを考えて感想を書いているわけじゃなし。云うは易し、と云うわけじゃな」

1.2.2. 近くの作者

「作者は何も遠くにおるばかりではない。小説を書いている友達から感想を求められるかもしらんし、何かのイベントやSNSで作者に直接感想を伝える機会もあるじゃろう」
「ミステリ研の友達も、合評会なるものがあるって云ってやしたね」
「そうした場合、感想は作者と云う、厳然として生きている人間に直接伝えなければならん。いたずらに「作者の死」を云ってはいかんのじゃ。もちろん、好きに感想を述べてくれてかまわない、と云うひともおるじゃろうが、みんながみんなそれを前提にして感想を伝え合った先に待つのはかなりハードな言説空間じゃろうな。作者が近くにいるならば、感想は作者と読者のコミュニケーションの場になっておる。余計な忖度は要らぬが、それでも思いやりや礼儀が必要じゃ」
「なんだか窮屈じゃないですか?」
「それがコミュニケーションの難しさなのじゃ。もしもはっきりと考えたことを伝えたいならば、相応に場を整えなければならん。互いの信頼も不可欠。合評会をきちんと機能させるのは、とても難しいことなのじゃ。と云うのも、小説を書くことにはさまざまな動機があり得る。そこに生きてゆくうえでの切実なものを籠める書き手もおるじゃろう。作者は多くの場合、読者が小説を読むときとは比べものにならない労力をかけて小説を書いておる。お前さんは農家のひとを目の前にして、ただ嫌いと感じたからと云う理由で「この野菜は不味い」と云うかの? それは正直ではあるかもしれんが、誠実ではない」
「うーん。でもそんなことを気にしていたら、感想なんて云えませんや。不味いものは不味いんだもの」
「嘘をつけとは云っておらん。重要なのは互いにひととして向き合うことじゃ。作者が近くにいるからと云って、遠くに置こうとして読者のほうから遠ざかるのもいけない。不誠実な感想は、読者が自分を有象無象のひとりに落としてしまったときに生じやすい。お前さんはお前さんとして、作者に対して「不味い」と述べ、その責任を引き受けねばならん」
「なんだか作者に擁護的ですねえ」
「これは感想の話なのじゃから、読者について云々するのは当然のことじゃ。書き手としての態度のあり方などその辺の創作ハウツー本にいくらでも載っておるわい」
「でも、あっしがあっしの言葉ではっきり「不味い」と云ったところで、傷つく相手は傷つきますよ」
「ひとつには、相手に、このひとになら多少傷つけられても構わない、傷を受け止められる、そう思ってもらえるようになることじゃな。先ほど云った信頼とはそのような意味じゃ」
「大学サークルのような流動的な組織じゃあ難しいでしょうねえ」
「それが難しければ、作品の不味さそのものではなく、不味いと云う感想が発生してしまうこと自体について述べると云う手があるのう。ワシのお師匠さんは「作品を良くするための指摘よりも、作者がどうすれば良い小説が書けるのかを指摘すること」を心がけておった。ワシはとてもその領域には及ばぬが、一年ほど寺子屋ではたらいたとき、その心がけの重要さがわかったように思う。勉強のできない子に対して、間違えた答案を責め立てたところで何にもならん。自分で答案を見直して自分で成長できるような子は、あるいは自分の答案にすっかり満足しているような子は、そもそも寺子屋を訪れん。じゃからアドバイスとして適切なのは、なぜその答案が発生したのかを想像したうえで、その子がこれからどうすれば良いのか提案してみせることじゃ」
「それも難しいですよ。それに、下手すりゃ人格批判じゃないですか」
「繰り返すが、それがコミュニケーションの難しさなのじゃ。そもそも答案が間違っているかどうか、テストと違って小説は数字で評価できん。間違ったことを云っているのはお前さんのほうかもしれん。それでも感想を伝えると云うことは、その可能性を踏まえたうえで賭けてみると云うことじゃ。それがフェアネスじゃろう。作者はそれ以前に、小説と云うかたちで賭けに参加しているのじゃからな」
「ご隠居、なんだか説教くさいや」
「なんの。さらにワシはさらに説教くさくなるぞ」

1.3. 自分のため

「これまで述べた感想が実践として難しかったのは、いずれも自分以外のための感想だったからじゃ。それは大なり小なりコミュニケーションであり、コミュニケーションは難しい。けれども感想は、自分のために書かれても良いはずじゃ。これはいちばん簡単な感想で、しかしもっとも重要な、あらゆる感想の基盤にあるものじゃと、ワシは思うておる」
「説教臭いどころか自己啓発っぽいですぜ」
「実際、自己啓発じゃな。自分のために感想を書くと云うことは、自分が何を考えているのか知ることじゃ。それはひいては、自分と云う読者を作り上げてゆくことでもある」
「自分の考えていることは最初からわかっていないと、感想なんて書けませんや」
「そこが最初にして最大の誤解なのじゃ。感想は考えてから書くのではない。書きながら考えるのじゃ。具体的な手法は次の章に譲るとして、まずはたとえ話をしよう。これまた寺子屋ではたらきながらワシが学んだことじゃが、勉強がうまくできない子の多くに共通することがある。彼らはたいてい、書こうとしないのじゃ」
「書く? ノートのことですかい?」
「ノートだけではない。問題を解くときの途中計算や下書き、文章を読むときのメモ、やるべきことのリストや勉強のスケジュール表。彼らはいずれも書こうとしない。彼らは頭のなかだけで考えようとする。けれどもそれでは整理できず、混乱するばかりじゃ。何を考えているのか言葉にできない。何を考えていたのか憶えていられない。ゆえに、何がわからないのかさえわからなくなる。けれども本当は順序が逆なのじゃ。考えていることを文章や図にまとめて、やるべきことを整理し、記憶することで、ようやく自分の考えていること、考えるべきことがわかる」
「ははあ。ご隠居の云いたいことがわかりやしたぜ。自分が小説を読んで何を感じてどう考えたのかを知るには、まず書きはじめなくちゃならないわけだ。しかしご隠居、あっしもそうやって考えたことをメモに書きつけようとしたことはありやしたが、メモに書きつけた途端、何かこぼれ落ちるような感じがしたんでさあ。なんかちがうって感じた。あっしはそれが嫌だった」
「それはものを書く人間なら誰しも感じることじゃ。言葉は思考や事物そのものではない。言葉は豊かな感覚・思考・事物を単純化してしまう。けれども逆に云えば、そうして単純化することによってはじめて、世界の豊穣を知るのではないかの? 科学も文学も、究極的にはそのような営みではないかの? 言葉とはむしろ、言葉によっては捉えきれないものに近づくためにこそ駆使される。感想もそのようなものじゃ。小説に書かれてあること、そこから感じたこと、考えたことをすべてそのままに受け容れることが出来る人間は限られておる。お前さんがそんな人間でないならば、言葉と云う偉大な発明を補助線として用いるべきじゃとワシは思う」
「うーん」
「複雑微妙なところをそのまま受け止めたいお前さんの心意気は素晴らしい。けれどもワシらは言葉の生きものじゃ。いずれどこかで言葉に捕まる。するとどうなるか。「複雑だ」は「だからそれ以上何も云えないし、考えられない」と云う思考停止とイコールになってしまう。世界をモデル化することによってその複雑さを捉えようとする営為がひっくり返って、世界を「複雑」と云う言葉にしまい込み、切り捨てるための云い訳になる。なんとなれば、結局のところ最後に残るのは言葉だけだからじゃ」
「さっきも似たようなこと云ってやしたね、ご隠居。わざと不真面目にふるまっていたら、本当に不真面目な人間になっちまうって」
「うむ。お前さんがどんな人間かを決めるかは、実のところ、お前さんの内面ではない。日記でもつけてみればわかるが、人間の内面は、決して連続的なものではない。そもそも人間はひどく忘れっぽい生きものじゃ。ひとの人格を決定づけるのは、だから内面よりも外面、つまり、お前さんが世界に対して何をしてきたのかと云うことのほうじゃ。「世界に対して何をしてきたのか」と云うとわかりにくければ、「選択の集積」と云っても良い」
「まだわかりやせん、ご隠居」
「具体的な事例を示そう。先ほど寺子屋で、勉強のできない子はノートをとらないと云ったが、ではそんな子がある日いきなりノートを書けるようになると、お前さんは思うかの?」
「……できないでしょうねえ」
「そう思うのはなぜじゃ」
「ずっとノートをとらなかったんだから、ノートの書き方も知らんでしょう。面倒くさいとも思っちまうでしょうし。ただ書き写すだけならまだしも、考えてることを書き起こす訓練なんて積んでやせん」
「そう、まさしく「積んで」いないからこそ、次もまた積むことができないわけじゃ。ワシらの行動ひとつひとつを決定づけるのは、過去の行動の集積なのじゃ。お前さんが何か行動する。その行動は世界になんらかの影響を与えて、痕跡が残る。その痕跡は降り積もって、次のお前さんの行動を決める。お前さんは内面だけで動いているわけではない。その内面もまた、お前さんが周囲に残してきたお前さん自身の痕跡によって規定されてゆくのじゃ」
「しかしご隠居、それじゃあ人間は変わることはできないってことになるんじゃないですかい?」
「先ほども云った通り、人間の内面は不連続じゃ。痕跡はあくまで傾向しか決めない。何も考えなければこの傾向に従いつづけるじゃろうが、踏ん張れば無視することも可能じゃろう。けれどもそれは所詮一度きりじゃ。傾向の無視を積み重ねることでようやく、傾向自体を変えることができる」
「ははあ。何だか大袈裟ですが、要するに、感想を書くためには、感想を書きつづけておく必要があるってことですかい?」
「ひとつにはそう云うことじゃ。そして、そこで書かれる感想の内容にもこれは云える。お前さんと云う読者を――その考え方や信念、態度を作り上げてゆくのは、お前さんがそれまで読んだ本について感じてきたこと、考えてきたことであり、それは言葉によってようやく積み重ねられる。人間は忘れっぽい生きものじゃ。つい昨日読んだ小説のことさえディテールはすぐに失われてゆく。一年も経てば感想なんてすっかり忘れて、読んだと云う事実さえ失われるじゃろう。それでは何も読んでいないのと変わらん(ゆえに再読は面白い、と云うこともできるがのう)。
 お前さんが読む小説についてもっといろいろなことを感じて、考えたいのなら、そして感想で紋切り型のような「面白かった」以外のことを云いたいのなら、感想を書き溜めつづける必要があると、ワシは思う。それは誰に見せずとも良い。その感想はお前さんのために書かれるのじゃからな」
「ご隠居が自分のために書く感想を「あらゆる感想の基盤にある」って云った意味、わかりやしたよ。でもご隠居、具体的にはどう書けばいいのかまだぜんぜんわかりやせん」
「うむ。それでは次は、どうやって書くのか、とくにそのプロセスや観点を語っていくぞ」

2. どう書くのか

「どうやって書くのかってえと、何に注目するのか、とかですかい?」
「それは書かれる内容のほうじゃ。何を気にするのか、どう語っていくのかはごく個人的な話になってしまうので、最後に自分の書き方をいくつか抜粋して述べるだけにしよう。それに批評理論などはこんにち、よっぽど参考になる本も出ておる。参考文献も最後にまとめて紹介するぞ」
「じゃあ内容じゃなくて、どんなノートを使って書くか、みたいな?」
「冗談ではなく、それもひとつじゃ。ノートを書く習慣のない者は、まずノートを持たねばならん。書くと云う選択を取るためには、まず選択肢をつくらねば、な」

2.1. 書くことの習慣化

「要するにそれは、書くことの習慣化じゃ。とは云えこれは、何が最適なのかひとによるな」
「ご隠居はどうしてるんです?」
「ひとつには、SNSがある。twitterInstagramマストドンなんかも最近は話題じゃの。ワシは以前、読書メーターを使っておった。読んだ本の感想を250字程度で残せるサービスで、積ん読や読みたい本の登録もできる。ワシが高校生の頃は、これを使って読んだ本の感想をひたすら書いておったな。よっぽどのことがない限り炎上はないし、250字と云うのも短すぎなくて良い」
「それならどうしてやめたんです? ご隠居のいまの読書メーターって、感想をろくに書いてませんよね」
「いろいろ理由はあるが、もっとのびのびと書きたいと思うようになったからじゃ。いまはメモ的なつぶやきをtwitterで書くほかは、基本的にはマストドンで書くか、ブログで長文の感想を書いておる」
「ふーむ。いずれにせよひとに見せるんですかい?」
「ひとの眼があるとつづきやすいと云う面はあるじゃろうな。逆につづかないと云うひともおるじゃろう。お前さんがもし大学の文芸サークルに入っておるなら、連絡ノートやDiscordなんかに感想を書いてみるのも良かろう。SNSほどにオープンではないからいくぶん気楽じゃ。それに、そもそもさっき云った通り、誰に見せることもない。メモ帳を携帯して、読んでいて考えたことを書き残せば良いのじゃ。
 重要なのは、書く、と云う選択肢を持つことじゃ。ワシはこの春からスケッチを趣味にしはじめたが、実はかつて一度、趣味の継続に挫折しておる。そのときは大判のスケッチブックに書いておったのじゃが、それじゃと普段持ち歩かないし、取り出してスケッチするのも面倒で、いつの間にか描かなくなってしまった。一方で、いまは小さなメモ帳や、A6サイズの小さなスケッチブックに描くようにしておる。小さければ携帯できるし、そうして常に持ち歩いておれば、どこでも描くことができる」
「でも、感想を書くこと自体が面倒なんですよ。時間もかかるし」
「時間はかかる。当然かかる。とは云え、それを踏まえて習慣化することはできる。勉強だって同じじゃろう。感想を書こうと思ってタスクにしてしまうと億劫じゃが、何日かに一度、一時間、あるいは三十分だけでも、パソコンやノート、メモ帳に向かって読んだ本について書く。まずはその習慣を持ってみることじゃ」
「真っ白な原稿を前に、うんうん呻ってるだけのあっしが想像できまさあ」
「云ったじゃろ、まずは書くことじゃ。考えて書くのではない。書きながら考えるのじゃ」

2.2. 書きながら考える

「ご隠居、さっきからそう云ってますが、じゃあ具体的にどう書くんです? メモを書くことで考えることが整理できて、考えを進められるってんならわかりますが、それじゃあ感想としてまとまった文章を書くには断片的すぎやしませんか?」
「確かにそれでは、今度はまとめると云う作業がある。時間をかけて整理するのが正攻法じゃ。いちばん身のためになるじゃろう」
「ご隠居はいつもそうやってるんで?」
「いんや。そんな面倒くさいこといちいちしとらん。レビューの仕事のときくらいじゃの」
「ご隠居!」
「待て、待て。別に手のひらを返すわけじゃない。ワシが云う「書きながら考える」とは、文字通りのことじゃ。つまり、ブログなんかで書く感想は、本当に、書きながら考えておる。下書きなんぞワシはつくらん」
「信じられないなあ」
「もちろん、ゼロからいきなり書くことはできん。読みながら考えていることはあるし、メモ帳の走り書きも参考にする。とは云え基本は一発書きじゃ。もちろん、修正は随時加えてゆくがな」
「あっしには真似できそうにもありませんや」
「すぐに諦めるでない。お前さんにいきなり書かせてもそりゃあ無理じゃろう。誰しも最初はうまく書けん。そしてこれは、自転車の乗り方や逆上がりの仕方を教えるようなもので、ある程度以上はお前さんの身体感覚、つまり慣れによってでしか習得できん。書きつづけるしかないのじゃ」
「逆に云えば、ある程度までは方法を教えられるんですかい?」
「参考になるかどうかはわからんがな。それは、【フォーマットをつくる】こと、そして【問題意識を持つ】、と云うものじゃ」

2.2.1. フォーマットをつくる

「先ほどスケッチの話が出たが、スケッチも下描きを描くか、一発描きするかの選択がある。下描きをするとかたちは整うし、パースもしっかり取れるが、逆に云えばどこか退屈な絵になる。最近はもっぱら一発描きじゃな。微妙に狂ったパースや即興的な線の揺らぎが絵をダイナミックにしてくれる。このとき、助けになっているのが鉛筆のグリッドじゃ。下描きはしないとは云ったが、まず鉛筆で補助線のように画面をわける線を引いて、ペンはその構成に従って描いておる。感想のフォーマットとは、この鉛筆の補助線のようなものじゃ」
「事前に全体の構成を考える、ってことですかい?」
「ものわかりがいいのう。具体的には、【作品のあらすじ/紹介】【本論】【〆】と云う構成じゃ。もっとも、所詮は下描き未満の補助線。ある程度は無視しても良い」
「作品のあらすじから入るなんて、当たり前でさあ」
「もちろんここで、裏表紙や帯文に書いてあるあらすじを引き写したのでは意味がない。あらすじをお前さんの手で再構成して、文章の導入とするのじゃ。ストーリーの要約は、お前さんが小説をどう理解しているのかを反映するし、ストーリーを振り返ることで、お前さんがその小説をどんな小説だと捉えているのかもわかってくるじゃろう。世の中には実験小説のような、ストーリーを語ることができない小説もあるが、それなら小説の趣向や構成のほうを紹介すれば良い。そこで何をどう紹介するか、やはりお前さんの読解が示されるじゃろう」
「わかるようなわからないような。ご隠居、ここはひとつ、あっしに実践を見せてくだせえ」
「仕方がないのう。それじゃあ、最近読んだ山田風太郎太陽黒点』の感想を書いてみるぞ。まずは導入から」

 舞台は戦争の記憶も遠ざかりつつある東京。「死刑執行・一年前」と云うおそろしげなカウントダウンから小説ははじまる。群像劇的に複数の登場人物の動きが連鎖するこの小説において、前半の主人公は鏑木明と云う美貌の苦学生になるだろう。彼はひょんなことから社長令嬢の美恵子に気に入られ、特権階級に対する野心を燃え上がらせる。一方で明のガールフレンドである土岐容子は、様子の変わった彼に翻弄されるうちに人生の道筋がねじ曲がりはじめる。もちろん、明も同様に。そうして新しい日本を生きる若者たちの運命は奇妙に絡み合い、やがて悲劇的な破局へ転げ落ちてゆく……。「誰カガ罰セラレネバナラヌ」と云う怨念に導かれ、やがて浮かび上がる裁きの構図。「死刑執行」されるのは誰なのか?

「具体的なストーリーを語ってしまうと単なるメロドラマに見えてしまう。『太陽黒点』の勘所は、若者たちの悲劇的な恋愛模様の背後に、戦争と云う、忘れ去られたはずの過去が見えてくることにある、――と、ワシは思う。とすれば、各々のキャラクターの行動はある程度抽象化してしまって、彼らを絡めとる悲劇、その背景にある時代のほうを強調する。いや、逆じゃな。ワシは自分なりにこの小説をどう紹介するか、あれこれ書きながら、背景にある歴史が前景化してくるところを目の当たりにしたわけじゃ。ある程度方針が固まったら、細部を整えてやれば良い」
「一発書きって云ったじゃないですか」
「下書きをつくらない、と云う意味じゃ。スケッチでも修正液はしばしば使うし、線を何本も引き直してごまかすこともある」
「それこそごまかされた気がしやす」
「まあ、書きながら考えると云うのは、細かな書き直しも含まれると云うことじゃな。それは単に消しゴムで消すのではない。パリンプセストのように、その前に書いたことが積み重なりながら、お前さんの書くことを規定してゆくじゃろう。
 それに、先ほど述べた、以前の行動が現在の行動を規定すると云うのは、ひとつの文章を書くことにも当てはまる。それまでに書いた文章が、つづくべき文章を規定するわけじゃな」
「それなら感想をここまで書いた時点で、次の文章はある程度決まっているわけで?」
「もちろんじゃ。『太陽黒点』にはさまざまな切り口があり得るじゃろうが、ここまで書いた文章からいきなり、たとえば鏑木明と云うキャラクター個人の話をしはじめるのは唐突じゃろう。この文章につづくべきは、鏑木を含めた若者たちを呑みこんでしまう構図のほうじゃ。この構図を、ワシは「玉突き事故」あるいは「ピタゴラ装置」と喩えてしまおう」

 玉突き事故、あるいは不謹慎な比喩をあえて使えば、ピタゴラ装置のような悲劇の連鎖は、終盤、背景だったはずの戦後と云う時代を前景化してゆく。そうして明かされる悪意の正体は、たとえばクリスティーの諸作を思い起こさせるが、クリスティーがそうした悪意を普遍的で抽象的なものとして書いていたのに対して、本書は戦争と云う、具体的な歴史と結びつけてしまう。そこで問われるのは、人間を人間とも思わなかったあの時代だ。「誰カガ罰セラレネバナラヌ」……、「あの戦争は、そもそも何だったのか」。そう問いかける、最終章の語りの迫力は凄まじい。その語りは、三人称多視点だった本書のPOVを、一人称へと呑みこんでしまう。かつて戦争が、この国の若者たちを呑みこんでしまったように。

「これが【本論】。クリスティーの名前を出したのは、読んでいるときの連想じゃ。こう云う連想はいちいちメモしておかんと忘れてしまう。そしてクリスティーと云う名前が出たら、それと比較して、『太陽黒点』独自の達成を読み(「本書は戦争と云う、具体的な歴史と結びつけてしまう」)、その達成が何を書くことを可能にしているのかを考える(「そこで問われるのは、人間を人間とも思わなかったあの時代だ」)」
「それからいきなり語りの話が入りやすね」
「つづきをどう書こうか迷ったときに、とりあえず印象的だったフレーズをいきなり入れてみるのは手じゃ。すると違う種類の声が混じったことによって文章に動きが生れ、ふたつの声を統合させるようなかたちで文章をつづけやすい。今回の場合は、語りのほうへ話が移ることで、『太陽黒点』のテーマを多角的に語ることになったわけじゃ。そうして『太陽黒点』のテーマが見えたところで、感想を〆にかかろう。」

 けれども小説は結末において、そんな語りを突き放してしまう。ふたたび三人称に戻ることで、すべてを呑みこむ一人称の語りから、頭のなかだけの思い込みの一人称へ矮小化させられるのだ。思えば、なるほど本書で起こることは、当人にとっては重大な悲劇でも、若者たちのごく個人的な事件に過ぎない。ここに本書のシニカルな凄みがある。そう、所詮はただいくつかの死。けれどもその死のひとつひとつには、代え難い悲しみが、捉え難い憎しみが、そして、あまりにも巨大な、戦争と云う時代が結晶している。

「【〆】がどのような文章になるのかは場合による。【本論】である程度マクロなことを述べたあとで、細部に注目してみるとうまくいくことが多い。たいてい書くことは結末じゃな。小説が小説自体にどのような決着をつけているか。あるいは、どのような問いに開かれているのか。ネタバラシを避けるためか、インターネットでは結末には触れない感想を見かけることが多いが、小説はそこに向かって書かれるものである以上、検討するべきはむしろ結末じゃ。具体的な部分に触れればネタバラシじゃが、【本論】で見出したテーマをもとに抽象化して言及すれば良い」
【作品のあらすじ/紹介】で自分がその小説をどんな小説だと思っているのか掴んで、それをもとに【本論】で作品のテーマを見出し、そのテーマに基づいて【〆】で小説の結末を読む。と云うことですかい?」
「的確な要約じゃ。ひとつ注意してもらいたいのは、テーマとは「作者の云いたいこと」ではないと云うことじゃな。むしろ「問いたいこと」と云うべきじゃ。小説は常に何かを問うておる。【本論】ではその問いを見つけることが肝要じゃ」
「それができたら苦労しませんや。それにあっしが書きたいのは感想でさあ。小説についての批評じゃない」
「ふむう。批評と感想の違いは何か、と云う話はいったん置くが、確かに作品の分析ばかりで、ワシが感じたこと、考えたことが書かれていないように見えるのは事実じゃろう。けれどもここで書かれてあることは、間違いなくワシの視角からもたらされたものじゃ。ワシが感じて、ワシが考えた『太陽黒点』の問いじゃ。ゆえに「問いたいこと」の主語は、ともすると「自分」かもしれん。それでも良い、とワシは思う。自分なりの問いを持てば、感想は格段に書きやすくなる」

2.2.2. 問題意識を持つ

「とくにミステリのようなジャンルフィクションだと、読み手はしばしば「美食家」と化す。美味しいものをとにかく食べたい。美味しければそれで良い。それはそれで貫徹すればひとつの信念じゃが、多様な問いが噴出している現代にあっては、ひたすらに美食を求める態度は享楽的なニヒリズムと表裏一体じゃ」
「でも、美味しいものは食べたいですよ」
「うむ。もちろんワシだって美味しいものを食べたい。しかしたとえば、美味しいからと云う理由でウナギを食べつづける美食家がいたらどう思う? ワシは、絶滅の危機に瀕するウナギの現状についてどうお考えか、とチクリ、訊ねたくなるのう。美食を追求するのは構わん。しかし、料理をつくりだす社会や歴史、自然と文化の背景を一切考慮しない美食の追求は、無自覚に既存の差別・搾取・破壊の構造を肯定し、再生産してしまいかねん」
「いや……、それは論点がおかしい。料理の味の話をしているんだから、美味い、不味いこそが論点です」
「よし、平行線を辿りそうじゃから、いったんこの話は終わりにしよう。そもそもこれはたとえ話じゃ」
「ウナギの養殖だって研究が進んでいて……」
「わかった、わかった。ウナギ、ひいては美食はどうやら、お前さんにとって譲れないラインのようじゃ。だとすればお前さんにとっての問いは、まさしく美食そのものと云うことになるのう」
「当たり前でさあ。誰だって美味いものは食いたい」
「そこじゃ。お前さんは「誰だって」と云うが、美味しいものを食べたいのは、まず何よりお前さんじゃろ? ならばお前さんは、お前さんの名のもとに、美食を問うべきじゃ。そのとき「誰だって」と云うように逃げてはいかん。「誰だって美味いものは食いたい」ではなく、「あっしは美味いものが食いたいんだ」と云うべきじゃ。そして料理にまつわるさまざまな論点――味わい、素材、マナー、歴史、文化、社会――から、お前さん自身の手で「自分にとっての美食」を選り分けるのじゃ。お前さんに「美味い」と云わしめるのは何か。その対象。その背景。その構造を、考えてみなければならん」
「そんなに難しい話なんですかい?」
「むしろこれは、いたずらな複雑化を避けるための方法じゃ。後にも触れるが、個人の趣味嗜好や愛憎と云うものはとても複雑微妙で言葉にすることが難しい。下手をすると「好きだから好き」と云うトートロジーに陥る。そこから先は平行線じゃ。あるいは自分のなかで「好き」を普遍化してしまって、他人の嗜好を蔑ろにしてしまいかねん。それよりも、自分なりの問いを持って、その問いから作品を語るほうが、感想を習慣化しやすいし、共有もしやすいと思う」
「ご隠居にとっての「問い」はなんなんです?」
「たとえば「書くこと」がそれにあたる。あるいは「人間を数字にすること」、そして「生きてゆくこと」。これは極めて単純化した表現で、実際にはこれはこれで複雑で微妙な論点を含み、問うごとに、考えるごとに、細かく修正されては積み重なってゆく。十年後にはまったく別の問いに変貌しているかも知れんが、それは鞍替えしたわけではない。自分なりに訂正を繰り返した結果じゃ」
「ははあ。ご隠居が『鉄鼠の檻』を言葉についての小説と評した理由が、あっしにもわかりやしたよ」
「うむ。京極夏彦がどのような意図を持っていたのか、ほかのひとがあれをどう読むのかは置いて、ワシは『鉄鼠の檻』を、自らの問題意識のもとでそう読んだ。自分なりの問いを設定することで基準点が生じ、作品を評することが容易になるのじゃ。逆に、「面白い/面白くない」だけで作品を語ろうとすると、「「面白い」とは?」と云う自己言及的な問いがなされない限り、トートロジー的で空回りした感想になりかねん」

2.3. 作品の価値づけ

「そう云えばご隠居の感想には、「面白い」かどうかの評価があまり出てきやせんね」
「新刊小説の場合は意識して評するようにしておるが、それでも「面白い」から感想を切り出すことはめったにないのう」
「それはさっき云った通り、問題意識に基づいて読んでいるからですかい?」
「それもあるが、そもそも「面白い」「好き」から感想を語ることはあまり効果的ではないからじゃ。たとえばお前さん、パクチーは好きかの?」
「ええ、大好きです。あの独特の風味がたまらないんでさあ」
「そうか。ワシは嫌いじゃ。あの独特の風味が嫌でたまらん」
「ええーっ。あれが良いんじゃないですか」
「……な? 平行線じゃろ? けれどもここで重要なのは、ワシもお前さんも、パクチーが独特の風味を持っていることについては同意できると云うことじゃ。まずパクチーが独特の風味をワシらに与える。それをお前さんは好ましく感じ、ワシは厭わしく思う。先ほども云ったが、個人の趣味嗜好や愛憎は複雑微妙なものじゃ。たやすく言語化できるものではないし、いわんや共有をや。一方で風味自体はある程度、言語化できる。そうして言葉にした風味をもとにすれば、今度は各々の趣味嗜好を言語化し、互いにひとつの意見として受け止めることができるじゃろう」
「なるほどねえ。でもご隠居、それじゃあ作品の良し悪しや、優劣を語ることはできやせんよ」
「そもそも良し悪しや優劣を決めることが大事なのか、と云う論点もあるが、ここでは置こう。確かにパクチーの独特な風味を云々するだけでは、その良し悪しを決めることはできんし、パクチーの品評会があったとしたらその風味の優劣を決める基準がなくなってしまう。けれどもたとえば、パクチーの風味としてかくあれかしと云う基準があるなら、それにどこまで迫っているかで較べることはできるのではないかの?」
「でも、そんな基準、あるんですかい?」
パクチーについては知らんが、小説については、たとえば分析美学の分野で「批評の哲学」などが論じられておる。これもワシは詳しくないし、厳密な哲学的議論をしたいわけでもない。ただ、ノエル・キャロルと云う哲学者の議論は個人的にとても参考になったので、それを踏まえて「小説作品をどう価値づけるのか」を見ていくことにしよう」

2.3.1. 意図がどこまで達成されているのか

「ノエル・キャロルは『批評について』と云うその名もずばりな本のなかで、批評の本質を「理由に基づいた価値づけ」である、と主張しておる。そして価値づけるための根拠として、「作者の意図がどこまで達成されているか」が論じられるべきだと云う。批評と云うと日本語では複雑な文脈を持ってしまっているが、とりあえずここでは感想と云い換えておこう。読者は作中の記述や作者自身の言葉などを手がかりに作者の意図を見出し、その意図がじゅうぶんに達成されているとき、それが良い作品であると評することができる、とまあ、そう云う理屈じゃな。少し前、「作者の死」をそう易々と云うべきではないと語ったのは、キャロルの議論を踏まえておる」
「でもご隠居、それじゃあ、まぐれ当たりみたいな作品を褒めることができやせんよ。それに、なんでもかんでも作者の意図通りにいくわけじゃないでしょう。意図通りにいかないで失敗したら良くない作品、と云うのはわかりやすが、意図を超えて成功してしまったら、どう評すればいいんです?」
「ワシも、キャロルはそのあたりの疑問にうまく答えることができていないと思う。作品製作は、作者の意図を平気で超えてしまうものじゃ。じゃからワシはここで、「作者」を「作品」と置き換えたい。「作品の意図がどこまで達成されているか」と云うことじゃ」
「作品はものを考えませんよ」
「自分のために感想を書く、と云う議論を思い出すのじゃ。もともとどのような意図があったのであれ、その後の言動を規定するのは書かれてしまった言葉のほうじゃ。これは作品製作についても云える。小説なら書き出しの一文から、絵画なら絵の具のストロークから、音楽なら最初の一音から作品はつくられはじめる。そして置かれてしまった要素は、未だ置かれていない次の手をある程度定めてしまう。その規定はときとして、作者の意図を超える……。これが創作のダイナミズムじゃ。このいちいちの規定、作者の意図をも超える連鎖の流れを、作品の意図と考えよう。この意図は得てしてあとづけじゃが、そもそも物語るとはそうしたあとづけの繰り返しではないかの?」
「話が逸れてますぜ、ご隠居」
「おっとっと。まあ、ごく単純に云えば、作品そのものが何かしらを意図していると仮定したうえで、その意図を読み解き、どこまで達成されているかを考える。これが価値づけの根拠じゃ。キャロルの議論では読解の対象が作者の意図に限定されていかにも窮屈じゃが、作品の意図を読み取ることには読者ごとの解釈の余地が広い。そしてこの解釈をもたらすものこそ、各々の問題意識じゃ」
「作品の意図ねえ。でもご隠居、たとえば推理小説の場合は、トリックやロジックがその意図にあたるんじゃないですかい? それなら各々の解釈の余地はありませんや」
「それは違うな。もちろん、トリックの達成こそ意図とする推理小説は少なくない。むしろ作家はそれを意図しておる。けれども、作品の意図はほかにあって、トリックやロジックはそれを達成するための手段として読むこともできる。たとえば『鉄鼠の檻』はフーダニットの小説じゃが、禅についての知識に基づいた犯人特定の推理はあの小説の意図するところじゃろうか? それよりも、禅の歴史が犯人特定の推理と結びついてしまうこと、その結果としてフーダニットが禅の歴史の見立てと化してしまうことに、あの小説の意図があるのではないか?」
「いやいや、ご隠居、そもそもあの小説は動機がミソですぜ」
「ほれ、解釈が割れた。もちろんあの小説を特異な動機から読むこともできる。けれども動機が読解の終着地点ではなく、むしろ、あの特異な動機を通して、全篇にわたって語られてきた禅の思想がふたたび問われるのだと読むこともできよう。このように、読者の解釈の余地は相変わらず残されておるし、そこで各々の考えが問われる。作品の意図とその達成度合いと云う観点は、そうした各々の問題意識を、作品の価値づけへ接続するための物差しでもあるのじゃ」

2.3.2. カテゴライズと文脈づけ

「ところで、『鉄鼠の檻』はフーダニットか、それとも動機か、と云うのは小規模ながらジャンル論の様相を呈しておる。ジャンル論は得てして不毛に終わるが、適切に運用されれば、このように各々の立場の違いを鮮明にする。ここから妥協点を探ったり、統合した読みを試みることも可能じゃ。ノエル・キャロルも、価値づけのためには分類と文脈づけが助けになると云っておる。小説においては、両者はこの際同じようなものじゃ。推理小説を読むことは、推理小説として読まれてきた作品群の文脈に基づいて読むと云うことじゃからのう」
「でも、分類や文脈はひとそれぞれでしょう? だからこそ、これがミステリだ、みたいな議論は不毛に終わっちまう」
「もちろん。けれどもそれは、個別具体的な作品を相手にしていないからじゃ。そしてもうひとつ、フィードバックをしていないからでもある。カテゴライズも文脈づけも、あくまで作品を読むための手がかりに過ぎん。推理小説とされてきた作品群と並べながら、目の前の小説がその文脈においてどう読めるのかを考え、ときにはそれまでの文脈づけのほうを見直してゆく。そうして作品を自分のなかで定位していくわけじゃな」
「と云うことは、畢竟ジャンル論は不必要なわけで?」
「いいや。作品自らジャンルの文脈に則っていることもしばしばある。推理小説はたいていそうじゃ。そんなときは文脈づけが必要になるじゃろう。けれどもそのときも、これが推理小説、と云う固定された物差しのように考えるのではなく、当該作品が自らをどう文脈づけているのか、それを読者である自分はどう読むのか、自分なりの文脈づけと照らし合わせながら評価することになる。そんなとき、何を推理小説とするかなんてひとそれぞれだから、と云ってしまうのは評価の放棄であり、考えることの放棄じゃ。先ほども云った通り、ジャンル論は各々の立場の違いを鮮明にする。つまり、カテゴライズや文脈づけはときとして信念の問題になる。ゆえに泥沼化しやすいし、平行線になり、水掛け論になる。けれども互いの信念を尊重すれば、作品と読者のあいだで、あるいは読者のあいだで、建設的な対話が可能になる――、いや、そもそもそうでなければ対話なんぞできん」
「信念ですか。これはまた大きく出やしたねえ」
「最前の「問題意識」と、これは近しいものじゃと思う。つまり、自分にとって譲れない領域であり、お前さんをお前さんたらしめるものじゃ。それではこの章の最後に、ワシの敬愛する作家――リチャード・パワーズの小説『ガラテイア2.2』から引用しておこう。語り手の「僕」とはパワーズ自身の似姿であり、これは小説を読むことをめぐる小説じゃ」

本当の難点は信念にある。僕が担当した十八歳の学生たちは、読者が現実で、自分自身も現実で、世界の話題もまた現実だとはまったく信じていない。そうだということを、どこまでも主張しなければならないとは信じていない。
――リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』(みすず書房

「頭でっかちなワシ自身に刺さる鋭い一節じゃ。小説は虚構ではあるが、小説そのものは現実じゃ。それを読むお前さんも現実。そして、感想もまた現実なのじゃ。十八歳の大学一回生はまだこれを信じておらぬ。ワシもそうじゃったし、いまでもまだまだ信じきれん。それでも、いや、だからこそ、われわれは感想を書くのじゃ」
「お説教ですかい」
「そう思ってもらって構わん。もっとも、お説教はこのあたりで終いじゃ。次は具体的な実践におけるテクニックを幾つか話そう」

3. 何を書くのか

「ここまで、感想をどのような目的で、どう書くのかを語ってきた。それはそのまま、何を書くのかと云うことの云い換えでもある。あらためて整理すれば【一、作品が何を目指しているのか】【二、作品に何を求めているのか】【三、作品から何を引き出すのか】と云うことになるじゃろう。これらは整理のためにわけただけで、実際は相互に関係し合って、究極的には一体化しておる」
「【一】が「作品の意図」、【二】が「読者の問題意識」、【三】が「両者を踏まえて導かれる感想」ですね?」
「うむ。作品の価値づけに重きを置くならば【一】が中心になるじゃろう。自分の問題意識を見出し、考察し、深めてゆくことを目的とするなら【二】が、もっと自由に、小説を題材に文章を書いてゆくならば【三】が中心になる」
「ふーむ、方針についてはかなりまとまった気がしやす。でもご隠居、いざ書こうとすればうまくいきやせん」
「そうじゃなあ。前にも云ったが、ここから先は慣れてもらうしかない。ワシの思う作品の意図やワシ自身の問題意識を語ったところで、お前さんはワシの縮小再生産みたいな感想しか書けんじゃろう。青は藍より出でて藍より青し、と云うことになれば良いが、そもそもワシはワシの考えを誰かに受け継ぎたいわけでもない。ワシの問いはワシのものじゃ」
「じゃあ、この章は終わりで?」
「いんや。何点か、Tipsとしてテクニックを語ることにしよう」

3.1. 抽象化と比喩、あるいはイメージ

「お前さんは推理小説が好きなようじゃが、推理小説の感想において立ちはだかるいちばんの壁はネタバラシじゃ。推理小説の意図や読者の問題意識を語るにあたって、トリックやロジック、趣向の核心についての言及は避けられん。クローズドな場所でネタバラシありきの感想を書く、と云うのもひとつの手じゃが、これでは感想を共有できる人間が限られてしまう」
「自分のためのノートに書くならそれで良いんでしょうが、確かに文芸サークルや友達付き合いで、そりゃあ困りますね」
「ではネタバラシを避けるためにどうするのか。多くの読者はそこで、「驚きの結末」「どんでん返し」と云うような、紋切り型に陥る。よく馬鹿にされるが、それは決して考えなしの感想と云うわけではない。具体的な言及を避けるための苦肉の策じゃ。けれどもこれでは、作品の固有の達成を、お前さん独自の読みを、語ることができん。そこでワシがよく使うのは、抽象化と比喩じゃ。具体的な言及ができないならば、抽象的に語るか、比喩によって語れば良い
「それくらいで避けられるもんですかねえ」
「完全に避けることはもちろんできん。読者に予断を与えるかもしれん。けれども、ワシの経験上、抽象化や比喩は、うまくいけばまだ読んでいない読者に対して、読書の補助線としてはたらいてくれる。それに、どちらも作品の勘所を掴むにあたって不可欠な作業じゃ。一石三鳥くらい狙えるぞ」
「実例がわからないとピンときやせん」
「それでは、過去に書いたワシの感想のなかから例を出そう。まずは抽象化について。カーター・ディクスン『白い僧院の殺人』は、ワンアイデアのトリックが冴え渡った作品じゃが、感想ではこのトリックに言及するのは難しい。そこで、アイデアの眼目を抽象化し、トリックが作品全体にもたらす効果に着目して、こう書いてみた」

[…]そしてこの謎〔雪に囲まれた館に足跡が一本だけ伸びていると云うシンプルな密室状況〕はこれまたシンプルな発想で解き明かされるのだけれど、この発想が〝誰がやったか?〟〝どうやったか?〟〝なぜやったか?〟ではなく〝何が起こったか?〟を導くものであるのがミソで、発想の逆転と云って過言でないこのアイデア震源として波状的に、〈白い僧院〉の周辺にあった複雑な事件はむしろこの事態を引き起こすものとして組み直され、足跡のない雪の風景は事件の核ではなくむしろ一連の出来事の周縁へと裏返ってゆく。

「ここでおこなわれているのは、鮮やかな発想について「この発想は何をしているのか?」を考えることじゃ。その答えとして、ワシは謎の焦点のずらし、そしてそのずらしが解消されることによってこれまで起きていた出来事の意味合いががらりと変わることを挙げた」
「逆に、フーダニットやハウダニットホワイダニットの興趣が薄いことも指摘されていると読めやすね。実際、あっしは『白い僧院』を読んだとき、なんだか呆気なくてつまらなかった」
「うむ。これは先ほどのパクチーと同じじゃ。その作品がどのようなものであるかを分析して語れば、好き嫌いはあとからついてくる。逆に云えば、誰もが認める美点よりも、評価のわかれそうな点にこそ、作品の核心があるのかもしれんのう」
「一石三鳥の意味がわかった気がしやす」
「比喩も似たようなものじゃ。先の例でも比喩のようなことはしているが、別の例を示そう。米澤穂信『可燃物』の感想から」

ストイックな短篇集だ。定規やコンパスで作図された幾何学模様を思わせる。謎があって、解決がある。その抽象的な運動のために、ぎこちないほどに淡々とした文章と、警察小説の体裁が用いられる。[…]衝撃の真相や派手なサプライズはどこにもない。ぼくは中学の頃の図形問題を思い出す。与えられた情報からわかることを積み上げてゆく。知りたい情報から天下り式に知るべき情報を検討してゆく。それでもあと一歩、飛躍が必要になる。考える。補助線を引く。解ける。ざっとそのようなものだ。

「褒めているのか貶しているのかわかりやせん」
「まさしくそこが狙いじゃ。呆気ないと云えば呆気ない、ストイックと云えばストイック、素朴と云えば素朴。そんな作品の容貌をうまく掴むために、ワシは図形問題と云う比喩を持ち出した。力業では解けず補助線を必要とする、シンプルな問題の数々をな。比喩には良いも悪いもない。それは見立てであり、換言じゃ。けれどもいったん比喩を通したおかげで、具体的なアイデアの言及を避けながら、作品について論評できる。このあと、感想は「しかしもちろん、小説は抽象的な図式ではない」とつづく。小説は図形問題ではないし、人間たちもまた任意の点ABCではない。それでも小説を、人間を、図式に回収してしまうところ、そして図式からあぶれてしまった人間たちを突き放すところに、『可燃物』の凄みがある」
「単に喩えればいいわけじゃないと」
「うむ。喩えるだけなら畢竟、どのような比喩でも良い。多くの推理小説が図形問題に喩えることができるじゃろう。この感想において比喩が効果を発揮しているのは、図形問題に喩えたうえで、そのイメージを作品自体が裏切ってしまうところにある。これは『太陽黒点』の感想でもそうじゃな。比喩はあくまで語るための手段であって、そのうえで何を語るかが肝要じゃ」
「でもご隠居、ご隠居はなんだか、自分の考えたイメージに引っ張られすぎるきらいがありやすよ」
「うーむ、それはイメージの怖いところじゃ。けれども同時に、強力なところでもある。推理小説においてイメージを扱う天才が京大ミステリ研のOBである巽昌章じゃ。たとえば彼は、京極夏彦『絡新婦の理』の文庫版解説において、次のように抽象化を施し、比喩を用いることで作品のイメージを起ち上げ、比較してゆく」

[…]巨大なネットワークの生成とは、言葉の符合、イメージの連鎖を駆使して、作品を連想と類推の実験場に見立てることに他ならない。本来結びつくはずのないものたちが集まって壮麗な絵柄を織り上げるための場所、推論の飛躍や誇張をやすやすと受け入れる、いわばゆるんだ世界を準備することこそが、京極的手法の真髄なのだ。

 その果てに現われるのは、壮大な言葉の川である。内面と外面、さまざまな思想、それらが解体され、「固有の中身」を剥奪されるとき、残るのは言葉の集積であり、言葉たちは互いの響きとイメージを慕って流れはじめる。

[…]佐藤友哉にせよ、舞城王太郎にせよ、あるいは戸梶圭太にせよ、この五年余りという時間は、壊れた世界、壊れた人間を標榜する小説たちの氾濫によって記憶されるだろう。壊れるということの正体と、そこで営まれる活動から目をそらすことはできないが、だからこそ、壊れていない『絡新婦の理』の、あたかも静止画像で見た大爆発の寸前のような、極限まで膨らみながら不吉な穏やかさを保つ美しい球体に、もう一度注意をはらっておきたい。

「うわ、ご隠居が影響受けてるのがわかりやすいですねえ」
「せからしかっ。巽がここでおこなっているのは、具体的に作中で何が起こるのかではなく、小説が何を試みているのか、「巨大なネットワークの生成」や「壮大な言葉の川」と云ったイメージで抽象化することじゃ。トリックや犯人について直接書くことでは捉えきれない作家の手法の真髄を見出す。いや、逆じゃな。巽はここで京極堂よろしく、言葉によってそれが真髄であると見立ててしまうわけじゃ。そして同時代の小説家たちと比較しながら、「壊れた世界」と云う比喩に対して更なる比喩をぶつける。京極作品は「鈍器本」などと呼称されるが、ここで喩えられている「爆発の静止画」はそんな揶揄とは一線を画した表現じゃ」
「『絡新婦』が、なんだかますます凄い作品に思えてきやした」
「彼の解説や評論は、あまりに強力なイメージを与えるものじゃから、度の強い眼鏡でもかけさせられたかのように読者の読み方さえ変えてしまう。まったく、おそろしい評論家じゃ。ゆえに敬愛しているのじゃがな」
「ご隠居、なんだか眼が据わってますぜ」
「おっと。巽以外だと、北村薫有栖川有栖も比喩の達人じゃの。『日本探偵小説全集 名作集1』解説において、羽志主水「監獄部屋」を北村薫が評した際の短いひと言「落雷のごとき結末」は、単に「意外な結末」と云うのではたどり着かない深みで作品の凄絶な幕切れを捉えておる。あるいは有栖川有栖鮎川哲也を評した、ある座談会でのこんな表現――」

〝時間で解く〟を言い換えると〝手順で解く〟っていうか。鮎川先生は物理トリックは明らかに低く見てますよね。エッセイや作中人物のセリフにそういうのが出てきたり。物理的トリックの大技が決まった時っていうのも華々しくて興奮しますけども、手順で裏切られた時は本当に足許をすくわれたみたいな独特のショックがあります。時間イコール手順っていう感じ、手順を替えれば世界が変わる、乱丁になったらまた違う話が出てくる不思議な本みたいに。
――鮎川哲也鮎川哲也短編傑作選I 五つの時計』(創元推理文庫

「ワシはこれを読んだとき舌を巻いた。有栖川有栖推理小説のトリックとそれがもたらす面白さを、比喩を用いることで巧みに捉え、言語化できておる」
「物理トリックを「大技が決まる」ってスポーツみたいに表現するのはしっくり来やすね。実際物理現象の話だし、できる/できないじゃなくって、できてしまったことが面白いし、凄いって云う。それに、「乱丁になったらまた違う話が出てくる不思議な本」と来た、こいつはすげえや」
「うむ。とくに後者、ともすれば発想の奇抜さや計画の細かさくらいしか語られることのないトリックそれ自体に物語のイメージを与えることで、有栖川はトリックを楽しむための新たな視角さえ与えているのじゃ。比喩やイメージは言語化のための有効なツールであり、ときにはただ云い表わす以上の効果を発揮すると云うことが、これでわかったかの?」
「ご隠居が先ほどから説明のために比喩を使うのも、同じ理由で?」
「良く気づいたのう。比喩によって伝えにくいことが伝えられることもある。感想とはどのような営みか、どうあるべきとワシが考えているのか、そのまま伝えることは難しい。けれども料理や勉強と云った比較的身近なもので喩えることで、多少の具体性は犠牲になるが、伝えたいことを言葉にできているわけじゃ」
「うーん、でもご隠居の喩えはわかりづらいこともありやす」
「もちろん、うまく喩えなければ議論をかえって混乱させてしまうかもしれん。それに、あまりに一般的なものに喩えすぎると、その話題に固有のことを話すことができん。けれども巽昌章がやってのけるように、比喩によって別ものに見立てることで、主題を接続して大きなことを語ることもできる。比喩は劇薬。使えば絶大な効果を発揮するが、用法用量を守って使うことが大切じゃ」
「それもまた喩えでさあ」
「こりゃ、一本取られたの」

3.2. 細部と全体の呼応、あるいはメタローグ

「それでは、もうひとつのテクニックを。これまで語ったとおり、小説は書かれながらにして自分自身を規定してゆく。それをもう少し段階に分けて云えば、書かれた細部が全体を浮かび上がらせ、そうして仮想された全体が細部を規定してゆく、そんな生成プロセスじゃ。こうした細部と全体の呼応を前提に置くと、作品の全体像が作品の細部に埋めこまれているのを見つけることができる」
「なんだか怪しげですねえ」
「そんなに変な話でもない。要するに、これがどのような小説なのか、作中で明かされていると云うことじゃ。いや、あくまでそれは読みのひとつなのじゃから、作中の一部の要素を作品全体に当てはめて読んでみると云うことでもある」
「我田引水じみた読みになりやせん?」
「うむ。じゃから扱いには注意が必要じゃが、うまく指摘できれば感想をまとめるにあたって重宝するぞ。たとえば『太陽黒点』なら、作中の戦争や歴史についての記述を、ピタゴラ装置的な悲劇の連鎖と呼応させることで、作品のテーマを引き出すことができる。『鉄鼠の檻』なら、禅についての作中の議論と事件そのものを重ね合わせるような読みができるじゃろう。推理小説には全体の結構と細部の記述がわかちがたく結びついているような作品が多いから、このような呼応はしばしば見出せる」
「うーん、ご隠居がそうやって読んでいるだけじゃないですかい?」
「それはそうじゃ。これはあくまで読み方の話。小説を読みながら細部の記述から全体を起ち上げ、その全体から細部を読む、そんなフィードバックの繰り返しによって作品を捉えるのじゃな。けれどもその運動は、読んでいるその瞬間よりも、感想を書くときに発生する。なんとなれば、感想を書く行為=書きながら考える営為とは、細部と全体の呼応のなかで書き進めることなのじゃから」
「ははあ。この文章もそう云うことですね?」
「うむ。ワシらのここまでの会話も、そうして書きながら考え、考えながら書かれておる。それはひとりの人間の思想を語る文章であるのに、わざわざ問答形式にしていることからも明らかじゃ。この文章は書き手の思考を書き留めながら、いちいちお前さんに突っ込んだり要約してもらったりすることによって書き進められた。ワシらの問答自体が、問答の内容を反映しているわけじゃな」
「自己言及的だ」
「人類学者のグレゴリー・ベイトソンは、このような会話形式をメタローグと名づけている」
「つまり、会話の構造が会話の内容を反映している会話」
ベイトソンが採用したのは父と娘の会話だ」
「そこには、自分の考えてきたことが自分の子供たちの世代にも伝わると良い、と云うベイトソンなりの切実な祈りが籠められている」
「同時にそこには、パターナリスティックなおこがましさもある」
「けれども書かずにはいられない」
「そうでなければ伝わらないから」
「それが、何かを書くものの悲しさであり、何かを書くことの面白さでもある」
「われわれは書く」
「書きながらにして考える」
「書きながらにして読む」
「書きながらにして生きる」
「なんとなれば、最後に残るのは言葉、ただ言葉だけだからだ」

――了


【まとめ:結局何が云いたいのか】

  1. 感想は書きながら考えるべし
  2. まずは書きはじめるべし
  3. 書くことを習慣化するべし

 

2023年下半期ベスト

 今年は過去数年間のうちで、もっとも手応えをもって読書できた一年だったと思う。読みながら考え、考えながら読む。理由はおそらく、積極的に本文に書き込むようになったこと、それと、メモ帳を普段から使い倒すようになったことだろう。それは書きながら読み、読みながら書く作業だ。そうして自分のなかに地図を引きながら読むうちに、書物が次の書物を導く。とくにメモを残すようになった春先からこっち、ぼくはずっと、巨きな一冊の書物を繙いているような気分だった。目の前の一冊はその紙葉に過ぎない。そしてぼくはきっと、その書物を読み終えることはできないのだろう。けれどそれでも、次のページをめくれば何が待っているのか、ぼくは読み進めたいと思うのだ。
 いずれにせよそんなふうに読むものだから、これがベスト、と云う感じで総括することができない。ゆえに以下に並べる十冊は、強いて云うならもっと大きな連なりから取り出した要約のようなものだ。面白い小説や印象的な短篇なんか、ほかにもたくさんあった。とは云えまとめるのならたぶん、こうなるのだろうと思う。もう一、二冊加えられるなら、たとえばクリスチャン&チェイター『言語はこうして生まれる』や、本田晃子『革命と住宅』アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』なんかも挙げたい。あと、コーマック・マッカーシー『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』とか小川哲『君が手にするはずだった黄金について』とか打海文三ハルビン・カフェ』とか京極夏彦鉄鼠の檻とか……。以下で挙げている小説作品が再読ばかりで、そうした初めての出会いも挙げるべきだと思うのだけれど、とは云えこの半年は、再読の季節だったのだろうと思う。
 それでは以下、読んだ順に並べ、簡単なコメントを付す。具体的な感想は過去の記事を参照してもらうことにして、読むことの周辺について書くことにしよう。

テッド・チャン『息吹』

この宇宙は、こらえていた巨大な息としてはじまった。その理由は知る由もない。しかし、どんな理由だったにしろ、宇宙が開闢したことに、わたしは感謝している。わたしがこうして存在するのは、その事実のおかげだからだ。わたしの望みと考えのすべては、この宇宙のゆるやかな息吹から生まれた渦巻きであり、それ以上でもそれ以下でもない。そしてこの偉大な息吹が終わるまで、わたしの思考は生きつづける。

 SFマガジンのSF初心者向けミニレビュー企画のために再読した。こんなにも希望や救いを追求するような物語であるのに、全篇にわたって絶望のような静けさが満ちているのは、テッド・チャンの捉え難いところだと思う。
 当該SFMの近況報告欄でも同じような話をしたが、スケッチやメモ、日記を書くときはいつも「息吹」のことを思い出す。書くことは残すことだ。それは生きていることの証であり、達成であり、実感である。

 

カル・フリン『人間がいなくなった後の自然』

またしても、生命は潜伏していたのだ。生命は、大気と同じように目には見えないが、常に私たちの周りを漂っている。それは私たちが呼吸する空気の中にもあるし、私たちが飲む水の中にもある。味わってみよう。息を吸うとき、水を飲むとき、私たちは生命の可能性を味わっている。その何でもないコップの中には、すべてのものの胚芽が入っているのだ。

 気候変動の加速は著しく、見通しは絶望的だが、それでもぼく個人は生きている実感を得られるようになったからだろうか、去年ほどの憂鬱を抱えることなく今年は生き延びることができた。希望とか絶望とか以前に、気候変動は現実であり、われわれはそこで生きているのだ。人間がいなくなったあとに新生する自然を書いた本書は、そんな人新世を生きてゆくうえでの心持ち――人間を惑星の中心から退かせつつ、棚上げにすることもない――を記しているように思う。

 

ホイト・ロング『数の値打ち:グローバル情報化時代に日本文学を読む』

しかし数字のポリティクスに着目することは、それが支える「事実」について議論を開くことでもある──そのためにはディシプリンやほかのコミュニティが「事実」に同意するに至った歴史的プロセスを認識しなくてはならない。完全に拒絶してしまうのではなく、さまざまな理論の嘘(フィクション)が事実をつくりだす交渉に我が身を開き、事実が支えているかもしれない他の嘘に想像をめぐらせるような立ち位置をとらねばならない。

 数字をもって何ができるか。本書を読んで遠読とは、茫漠としたアーカイヴの海でサルベージをするようなものだと思った。光を当てる。錨を降ろす。流れ去ったものを掬い取る。

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山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき:庭園の詩学と庭師の知恵』

庭は変わり続け、文はつねに遅れている。

 庭造りとは、ひいては製作とは、世界と関わる方法である。それはいかにして可能か? 読書と執筆に引きつけて読みすぎたきらいもあるので、もっと造園やデザインの観点でも読めるよう、来年はジル・クレマンとかティム・インゴルドとか読んでいきたい。

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石牟礼道子苦海浄土

かつて一度も歴史の面に立ちあらわれたことなく、しかも人類を網羅的に養ってきた血脈たちが、ほろびようとしていた。[…]そこには、退化しきった活字メディアなどへの信仰は歴代にわたって存在せず、次なる世紀を育む〈言霊〉のるつぼが、静かに湧いていた。海と空のあいだの透明さは、そのゆえにこそ用意されていた。ことに椿の海からたちのぼる、いのちのかげろうは。

 『カモガワGブックス Vol.4』の〈池澤夏樹=個人編集 世界文学全集〉全レビュー企画に参加したので読んだ。実際にぼくがどう読んだのかはそちらで確認してもらえれば良いとして、次の『歴史の屑拾い』を踏まえつつ提案した「文学の不知火」としての小説は、ぼくが模索するべきひとつの可能性が示されているようで、自分で自分に励まされることになった。上で述べた「手応え」とは、ひとつにはそのようなことだ。

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藤原辰史『歴史の屑拾い』

言葉の群れは、やがて偶然出会った読者によって批判され、解体され、次の書物や思考の肥やしになる。少なくともそうなるように工夫されなければならない。謝辞や註や参考文献が必要なのは、それらが偶然の出会いの記録でもあり、歴史書の解体に役立つからでもある。やがて歴史研究者自身も、老いて寿命を迎えることで、自分の放った言葉とともに、歴史にただよう「屑」の一つになる。現世のしがらみから切り離され、誰の所有物でもない「屑」に分解されるのである。そんな歴史研究者の自覚においてこそ、歴史叙述は生成し始めるのだと思う。

 来年は、歴史学に関心を向けてみようかと思う。とりあえず、その意志はここに記しておこう。

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石岡丈昇『タイミングの社会学:ディテールを書くエスノグラフィー』

書くことは考えることである。考えることが書くことによって結実するというのではなく、書くことが考えることであるというこの順序を大切にしたい。

 得るところの多い本だった。社会学のみならず、書くこと、生きること一般に関心を払う人間ならば何かしら考えられると思う。
 以下の感想記事で触れなかった点として、手も足も出ない状況であろうと「見届ける」こと、それによって世界を根底から捉え直す「眼」のあり方は、たとえばミステリにおける「名探偵」の意義のひとつではないだろうか、と思った。

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小川哲『地図と拳』

時間。すべての建築は特定の時間に帰属する。現代建築は現代に、古典建築は過去に。そして、その時間を無限に延長しようとする。モニュメントの語源は「思い出させる」ことにある。拳の記憶を、その時間を、永遠に保存し、呼び覚ますこと。

 先に述べた「不知火」としての小説が、ここでは実践されているように思う。いまならもっとちゃんと読める、と思い立って再読し、確かな手応えを得て、気合いの入った長文も書いた。トークショーも行きました。楽しかったです。ぼくも、もっと読みます。もっと書きます。

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イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

「いかにも、帝国は病んでおります。しかもいっそう悪いことには、そのおのれの不幸に慣れようとさえいたしております。私の探索の目的もまたここにございます──なお垣間見ることのできる幸福の跡を探ることによって、そのいかに乏しいかを量り知るというわけでございます。もし陛下が周囲の闇の深さを御承知あそばされようと思し召されますなら、瞳を凝らして遠い微かな光をご覧なされねばなりませぬ。」

 高校生くらいに読んだときは、幻想的で寓話的だな、としか思わなかった。それがいま読むと、その幻想のあまりの精緻と寓話の驚くべき射程に圧倒される。それでいて、いっさい重くはない。それどころか、ここにはともすると、何もない。
 今年はクリストファー・アレグザンダーや、いま読んでいる途中だが、ケヴィン・リンチにも触れた。歴史学と並んで、都市論は来年のもうひとつ、追うべきテーマになりそうな気がする。

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アンソニー・ドーア『すべての見えない光』

その数字が発せられ、家々の屋根の上、海の上で翼を広げ、どこかにある目的地に向けて飛んでいく。イングランドへ、パリへ、死者たちへ。

 この小説そのものについて思うところは以下の記事でだらだらと書いたので個人的な関心に引き寄せて云うと、推理小説は人間を模型にする、では模型に何ができるか、と云う点で、いままでぼくは「模型にされてしまうことの悲劇」にばかり注目してきたけれど、模型だからこそ語り得るものはもっと広いのではないか、と思いはじめたところだ。

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 以上、十冊。それでは、最後に――ガザで、ウクライナでおこなわれている一切の暴力に反対する。イスラエルは、ロシアは、いますぐ戦闘から退くべきだ。

 



 正直に云えば去年のいまごろ、ぼくは「来年のいまごろ」が来るとはあまり信じていませんでした。そのことに、そしてそれが裏切られたことに、いまいくらか驚いています。願わくは「来年のいまごろ」をいまいちど、迎えることができますように。その祈りを持って云いましょう。良いお年を。

読書日記:2023/12/08~12/20 カルヴィーノ『見えない都市』ほか

アラン・コルバン『記録されなかった男の歴史:ある木靴職人の世界1798‐1876』

本書での私の意図は、一人の人間が生きた痕跡を集め、次いでこれをつなぎあわせることだが、その痕跡のいずれも、一つの運命としてのピナゴの存在を構築しようと思って作られたものではなく、運命などというものを持ち合わせたかもしれない個人としてピナゴを示そうという意図で作られたわけでさえもない。要するに、最初はバラバラの断片からパズルを組み立てるということだ。そして、そうすることで、時間に呑みこまれてしまった人々、消え去ってしまった人々について書こうとしているのであって、何かを証言しようなどと言い張るつもりはない。消滅に関するこのような考察は、その想い出がなくなってしまったような存在、私がどんな愛着も寄せていない人間を、もう一度生きさせることを目指している。この人間と私は、どんな信条も、使命も、契約も先験的に分かち合っていない。問題は、この人間を再-創造し、彼が自分の生きた世紀の記憶に入っていく二度目のチャンス――さしあたり、かなり揺るぎないチャンス――を与えることだ。

 現代史の講義で、社会史の実験的挑戦として薦められたので読んだ。以前から佐藤亜紀の紹介で気にはなっていて、古本屋で手に入れてから積んではいたのだけれど、ようやく読み出すきっかけをつかめた次第だ。歴史家と探偵、と云う比較を考えていたと云う文脈もある。あるいは、過去を起ち上げることと、起きたことを推理すると云うことの比較。こうした経緯や思考はここで書かなければおそらく記録されることはなく、ともするとこの記録もそう遠くないうちに失われるだろう。ぼくがなぜこの本を読んだのか、あるいは読んだと云う事実さえ、後世の人びとは知ることができない。
 本書はそうして時間の彼方へ消え去ってしまった個人の記憶へ迫ろうとする試みである。対象となるのは戸籍台帳から無作為に選ばれた数人のうちのひとり、19世紀の木靴職人ルイ゠フランソワ・ピナゴ。彼は日記やメモ、図表と云ったおよそ記録と呼べるものを残さなかったどころか、字を読むこともできなかったと思われる。彼が残した言葉はただひとつ、晩年に記した名前代わりの十字だけだ。彼の存在を証明するのはそれ以外には、戸籍をはじめとした公的な文書や名簿くらいであり、アラン・コルバンはそうしたかすかな痕跡を手がかりに、ピナゴの生涯を起ち上げようとする。どこで生まれ育ったか。いつの時代に生きたのか。どんな家族がいて、誰と結婚し、誰に仕事を習い、教えたか。個人を把握し、管理し、支配するためのシステム――名簿が、ここでは翻って個人の存在を証明し、その人生を想像するための時を超えた繋がりとなる。そうしてかつてピナゴを取巻いていた環境が、時間が、言葉が、やがておぼろげながら浮かび上がってくるさまは、ピナゴと云う人間そのものにはぜったいに至ることができないぶん、隔靴掻痒の感もあるけれど、しかし人間を理解するとはそもそもそうした、空白を捉える営みではなかったか。
 過去とはおそらく、ポンペイを呑みこんだ火砕流のようなものだ。そこに生きていた人間たちは漏れなく腐って消えてしまった。われわれには残された空洞に石膏を注いで、失われたものを再現することしかできない。コルバンが本書で試みるのは、百年前に生きたひとりの人間に向かって、周囲の固まった火砕流を把握し、ほんの僅かに残った空白、ちょっとした溝のようにも見えるその痕跡を調べ、「ここにピナゴが生きていた」と云うことだ。「彼はここで生きた」。この意味で、ピナゴを甦らせるのはおそらくコルバン自身ではない。丁寧に彫られ、磨かれた空洞に想像と云う石膏を流し込む役目は、読者一人ひとりに託されている。

 

イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

「いかにも、帝国は病んでおります。しかもいっそう悪いことには、そのおのれの不幸に慣れようとさえいたしております。私の探索の目的もまたここにございます──なお垣間見ることのできる幸福の跡を探ることによって、そのいかに乏しいかを量り知るというわけでございます。もし陛下が周囲の闇の深さを御承知あそばされようと思し召されますなら、瞳を凝らして遠い微かな光をご覧なされねばなりませぬ。」

 マルコ・ポーロフビライ汗に語る、五十五の諸都市(まちまち)。欲望の都市アナスタジア、記号の都市タマラ、忘れられた都市ツォーラ、柱上都市ゼノビア、死者の都市アデルマ――。それらは別々の都市を語っているようでいて、現代における都市なるものの、さまざまな側面を切り出しているようにも見える。都市における欲望、記憶、信仰、建築、地図、生活、時間、公正、言葉、記号。語られる都市はそれらの寓話であり、あるいはおそらく、都市なるもの自体が寓話である。わけても象徴的なのは――もっとも本書は、象徴さえも空白にしてしまうのだけれど――遠い都市イレーネだろう。イレーネは遠くから見たときの名前であり、近づけばそれはもうイレーネではない。その中へ入ることなく通り過ぎてゆくものにとっての都市はそれで一つの都、そこにとらわれて出てゆくことのないものにとってはまた別の都でありますし、初めてやって来る都市が一つの都なら、立ち去って二度と返らぬつもりの都市はまたもう一つの都でございます。と語り手は云う。それぞれにいずれも異る名前にふさわしい都市でございます。恐らく、イレーネについて私はすでに他の名前でお話し申し上げておりますし、恐らくイレーネのことしか私はお話し申し上げなかったのでございます。その都市はマルコ・ポーロの生まれ故郷ヴェネツィアだろうか。けれどもその名にどれだけの意味があるだろう? あるいはヴェネツィアでさえ、別の都市の別の名前ではないのか? ここで語られる五十五の都市はすべてひとつの都市であり、またひとつの都市に別の見方と語り方を与えれば、それはすでにひとつの都市ではない。それはさながら角度を変えるだけで別の像を浮かび上がらせる万華鏡のようなもので、小説の幾何学的な構成もまたそのイメージを補強する。都市は互いに互いを写し出しながら、どこまでも無限につづいて果てがない。これを無と呼ぶ者もいる。実験と呼ぶのはあまりに容易い。けれどもこの汲めども尽きせぬ言葉の万華鏡こそ、語り手が挑む切実な賭けではないだろうか。物語についての物語を物語りながら、本書はメタフィクショナルな万華鏡を、あくまで世界へ、この地獄と化した世界へと向ける。ここにおいて、精緻な幻想は深遠な寓意と不可分だ。その途方もない射程に読みながらひたすら圧倒された。生涯最良の小説のひとつと云って良い。

【追記】あまりに圧倒されたので、忘れないでおくためのメモを記した。

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ホルヘ・ルイス・ボルヘスシェイクスピアの記憶』

「あらゆる作家が最後には、そのもっとも明敏ならざる弟子になるのだ」

 出し抜けに刊行されたボルヘス最後の短篇集。表題作はおそらくボルヘスの遺作であり、長らく未訳の作品として知られていた――少なくともぼくは鯨井さんの記事で知った。同記事ではそれ自体がまるでボルヘス的である探求の旅がおこなわれているが、本書の訳者解説を読む限り、真相は晩年におけるボルヘス短篇の妙にややこしい出版事情と、今福龍太の記憶違いが重なって、邦訳にあたって短篇がひとつすげ替えられたかのような奇妙な状況になったと云うことのようだ。
 偶然による構図の一致と、曖昧な記憶、そして書誌と云う迷宮。――本書自体もそうして意味ありげにまとめることができることにボルヘス的モチーフの面白さがあり、ひとつの限界があるのだろう、と思う。収録された四篇はいずれも、小説の初期作品を老齢に語り直した感があり、とくに「一九八三年八月二十五日」ではボルヘスボルヘスの会話のなかで、ボルヘス的モチーフが並べ立てられている。

「残りのページを埋めているのは、迷宮、ナイフ、己れは影だと思っている人間、己れは実在するものと信じている影、夜ごとの虎、血に帰る闘い、光を失った不運なフアン・ムラーニャ、マセドニオの声、死者の爪で造られた船、昼下がりに反復される古代英語などだった」
「その博物館は私にとって馴染み深いものだ」と、私は皮肉まじりに言った。
「まだある。それは、まやかしの記憶、象徴の二重の組み合わせ長ながしい列挙、月並みな表現の巧みな利用、批評家たちが発見して大喜びする不完全な相称性、かならずしも贋作のものではない引用などだった」

 そしてこの後に、上で引いた台詞が続く。なるほどどんな作家であれ、晩年は自己模倣へ至る。けれどもそれは同時に、みずからの人生を語り直す総括でもあるのだろう。『創造者』のあとがきには、こうある。

一人の人間が世界を描くという仕事をもくろむ。長い歳月をかけて、地方、王国、山岳、内海、船、島、魚、部屋、器具、星、馬、人などのイメージで空間を埋める。しかし、死の直前に気付く、その忍耐づよい線の迷宮は彼自身の顔をなぞっているのだと。

 本書はこれまでと同様に、ボルヘスボルヘスによるボルヘスについての短篇集であり、その到達を示すと同時に、植民地への眼差しや男性中心的な思考など、その限界をも露呈している。内田兆史による訳者解説では、無限について考えていればあまり意識されることのないそんなボルヘスの政治的な態度にも触れられており、初期から晩年まで、作品と絡ませながら彼の生涯を跡づける充実のボルヘス論だ。鯨井さんも述べていたが、むしろここをボルヘスへの入り口とするのも悪くないように思う(巻頭の「一九八三年八月二十五日」がネックだけれども)。
 一読して印象的だったのは「パラケルススの薔薇」。ここには物質の不滅と言葉の魔術が、端的に凝縮され語られている。

 

アンソニー・ドーア『すべての見えない光』

その数字が発せられ、家々の屋根の上、海の上で翼を広げ、どこかにある目的地に向けて飛んでいく。イングランドへ、パリへ、死者たちへ。

 文庫化を機に再読。五年前に読んだとき、ぼくはドーアがこの小説をあまりにも美しく仕上げてしまっていることに反感を覚えた。それは当時、ぼくの文学的関心――と云うほかないが――が「声」とでも云うべきもっと生々しく切実なものに向けられていたことに起因するのだろう。『チャイナ・メン』や『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』、あるいはこの本よりしばらくあとに読んだが、『チェルノブイリの祈り』や『面影と連れて』。そこに響き渡る固有の声、言葉にならない現実をそれでも言葉によって語り尽くそうとする豊穣で痛切な語り、ひいてはこちらを圧倒してくる交換不可能な人生の重みに較べると、ここはあまりに人工的で、美しいものしか書かれていない。貝、鳥、宝石。それらはいずれも標本箱に収められたりきらびやかに衣装を飾り立てるばかりで、海辺に棲む貝類の蠢きや、群れる鳥たちの落とす糞の雨に欠けているように思えたのだ――生きものたちの驚異とはそこにあると云うのに。とりわけぼくが腹立たしかったのは、そうして美しいものだけを並べ立てた挙句、小説が死をも美しいものかのように書いていることである。もちろん小説はそれを悲劇として書く。けれどもその悲劇は幻想的で儚く美しく「お涙ちょうだい」に見えるし、そうして流された涙は、戦争における最暗黒の悲惨――たとえば本書ではついぞ、強制収容所の悲惨は語られない――を覆い隠してしまうのではないか。『メモリー・ウォール』もそうだが、ドーアの小説にはまるで、切り出された宝石を自然の真なる美しさとして差し出されているような欺瞞がある。それは云わば、生きた鳥たちの生きた観察ではなく、殺して剥製にして鑑賞するような死んだ語りだ。
 しかし今回あらためて読んでみて、この欺瞞は小説がなし得る魔術のひとつなのかもしれない、と思い直した。剥製もまた科学であり、惚れ惚れするような技術である。それによって可能になることもまた、ある。リョコウバトが絶滅してもオーデュボンの絵が残ったように、空襲で街が破壊されても模型の街はかつての建物を記憶するように、そうして模られたパリとサン・マロの小さな街が、マリー゠ロールを導いたように。科学の営みと表裏一体にぴたりとくっつき、覆い隠される暗部――進化論は優生学へ接続され、ナチスは人体実験を施す――もまたわれわれは直視しなければならないけれども、本書が語ろうとしているのはそれでもなお、科学と云う人間が作り出した営為が戦時下にもたらした、ほんのかすかな希望なのだ。本書では科学の知見がイメージ豊かに綴られながら数字と模型に象徴され、そこから物語と記憶と云う『メモリー・ウォール』から続くテーマへ接続されている。数、数、数。本書にはたくさんの数が登場し、描写にあたっては必要以上に具体的な数が語られる。マリー゠ロールの父親は測量によって模型をつくり、模型と数字を使ってマリー゠ロールは家の外を歩くことができる。彼女に科学の面白さを、世界の広さを教えてるエティエンヌは、レジスタンスに加わって数字を読みあげる。ヴェルナーは数学と工学によって見出される。彼の妹ユッタは戦後数学教師となって、電車模型が趣味の会計士と結婚し、ふたりの息子は紙飛行機に夢中になる。そしてこの小説のもっともドラマティックな場面においてマリー゠ロールの声がヴェルナーに届くとき、彼女が読みあげるのは『海底二万里』と云う空想科学冒険小説なのだ。ふたりを結びつけるのは通信である。それは、人間がなし得たおそらく唯一の奇跡と云って良い。あるいはそこに、科学と虚構も加えようか。ともすると、言葉も。それはあまりにも人間中心的で胡乱な考えだけれども、小説はその奇跡を信じ抜く。切り出され、磨き上げられた宝石は、それを生みだした遙かな地球の営みに較べればいかにもちっぽけで、その美しさをことさらに謳うのは確かに欺瞞である。けれどもだからこそ、この大いなる時間のなかでほんの一瞬きらめく宝石の光もまたひとつの奇跡ではないだろうか?
 もちろん小説は一切を肯定するわけではない。数字の持つ両義性、人間が数字になることの恐ろしさもまた書いている。ヴェルナーは訓練で、敵を人間と見做さないことを教わる。「純粋な計算だよ」とヴェルナーは、先生の口調を真似て云う。「そう考えることに慣れねばならない」。彼は通信と計算によって反乱者を炙り出してゆく。けれども小説の都合上、彼がナチズムにすっかり呑みこまれてしまうことはないし、人間を厖大な数に均してしまう大量虐殺のシステムもここには書かれていない。そのあたり、両義性と云う言葉では擁護しきれない、眉に唾をつけたくなるところはまだ残されているし、作者の周到さにかえってうんざりすることもある。たとえば神様にでもなったかのように遠くに置かれた本書の視点は、模型と云うガジェットによって、世界を睥睨する神ではなく、マリー゠ロールのために模型を作り上げる父親の眼差しに準えられる。その巧妙は感心する一方で、読んでいて引いてしまうきらいもある。
 けれども、だからこそこの小説はぼくにとって、かつてのように退けるものではなく、興味深く読み、考えられるものになったと云えるだろう。それはぼくの小説に対する関心が変化したことを意味するのだと思う。書くこと。つくること。そうして世界と関わる方法は、一切の真実を捉え、すべての声をくまなく聴き取る以外にもあるのではないか。頭でっかちないまのぼくにはむしろ、それがひとつの模索するべき可能性に思われるのだ。